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秘密組織に入りませんか?   作者: 志賀 健児 (シガ タツル)
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第1話 わはわでわでわ? 3


「これが、特別ミッション……?」

 クラトは呆然とつっ立ったまま、つぶやいた。

 クラトがいるのは、長生山の山頂の広場だ。

 これから特別ミッションのために移動すると告げられたのはいいが、ユーリは行き先は教えてくれなかった。

 各々自分の荷物を持ち、秘密の部屋から鏡の扉を抜けて八角堂のホールに出たクラトたちを待っていたのは三池だった。三池は大きなバッグを脇に抱えている。

 八角堂はクラトもこれまでに何度も利用してきたから、三池はクラトの顔と名前を見知っていた。それはクラトも同じだ。もともと面識があったので、あいさつは簡単だった。

 三池はわわわ会の協力者。子供たちだけで行動するのは限界がある。そういうときに三池がサポートしてくれることになっているのだという。

 本当に三池は協力者だったんだな、と思いながら、クラトは合流した三池と一緒にユーリたちと八角堂の外へ出る。そこから移動したのは長生山だった。

 八角堂から公園の敷地を抜けて山の上の広場に上る階段がある。クラトはユーリたちに連れられて階段を上り、広場に上がった。

 そこでクラトたちを前にユーリが口にしたこの日のミッションは――。

「草むしり?」

 世界平和を実現するための特別ミッションが、草むしり?

 口を開いたまま、クラトはたっぷり十秒は固まった。目をぱちくりさせる。

「ぼさっとしてんなよ、クラト! どっちが多くむしれるか、競争だかんなッ!」

 威太郎はここでも元気だ。すでに両手に軍手をはめ、握りこんだ右こぶしを左手でバシッと受け止める。クラトを見て、挑発的ににやりと笑う。

 ミヤたちもそれぞれ自分の荷物から軍手やタオルを取り出している。

 クラトの目の前にも、軍手が差し出された。ユーリだ。

 クラトはユーリから一組の軍手とタオル、スポーツドリンクのペットボトルを受け取る。そして言われるまま、リュックのポケットに突っこんだままだった帽子をかぶり、渡された軍手をはめた。ペットボトルは、帽子を入れていたリュックのポケットに入れておく。

 帽子をかぶり、軍手を装着し、首にはタオルをかけたスタイルに仕上がった子供たちに、三池が手渡したのはボランティア清掃袋と呼ばれる、市から支給されるゴミ袋だった。この袋に、むしった草を入れるように、ということだろう。

 クラトはその場に立ち尽くした。頭の中は、草むしり? 草むしり? 草むしり? 草むしり? 草むしり? ………………???

「草むしりって、平和に繋がるの?」

 クラトの口からこぼれ出た疑問は当然に想定してあったのだろう。ユーリは平然とした様子でクラトを手招きする。涼やかな顔だ。

「やりながら教えてあげるよ。とりあえず、ぼくとクラトで組むから。後は――」

 ユーリの視線を受けて、すかさずミヤが反応する。

「ぼくと小春、威太郎とカヤ、かっつんは三池さんとでいいよな?」

 小春はにこにこ笑っているが、威太郎と伽耶子は不満顔だ。同時に異論を唱えようとして、「五年生と四年生のペアだね」とユーリが先回りして二人の口を封じる。

 「カヤ、威太郎のお守り、よろしくな」「威太郎、カヤのガード頼むぞ」とミヤに言われ、「お守りってなんだよ」「ガードなんていらないわよ」とそっぽを向きながら二人は抵抗をやめる。

 三池は、クラトが知るいつも通りの穏やかな顔だ。「それでは翼さん、行きましょうか」と声をかけると、翼がこくんとうなずく。三池は右手を翼とつなぎ、左手でボランティア用のゴミ袋を持って公園の左手へ向かう。

 「じゃあ、オレらも」と、ミヤと小春は公園の奥へ、「行くぞッ!」「命令しないで!」と、威太郎と伽耶子は右手へ、それぞれ二人組に分かれて散っていく。

 その背に「三時になったら、集合だよ」と声をかけると、ユーリはクラトを振り返り、「それじゃあ、ぼくたちは向こうをやろうか」と八角堂とは反対にある石段を指差した。

 くるりと身体の向きを変え、ユーリは歩き出そうとして足を止めた。思い出したように、斜めがけしていたボディバッグから何かを取り出した。

「これ、クラトの分。渡すの忘れるところだったよ」

 ユーリは手に握った物をクラトに向けて差し出す。クラトは素直に受け取った。

「それ、防犯ブザーなんだ、わわわ会からの支給品だよ。なくさないようにね」

 防犯ブザーと聞いて、クラトはびくりとする。うっかり落としそうになってしまった。

「防犯ブザー? これが?」

 クラトはまじまじと手の中のものを見る。緑色の、ドーナツ状の持ち手がついたキーホルダーにしか見えない。

「ここをこうすると音が鳴るから、使い方、覚えてね」

 ユーリに説明され、クラトはおっかなびっくり、うなずいた。落とさないように、大事にポケットにしまう。

「大人数で草むしりをするならここまで警戒する必要はないかもしれないけど。こういう公園とかって、人気がないから意外と危険かもしれないんだ。だから草むしりのときも単独行動はやめて、二人以上で組になってやるようにしてるんだよ」

 防犯ブザーはすぐに使えるようにしておいてねと言いながら、ユーリが歩き出す。

 危険?

