兆し
「君は誰?」
不意に出てきた観念に僕はたじろぐ。
向かっている鏡の僕が、僕に話しかけてきたように思えた。
「僕は僕だ」と即答できなかった。恐ろしかった。
「僕の存在意義って何だろう・・・。」
そんな風に漠然と戰慄を覚える。
見つからない答えを探し、もがく。
頭がぐるぐる回り出し、僕の意識が薄れていった。
どれくらい時間が経ったのだろう。
ふと我に帰る。
時計を見ると目眩に襲われてからまだ5分も経っていなかった。
僕の意識があることに少しほっとした。
「いつもの僕だ。僕だ。僕だ。」
そう言い聞かせたかった。
次の瞬間、その安堵は消える。
僕とは違う異質な存在、鏡の自分、がいた。
自分が僕の意識に干渉してくる。
こんな時、僕の中の闇(怪物と言うべきか)が牙を研いでいる。
極度の緊張でほとんど何もできない。
僕は僕、僕はボク、ボクは一体全体どうしたんだろう・・・。
今日は何もかもがおかしい。
やがて、ここぞとばかり、心のすきまに現れた自分が問う。
君は今何を思っている?悩んでいる?何を悲しんでいる?望んでいる?
そして、何を恐れている?
ありふれた質問だったが頭が回らない。
それでも、僕は平静を装い、律儀に答えた。
一人で暮らせるだけの稼ぎをし、平凡な社会人を送っている。
だが、最近、明らかにやる気を失っている。
この生活が足元から崩れていくことを恐れている。
自分よ。この満足な暮らしに何の文句を挟むことができようか。
自分がささやく。
本当に、君はこれで良いのか?
きらめき、ドキドキな転機があっても良いのではないか?
そして、自分が僕に問い迫ってきた。
転機なんてこちらにはごまんとある。感受性の問題だ。君は知らないだけだ。
君はそんなこともわからなかったのか?
僕は虚を突かれて、思わず本音で反論する。
普通の生活をするのに精一杯で、機会に対して鈍感力を使い続けている。
満足かといったら間違いだが、それなりに充足している。
敏感になって、いちいち、ときめいていたら、
心臓がいくつあっても足りない。心のゆとり-安らぐ-もなくなり、
きっと破天荒な生活になってしまう。
そう、いつでも怪物が襲ってきて今送っている生活をズタズタに
していく日が今か今かといつも怯え震えている。
君に僕の何が分かるんだい?
自分は僕の主張を淡々と聞き、ひいた視線で一言一言紡ぐように話す。
そうか、それが君の本音か。自分にも、怪物にも目を背けようと
してるんだね。そんなに君は臆病だった?
昼下がりの入道雲。
どんよりした曇りから、雨になり、雨脚が早くなっている。
雷雨になった。
吹きすさぶ夏の嵐。
何も怖がることもない。
人はいつでも過ちを犯す。
積み重なった報いは一つの怪物の仇で崩れ去りゆく。
君は恐れすぎだ。胸を張って前へ進めよ。
自分の幻影は満足そうに僕の頭から消えていった。
いつものように、鏡の私と今の僕に戻った。
僕は、お節介だったが不安と元気をもらった自分に、少し感謝、大いに不満を持った。
窓の向こうは夕暮れ時の朱色に輝く美しい虹だった。
これは明るい兆しなのか、それとも・・・。
何れにせよ、時は止まらず進んでいる。