 夜ならお化けが出そうで怖そうだけれど、昼間なのに? と思いながら、クラトはユーリの後を追う。ユーリは追いかけて来たクラトを待って、二人並んで移動する。

「クラト、ミヤにミヤもハーフなのって聞いてたけど、それってクラトはハーフってこと?」

「あ、うん……ぼくのお母さんがバングラデシュって国の人なんだ」

「バングラ? そうなんだ。言われてみるとそうなような……? ごめん、やっぱり言われないとわかんないもんだね」

「お母さん、ぼくを産んですぐに死んじゃったらしくて、ぼくも自分自身でよくわかってなくて。バングラデシュのこともなんにも知らないし」

「そっか。ぼくの母親は生きてるけど病気で長く入院してて、めったに会うことはないし、連絡も取ってない。母さんがいるのは東京の病院なんだ。父親も東京で暮らしてて、今いっしょにいるのは母方のおじいちゃんとおばあちゃん」

 と、それぞれの家族のことを話していたら、目的の場所に着く。

 ユーリは石段を降りてすぐ、道の脇のつつじの植えこみに生えた草の前にさっそくしゃがみこんだ。クラトはあわててその隣にしゃがみこみ、二人は荷物を置いて、並んで草に手をかける。

「むしった草は、この袋に入れてね。それから、水分補給はこまめにして、あまり日に当たり過ぎないように。具合が悪くなったときはすぐに言うこと。約束して」

 ユーリがボランティア袋を差し出し、注意事項を並べていく。クラトはユーリに言われたことを頭に入れて、ユーリと並んで草をむしり始めた。

 はじめはちょこちょこユーリの様子をうかがいながらむしっていたが、やっているうちに無心になっていった。二人、少しずつ移動しながら草をむしっていく。

 いろんなことで頭がいっぱいになっていたクラトにとって、何も考えずに草をむしる時間はちょうどいい骨ならぬ頭休めになっていた。石段を移動しながら草をむしっていく。

 風光る午下がり、静かな時間が流れていた。



         ※  



 三十分ほどむしっていたら、少し休もうかと、ユーリに言われ、クラトは手を止めた。ユーリは自分の荷物の中から水筒を取り上げている。

 クラトはうなずいて、自分もリュックのポケットに入れていたペットボトルを取り出した。二人並んで石段に腰かけ、水分を補給する。のどが潤うと、人心地つく。

「ほっとした? それとも、残念? 秘密組織にスカウトされて、初めて参加する世界平和のためのミッションが、近所の公園の草むしりなんかで」

 ユーリがふふふっと笑いながら問いかける。

「……びっくりした。――秘密組織なのに、みんな堂々と活動してるんだね」

 クラトが言うと、ユーリは自分を扇いでいた手を止め、秘密組織の秘密を告げた。

「わわわ会ではね、活動自体を秘密にしているんじゃなく、ぼくたちの活動の本当の目的を秘密にしてるんだよ」

「ええ、どうして? 世界平和のためってことを秘密にする必要があるの?」

 クラトは驚いた。

 秘密組織と聞くと、少し怖いけれどわくわくする。わわわ会が『秘密組織』なのは、ただの『クラブ活動』より、そっちの方がカッコイイからだと思っていた。

 わわわ会の考えを、クラトはまだよくわかっていないけれど、それでも人にやさしいことを言っていると受け止めていた。秘密にする必要なんてあるのだろうか?

「あの部屋で少し話したけど、『国のためだ』『アジア民族の繁栄のためだ』……そんなものをかかげて日本は過去にたくさんの非道を敷いたことがある。それと同じようなことを繰り返しちゃいけないと思うんだ」

「繰り返さないために、秘密にするの?」

「わわわ会を秘密の組織にしておくメリットはそこかな、って思う。そこがいいところかな、って。――世界平和のためだと主張することも、日本が戦争でたくさんの人を虐げたのと同じ危険をはらんでいるから」

「危険?!」

 クラトは目をむく。平和にしようとすることが、何の危険をはらんでいるのだろう?

 クラトはユーリに驚きと疑いの目を向けるが、ユーリは揺らがない。

「戦争に反対する反戦運動だって、度を越せばテロや暴動になってしまう。日本や外国の歴史を見ていると、『善いこと』だと人に思わせる考えは、人の心を操る魔力を秘めているんだな、って思う。だからね、『善いこと』は、用心して使わなければいけないんだ」

「………………いいことなのに?」

「世界平和のためだと思うと、自分たちは『善いこと』をしている気になってしまう。周囲に対して、自分たちと一緒に世界平和のために努力するべきだと――『善いこと』には従うべきだ、従わない方がおかしいと、思ってしまうかもしれない。聞かされる相手だって、『善いこと』に従わなかったら、自分たちの方が悪いことをしている気にさせられてしまうかもしれない」

 ユーリは汗ではりつく髪をかき上げる。

「何を大切に思いどんな行動をとるかということ、『思想』とか『信条』とか言われるものは、人に押しつけられていいものじゃないんだ。それぞれの人が、それぞれの考えで選ぶものなんだ。そしてね、何を選んだかは、人に言って回らなくても、自分自身がわかっていればいいんだよ」

 だから、表立って世界平和のためだと言わないようにしているのだと、ユーリは語った。

 「善いこと」はいいものだと疑いもしなかったクラトは、気の引き締まる思いがした。

 ユーリはやさしく言う。

「クラトも、わわわ会に入るかどうか、自分で考えて自分で選んでね」

 すっかり仲間入りしてしまったみたいになっているけれど、クラトはまだ、入るかどうか決めていない。ユーリに言われ、そのことに気がつく。

 わわわ会に入るかどうか。それは自分で決めること。

 クラトは慎重にうなずいた。

「そういうわけで、あの部屋の外で活動するときは、三池さんが主宰している八角堂のボランティアサークルの活動ってことにしてあるんだ。表向きはね。だけど、その裏の顔は――」

「秘密組織 わわわ会!」

「そういうこと」

 ユーリがよくできました、とほほ笑む。

 クラトは改めて、ユーリに尊敬のまなざしを向ける。

「わわわ会って、すごくいろんなことを考えて、いろんなことに気を遣っているんだね。ぼく、びっくりした。大人の人だって、みんなみたいに難しいこと、考えてないんじゃない?」

「そうでもないよ? ぼくたちなんて、まだ草むしりとかしかできないけど、学校を建てたり、復興支援をしたり、大人ってすごいこといっぱいしてるよ。どうしてこんなことができるんだろう、どうしてこんなことができたんだろうって、スゴイって思う人、日本にも他の国にもたくさんいるよ」

 ユーリはなんてことないように言う。

 そんなもの? ……イヤ、そんなことない。

 クラトの胸に不安の波がじわりじわりと打ち寄せて来る。

 どうしたら、みんなみたいに立派になれるんだろう?

 こんな風に一緒になって草むしりをしていれば、それでなれるのだろうか?

 そう考えて、「あ」とあることを思いつく。

「草むしりをするのは、ボランティア活動のフリをするため?」

 それなら納得がいくとクラトは思った。

「フリ?」

 ユーリが目を丸くする。

 ユーリはボランティア袋を手に取って立ち上がり、石段を下りる。歩道に出ると、視線を下げて茂みを時折かきわけながら何かを探すように歩道をうろうろ。そして足を止め、「ね、これ見て」とクラトに声をかけた。

 クラトはペットボトルを石段の脇に置いて、ユーリのところへ駆け寄った。言われたところへ目を向ける。

 ユーリの指は歩道沿いに植えられたつつじの根元を差している。目を凝らすと、指の先にお菓子の袋があった。Sサイズのスナック菓子の空き袋だ。クラトはそれを見て、あ、ゴミだ、と思った。ゴミだ――それだけだった。

 ユーリはなぜこんなゴミを見せたのだろう?

 意図がわからず、クラトは首を傾げる。

 ユーリを見ていると、彼はお菓子の小袋をつかんでボランティア袋に入れた。小袋の奥には、ガムの包み紙も落ちていた。その左のつつじの枝の低いところにはティッシュを丸めたものがひっかかっている。よく見ると、あちらこちらの草や枝の合間に、土ぼこりで汚れたゴミが紛れていた。それらをユーリは丁寧に拾い上げて、袋に入れていく。

「草がぼうぼうになっていると、ゴミを捨ててもいいんじゃないか、っていう気になりやすいんだよね。だけど、チリ一つないところなら、なるべくキレイにしておこうという気になると思わない?」

 手を動かしながら、ユーリがクラトに話しかける。

「まあ、そんなのおかまいなしにぽいぽいゴミを捨てちゃう人はいるけどね」

 クラトは草をむしってキレイにしたところと、まだ手を入れていない草がぼうぼう生えているところを見比べた。

 草をむしったところはすっきりしている。植えこみの土があらわになったところにゴミを捨てたら目立つだろう。

 それに比べて、草が生えているところにゴミを捨てても隠れてしまうので、悪いことをした気にならないかもしれない。

 どちらがゴミを捨てやすいかと聞かれたら、ほとんどの人が、草がぼうぼうに生えているところだと答えるだろう。

「街をキレイにしておくと、犯罪も減るんだって。ニューヨークの地下鉄は、昔は汚くて治安も悪かったけど、掃除してキレイにしたら、犯罪が減ったらしいよ。街が汚いと、心が荒んじゃうんだね。汚したっていいじゃないか。だって、他にもこうやって汚しているヤツがいるんだから――そんな感じになっちゃうのかなあ?」

 ユーリはタオルで汗をぬぐいながら、キレイにしたところを見下ろしている。

「ほら、学校でもみんながだらけて掃除しないでいるときに、一人だけまじめに掃除しようとしても、やりにくかったりしない?」

 ユーリが顔を上げてクラトに聞く。想像すると、「まじめぶってるとか言われそうで、やりにくいかも」と、うなずけた。

「そうそう。まじめにやって何が悪いんだ、って話だけどさ。逆に、みんながまじめに掃除していれば、ふざけにくいよね」

 それと同じで、ゴミが捨てられていればつられてゴミを捨ててしまう人が出てきやすいということなのだろう。クラトはなんとなく、ユーリの言いたいことがわかった。

「草むしりをするのはね、街をキレイにして、犯罪をしにくい空気作りをするためだけどね。ほら、こういう、道に生えた草をむしるのは、他にも意味がある」

 と、しゃがんで車道の道端に生えた草に指をかける。

 山裾から山頂の公園へ登る車道はアスファルトで舗装され、並走する歩道は、小さな六角形のブロックタイルを敷きつめて舗装されている。その歩道と車道の段差のアスファルトを割って、ぴん、とクラトのひざ丈の草が生えていた。

「こういうアスファルトを割って生えている草って健気っていうか、がんばって生きようとしてる気がしちゃって。そういう草をむしるのってかわいそうで、ちょっと罪悪感を感じてしまわない?」

 ユーリに問われ、クラトはうなずく。

 花壇に生えている草は、植木のジャマになって見えるけれど、道路に生える草は、草の方が主役のような気がする。

 けれど――。

「でもね、この草をこのまま放置していると、どんどん増えていくから、道路が少しずつ荒れていっちゃうだろう? 歩道だって、タイルの隙間から芽を出して草が成長すると、せっかく舗装してあったタイルが押し上げられて道がでこぼこになってしまう。そのままだと歩きにくくて危ないから、修理しないといけなくなるよね?」

 クラトは、草によって割けたアスファルトに目をやった。力強く根を張る草にばかり注目してしまうけれど、視点を変えて見ると、崩れた道が痛々しく見える。

「道を修復しなくていいように、草をつんでおかないとね」

 そう言って、ユーリは車が来ていないか、上方や下方をうかがって安全を確認してから、道路に生える草を引き抜く。

「名もなき草になろう、なんて言っておいて草をむしってるんだから、それってどうなの? って思わなくもないんだけどね。でも、草むしりやゴミ拾いで人の安全をちょっとでも守っていける。そういうのがソウ力で、ソウ力を使っていくのが、わわわ会の活動なんだよ」

 草をむしるのに、そんな意味があったなんて……。

 クラトも歩道のタイルとタイルの間にまばらに生える草をむしった。

 むしった草を袋に入れながら、

「さてと、休憩はもういいかな? 作業に戻ろうか」

 ユーリがクラトをうながす。二人は石段に置きっぱなしにしていた荷物を邪魔にならないところへ置いて、植えこみや歩道に生えている雑草をさくさくむしっていく。そして、散らばった草を集めてボランティア袋に詰めこんだ。



          ※



「くぅッ! この勝負、引き分けか!」

 威太郎が苦悶(くもん)の表情で二つの袋を見比べている。一つはクラトたち、もう一つは威太郎たちが集めた草。袋はどちらも満杯だ。

「勝負なんて言ってるの、あんただけでしょ。バッカじゃないの? そんなのいいから、早く準備を手伝いなさいよ!」

 伽耶子は威太郎に小言を言いながら、ミヤと一緒に大きな木の下にシートを広げている。

 三時になり、クラトとユーリが集合場所に戻ると、三池が大きなバッグの中からシートやお重を取り出しているところだった。

 木陰に敷かれた大きなシートにそれぞれ荷物を下ろすと、ペットボトルや水筒を手に、輪になってお重を囲む。これも三池が用意していたウェットティッシュのボトルを回し、それぞれ手の汚れをしっかり拭う。

「うっひょお! おばちゃんの手作りお菓子だ!」

 威太郎が跳びはねて喜ぶと、「土ぼこりが立つでしょ!」と伽耶子が目くじらを立てる。

 三時のおやつは三池の妻が手作りしたというお菓子だ。三段重ねの重箱を一段ずつ外し、シートの上に広げていくと、子供たちの歓声が上がる。

「あ、マフィンがあるよ。食べる?」

 とユーリが声をかけると、いつの間にかユーリの後ろに寄っていた翼が小さくうなずく。どうやら翼はマフィンが好きらしい。

 料理自慢だという三池の妻はずいぶん張り切って作ったらしい。チョコチップが入ったものやナッツが入ったものなど数種類のクッキーにマフィン、ドーナツ、ウィンナーの入った小さなアメリカンドッグやジャムを挟んだロール状のサンドイッチまで入っている。

 クラトはごくんと生唾(つば)をのみこんだ。

「いただきまーす!」

 翼はユーリに取ってもらったキツネ色のマフィンをもそもそと食べ、小春はどれを食べるか思案に思案を重ねている。さんざん迷い、ドーナツを一つ取り上げ、小さく千切って口に運ぶ。小春が一つ食べる間に威太郎はぽいぽいっとクッキーを自分の口に放りこみ、マフィンを食べ、水筒のスポーツドリンクをごくごく飲む。

 お菓子はどれも美味しく、三池と子供たちのお腹を満たしていく。

 お腹が空いていたのはクラト一人ではなかったようで、誰も口を聞かず、黙々とお菓子を食べ進む。お重の中身が半減したころ、ようやく話をする余裕が出てきた。

「クラトッ、ちっとは頭ん中、落ち着いたか?」

 威太郎はクラトに問いかけ、ドーナツにかじりついた。

「うん……」

 クラトはあいまにうなずいた。

「わわわ会に入るんだろッ?」

 威太郎はクラトが当然そうすると言わんばかりの口ぶりで聞く。また一口かじって、

「カーコがまだクラトが入るかどうかわかんねーとか言うからッ」

 口をもごもごさせながら、威太郎がぶすーっとした顔をする。

 どうやら、二人で草むしりをしている間に、クラトのことでひと悶着(もんちゃく)あったらしい。

「ええと……」

 クラトは口ごもる。

「ん? 迷ってんのかッ?」

 威太郎がきょとっとした目で口をパカッと開く。

「ちょっと! ヤダ、汚いぃ」

 と伽耶子がまゆをひそめる。威太郎の口の中には咀嚼(そしゃく)している途中のドーナツ。伽耶子が嫌がるのも仕方がない。

「あ」

 やべッ、と威太郎が口を閉じ、急いでごくんと口の中のものを飲みこむ。

 その様子を見て、「もう!」と伽耶子があきれた声を出す。

「威太郎、わわわ会に入るかどうかはクラトが決めることだから。クラト、今すぐ決めることはないよ。まだわわわ会が何をやってるか、伝えられてないことがいっぱいあるし」

 入るかやめるか、心が定まってからでいいよ、とユーリが言う。威太郎は一瞬、反論しそうな気配を見せたが、すぐに思い直したようで、大人しく残りのドーナツを口の中に押しこんだ。

「ぼく、みんなの話聞いてて、わわわ会ってスゴイって思ったし、楽しそうだなって思った。でも、ここでぼくも入るって言うのは簡単だけど、それでいいのかな? って。もっとちゃんと考えたい、って思って」

 クラトが話し始めると、みんな黙ってクラトの話に聞き耳を立てる。

「みんなの話、びっくりすることばっかりで。さっき、ユーリくんから草むしりにもすごく意味があるんだよ、って教えてもらって。草むしりが防犯になるとか、考えたこともなかったし」

 クラトは考えながら自分の思いを口にする。

「そもそもぼく、ほら、街路樹とか植え木の手入れをしている大人の人たちがいるでしょ? 公園や街の草むしりって、そういう仕事、緑の手入れをする仕事をしている大人の人たちがするものだと思ってた」

 クラトが言うと、威太郎は五つめのクッキーを口に入れようとしていた手を止めた。

「なに言ってんだよッ、大人にはもっと大人にしかできないことしてもらわねーとッ!」

「大人にしかできないこと?」

「そうだぜ。大人ってめちゃめちゃすげぇんだからッ! 街路樹の剪定(せんてい)とかはさ、クレーン使わないと高い所の手入れできねーだろ? そういうのは子供じゃできない。技術とか知識とか免許とか経験とか体力とか、子供が持ってないものを持ってるのが大人なんだから、大人には大人じゃないとできないこと、やってもらうべきだって!」

 言いたいことを言って、威太郎はクッキーを美味しそうにほお張った。

「確かに、大人にしかできないことってあるよね。だけど、草むしりならぼくたちにもできる。子供にしかできないことや、子供だからこそやりやすいこともあるよ」

 「超能力者じゃなくてもね」と、ユーリが笑う。

「子供だからこそやりやすい? そんなこと、あるの?」

「あるぜ。あいさつ運動なんかそうじゃねぇ? 子供だったら、どんな人が相手でも、あいさつするの、変じゃないだろ? あいさつ界じゃ、子供は無敵だってッ」

 威太郎が即答すると、「あいさつ界って何よ」とツッコミを入れながら、伽耶子も「大人になってから見知らぬ人にあいさつするのって抵抗ありそうだけど、子供のうちからやってれば自然と身につくわよね」と威太郎の意見自体には賛成する。

 ユーリも「防犯対策になるしね」とうなずいた。

「防犯対策?」

「あいさつが浸透すると、そこに住む人たちが顔見知りになるだろう? そうなれば、ふだん見かけない人がいたら、街の人間みんなが警戒することになる。犯罪を犯そうとしている人は、あいさつをよくしている街を避けるというデータもあるんだよ。あいさつをしている街では人の目が光っているから、子供を誘拐するような犯罪はやりにくくなるってことじゃないかな」

 とユーリは説明した。

 あいさつすることにそんな効果があったなんて。クラトは驚く。

 街の防犯になるのは、草むしりだけではないようだ。

「防犯って大事なんだよ? 防犯することで犯罪が減るだろう? 犯罪の多い国と少ない国だったら、どっちがよその国から信用してもらえると思う?」

 ユーリがクラトにたずねると、横合いから威太郎が口を出す。

「犯罪の少ない国ッ!」

 あんたには聞いてないわよと伽耶子に制されても、威太郎は平気な顔だ。伽耶子が食べようと手を伸ばしたロールサンドを、これも横合いからかっさらい、怒った伽耶子に肩を叩かれながら口に押しこむ。

 ぎゃーぎゃーやり合う二人をよそに、ミヤが別の効果を指摘する。

「犯罪が少なければいいことは他にもあるよなー。犯罪が減れば被害者が減るっていうのはもちろんだけど、犯罪を解決するためには警察の捜査費用や人員が必要だからさー。犯罪が減れば、その費用や人員が要らなくなるワケで。それに、刑務所に入らず社会で働いて生産したり消費したりする人が多くなるから、経済が活性化する……ってことだったんじゃないっけ? それと、刑務所を維持するための費用も減らせるよなー?」

「浮いた費用は他のことに回せるし、警察の人たちも、犯罪者を捕まえることより、犯罪を予防することに力を入れられるってことでしょう? いい循環が生まれるかも」

 伽耶子が言い添えると、「草むしりも同じだね」と、ユーリが話を継いだ。

「草をむしることで車道や歩道が壊れるのを防ぐことができれば、補修するための人手やお金が必要なくなる。人手やお金って限りがあるから、何に使うかは大切だよね。国内外の復興や海外支援、生活に困っている人のために回したいよね」

 と、あいさつや草むしりが、復興費用や海外支援に繋がった。

 わわわ会にかかれば、いろんなことがいろんなことに結びついていく。驚きの連続だ。

 クラトは改めて、ユーリたちの考えに感嘆する。

「今ってさ、大人ってダメ人間、みたいに思ってる人が多そうな気がすっけど、大人って実際は、ホント、マジですんげーよなッ」

 威太郎が喜々として言うと、

「そうそう。こないださ、うちに水道の検針に来たおじさんがいるんだけど。あ、水道の検針ってわかる?」

 とミヤに聞かれ、クラトは首を傾げる。

「水道のメーターって言って、ほら、車のスピードメーターみたいに針が数字を指すヤツが家とかマンションとかの敷地のどっかにあるんだけど、そこんちで水が使われるとその針が使った分の数字んとこに動く仕組みになってんの。んで、どれくらい水を使ったかを針の位置とかで確かめて水道料金を請求するようになってるらしくって、そのメーターを調べに来るのが検針の人なんだけど」

 ミヤはそう説明しながら、手首を起点に、人差し指を扇をなぞるように左右に動かす。メーターの針を表現しているようだ。

「そこんちの建物や敷地の中の水道管のどこかが割れたりヒビが入ったりして水が漏れていたりすると、メーターの針がピタッと止まんないワケ」

 とミヤが言うと、威太郎が納得する。

「水が出ていく分だけメーターの針が動く仕組みになってるんだから、水がちょろちょろ出てたら針もちょろちょろの分だけ動いて、水がじゃんじゃん出たら針も大きい数字に動いていくってことだよなッ。っつーことは、誰も水を出してなかったら、針は動かないで止まってるってことだッ」

 ミヤはうなずいて、

「そうそう。んで、こないだの検針のおじさんの話なんだけど、そのおじさん、『水、今、使ってますか? 針が動いてますけど』って知らせに来てさ。オレ、メーターを見せてもらったんだけど、針、動いてなかったの」

「え? なんだよッ、動いてなかったって、おじさんの見間違えってことかぁ?」

 威太郎がいぶかしげな顔をすると、「んにゃ」とミヤがまじめな顔で首を振る。

「それがさー、めちゃめちゃすんごーいちょびぃっとだけ、動いてたんだよー」

 と今度は梅干しでも食べたように口をすぼめた顔をする。よほど針の動きが微々としたわずかなものだったのだろう。

「それって、どっか水漏れしてたってこと?」

 伽耶子が心配そうに聞く。ミヤはパッと明るい顔になり、

「あ、ソレ、大丈夫だった。じいちゃんがトイレに行って水を使った直後だったせいで水がまだキレイに止まってなかったのが針に出てただけでさー。しばらくしたらちゃんと針が止まった」

 と言った。それを聞いて、

「そっか。よかったね」

 ユーリが言うと、ミヤが嬉しそうな顔をする。

「でもぉ、そんなにちょびぃぃぃぃぃぃぃぃぃっとしか針が動いてなかったのぉ?」

 と、小春が右と左の人差し指を近づけて、あるかないかのすき間を作ってみせる。指に合わせて左右の目が寄っていくのでちょっとおもしろい顔になっている。

「そうそう。ホンットにちょびっとでさ、じーっと見ててもわかんないくらいちょびっとだったの。それをさ、おじさん、よく気づいたなーって思って、マジですごいーって思った。ああいうのもやっぱ職人技だよなー」

 と、ミヤは腕組みして感心しきりだ。

「んで、何が言いたいかっつーと、オレはおじさんのこと、すごい尊敬したってこと」

 と、ミヤがクラトに向かって言う。

「尊敬?」

 クラトが首を傾げると、

「だって、マジですごいって。本当に見過ごして当然なレベルだったのに、なんであんなん気づくかなー。アレってさ、うちは結局、水漏れじゃなかったからいいけど、ああやって検針の人が気づいてくれて教えてくれて調べてみてどっかの水道管に亀裂が入ってて、水がジャバジャバ漏れる前に修理できた、ってとことかもあるんじゃないかって思ってさー」

 とミヤに言われ、クラトはハッとした。

「使うわけじゃない水を、ただ漏れさせるのってもったいないし、水道料金も無駄にかかっちゃって大変なことになってしまうものね」

「守られてるよなー、って思った」

 伽耶子とミヤの会話に、大人の仕事ってすごく意味があることなのかもしれない、とクラトは思った。いや、頭ではわかっていたつもりでいたけれど、よく考えたことがなかった。

 と、

「あ」

 クラトはあることを思い出した。

「ん? どした?」

 威太郎に顔をのぞきこまれ、クラトは威太郎を見返す。

「ぼくも大人ってすごいって思ったことある」

 と弾かれたように早口に言う。

「ナニナニ? 何があったん?」

 威太郎に聞かれ、クラトはそのときのことを思い返しながら口にする。

「あのね、ぼくのおばあちゃんがお正月に転んで骨折しちゃって」

 と言うと、

「ええ? 大丈夫かよッ」

 と威太郎が声を上げ、他のメンバーたちも心配そうな顔でクラトを見る。

「あ、それは大丈夫。もうほとんど治ってるから」

 とクラトが話すと、

「正月ならもう四カ月近く経つもんなッ」

 威太郎たちは一様にほっと胸をなで下ろす。

「あ、ごめんね、話、途中だったのに」

 とユーリに言われ、クラトは大丈夫だと目で返す。

 それからまた口を開き、当時のことを説明する。

「ぼくんとこ、お母さんがぼくを産んですぐに亡くなっちゃって、お父さんは仕事で忙しくてほとんど家にいなくて、おばあちゃんがぼくのことずっと育ててくれて……」

 とクラトが自分の家族のことを打ち明ける。

 クラトは母親を亡くしているし、父親が忙しく、ほとんど母子家庭ならぬ祖母子家庭状態だった。普通にお母さんがいてお父さんがいて、という家族ではないから、家のことを話すのはクラトには少し勇気のいること。

 優香のことはまだクラト自身の中で整理できていなくて話せなかったけれど、他の家族のことはユーリに先に話していたので、すんなりと話すことができた。

「お。クラトもばあちゃん子かー。オレもさ、父ちゃんと母ちゃんとオレの弟は福岡に住んでて、オレは小牟田でじいちゃんとばあちゃんと姉ちゃんと暮らしてるんだ」

 ミヤがばあちゃんっ子仲間だーと、嬉しそうに言う。

 小牟田市も福岡県のうちなのだけれど、小牟田で「福岡」というと、だいたいは『福岡市』の『天神』周辺地区のことを指している。

「ミヤの御両親は福岡でケーキ屋さんをやってるの」

 伽耶子が情報を差し入れる。

 ということは、ミヤのおじいちゃんが和菓子屋で、お父さんが洋菓子屋、ということだ。

「さっきクラトに話したけど、ぼくもおばあちゃん子のおじいちゃん子だよ」

 とユーリも混ざる。

「うちはじいちゃんたちは死んじゃって、父ちゃんと母ちゃんとオレと小春。けど、父ちゃんの知り合いのおっちゃんたちがしょっちゅう出入りしてっから、おっちゃんたちもいっぱいで家族」

 と語ったのは威太郎だ。ということは、小春の家族も同じということだろう。見ると、「そうだよぉ」と小春がうふふと笑っている。

「うちはパパとママと私だけ」

 と伽耶子は少し声をとがらせて、「あ、うちはパン屋やってるの」と、これはにっこり笑ってクラトに告げた。

「かっつんとこも父ちゃんと母ちゃんだけだよなッ。んで、父ちゃんはどっかのサラリーマンで、母ちゃんが専業主婦ってヤツ」

 と威太郎が説明すると、フードをかぶった翼の頭が、微かにうなずく動作をした。

「どっかのサラリーマンって……」

 とユーリはあきれ顔だが、会社の名前をクラトはよく知らないので、特に問題は感じなかった。

「ん? っつーことは、ばあちゃんが骨折したって、クラト、もしかしてすげー大変だったんじゃねぇ?」

 はたと気づいたように、威太郎が動きを止める。他のメンバーも「あ、本当だ」とざわざわする。クラトは、話したいことを思い出し、

「あ、それでなんだけど、実はね、おばあちゃんがごはん作ったり買い物に行ったりできないときに、ぼくがスーパーに買い物に行ったんだけど」

 と話し始めると、みんな「うんうん。それで」とクラトの話に耳をそばだてる。

「お惣菜のコーナーで揚げたてのコロッケがあったから、ぼくとおばあちゃんと、後、いちおうお父さんの分をカゴに入れて、おばあちゃんに頼まれてた他の買い物と一緒にレジに行ったんだけど。買い物用の折り畳みタイプのエコバッグもおばあちゃんから預かってたから、それに入れるからレジ袋は要りませんって言ったら、レジのおばちゃんが、『コロッケは揚げたてでまだあったかいから、他のと別にしとくね。あったかいのと冷たいのを一緒にしとくと、傷みやすいから』って言って、コロッケだけ別にビニール袋にササッと入れてくれて。ぼく、そんなの知らなかったから、すごいって思った」

 クラトは少し興奮気味に早口に語った。

「わかるー。レジの人もスペシャリストよねー」

「瞬時にどれからバーコードを通すか見極めてるよなッ」

「そうそう。んで、上手に別のカゴに入れていくんだよなー。アレ、いざやれって言われたらさー、どれから行って、もう一つのカゴにどう入れていくか、けっこう迷うと思う」

「それだけじゃなくてぇ、いろいろ気遣ってくれてたりするんだねぇ」

 と伽耶子、威太郎、ミヤ、小春もうなずき合う。

 するとユーリが、

「ちょっとしたところに、尊敬って生まれるんだよね」

 とほほ笑んだ。

 あ、尊敬――尊敬ってこういうこと?

 クラトは心のどこかにかかっていた雲に切れ間が見えた気がした。

「ぼく、実を言うと、尊敬されるなんて無理だって思って……」

「ん? どゆコト?」

 威太郎が首を傾げる。

 クラトは視線を落とし、しんみりした声で言う。

「名もなき一人ひとりの力が大切なんだよね? ってことは、一人ひとりが尊敬されないと、日本が世界から尊敬される国にならないってことじゃない? だけど、ぼくは立派な人間じゃない。スゴイところもない。ぼくが人を尊敬することはあっても、ぼくが人から尊敬されることはない。……だから、ぼくみたいな尊敬されない子がいたら、日本が尊敬される国になんてならないんじゃないかな、って、不安だったんだ」

 クラトはユーリたちの考えを聞くにつれ、彼らをスゴイと思う反面、自分はどうなんだろうとわが身を振り返った。

 『尊敬』というと堅い感じがするけれど、誰かのことをスゴイと思ったことならクラトにも何度もある。図書館の伝記に出てくる偉人も、アクションスターも、将棋や囲碁の棋士やマンガ家も、スポーツ選手も――将大も、スゴイと思う。

 けれど、クラトが誰かをスゴイと思うことはあっても、クラトが誰かにスゴイと思われるなんて、想像もできなかった。自分が尊敬されるなんてありえない。そう思ったら、クラトの気持ちは急速に(しぼ)む。それが心に不安となって残っていた。

 だけど、『尊敬』は、ちょっとしたところに生まれるものなのだろうか?

 まだ切れ間が見えただけで、不安の雲は晴れていない。そんなクラトにユーリは不意の質問をした。

「クラト、万引きってしたことある?」

 クラトにユーリたちの視線がすぅっと集中する。

「え? 万引き? 万引きって万引き?」

 クラトは思いもよらないことを聞かれ、とんでもないと首を振った。

「そんなこと、したことないよ」

 ユーリはうなずいて、

「それじゃあ置き引きは?」

 と聞く。

「おきびき? おきびきって?」

 クラトは万引きは知っていたが、置き引きのことはわからなくて聞き返す。

「置き引きっつーのはなッ、電車のイスとか、レストランのイスとか、駅とか、ちょっと荷物を置いておいただけなのに、ちょっと目を離したり、手を放したりした間に誰かに持っていかれちゃうことだぜッ」

 と威太郎がクラトの質問に答える。

「それって泥棒じゃないの?」

 クラトが目を丸くする。万引きも泥棒だけど、置き引きも泥棒することだったとは。

「したことないよっ」

 クラトは両手をぶんぶんと何度も交差させ、首を振って否定した。

「泥棒なんて、人の物を盗むなんて、そんなことしないよっ」

 クラトはユーリたち一人ひとりに訴える。

「じゃ、十分、立派やん」

 威太郎がけろりと言った。

「え?」

 クラトはまた目を丸くする。

「さっきの置き引きの話だって、日本では置き引きにあったって話、あんまり聞かないけど、フランスに住んでいる日本人の人が、前、テレビで言ってたんだけど、フランスでは――その人が住んでいる街では、ってことかもしれないけど――置き引きって結構ひんぱんにあるらしくって。奪られるような置き方をしている方が悪い、って言われるんだって」

 と肩をすくめる。

「置き引きって、だって泥棒だよ?」

 クラトはフランスでは置き引きが多いと聞いて驚いた。

 ドラマで時々見かけるような、自分が持っているのとよく似たカバンを間違って持って行ってしまうというのならわかるけれど、あるいは、誰かが置き忘れたものだと思って交番に届けるというのならわかるけれど、盗む……?

 もしも日本もそうだったら、バイキング形式のレストランで、料理を取りに行くときに自分の席に荷物を置いておくなんて怖くてできなくなってしまう。

 フランスは治安の悪い国だというイメージはないけれど、置き引きがちょこちょこいるような国なのか……いや、もしかして、置き引きがいるくらいのことは、治安が悪いうちに入らないのが、世界の常識なのだろうか?

「日本であたりまえなことが外国では違っていたり、外国では違うことが日本ではあたりまえだったり。そういうこと、結構あると思うぞ?」

 威太郎が「なぁ」とミヤに同意を求めると、「だなー」とミヤもうなずいた。

「だからね、万引きをしたり置き引きをしたり、もちろん、泥棒をしたりしないっていうことも、尊敬されるために大切なことだって思うんだよね」

「そうよね。置き引きがあたりまえの国からしたら、置き引きがないってすごく安心できて、いい国だな、って思ってもらえると思うもの」

 ユーリと伽耶子の説明に、クラトはまた驚かされる。

「万引きをしないとか置き引きをしないとか、泥棒をしないとか――人のものを盗まないでいるだけでも、この国を尊敬できる国にする、尊敬される一人になることができているってことだよ」

 ユーリはそう言ってクラトに笑いかける。

「だーかーらッ! ソウ力はすんごいことするんじゃなくても、すんごいソウ力になってるんだってッ」

 威太郎はそう言うと、親指を立て「にっ!」と笑う。

「自分の身を削ってどこかの国に学校を建てるのはスゴイけど、そういうことするんじゃなくても、やっちゃダメなことやらないだけでも、尊敬に値すること、なんだぜッ。っつーか、それって逆に、万引きなんかするのはもっての他ってことだぞッ。万引きは万引きっていうジャンルがあるんじゃなくて、窃盗、つまり、泥棒っていう犯罪なんだからなッ」

 威太郎が言うと、伽耶子も、「そうね」とため息をつく。

「万引きって、する方は少しくらいだからいいだろうって思うみたいだけど、される方は少しじゃなかったりするのよね。一人が百円の商品を万引きしても、毎日十人に万引きされたら、ええと、一カ月で三万円、一年で三十六万円も損することになる……」

 と伽耶子は、計算のところで自信がなさそうに、翼の方へ視線を送る。翼が微かにうなずいたのを確認し、パッと顔を輝かせる。

「一年で三十六万円も損することになっちゃうんだから、大変なことなのよね」

「万引きでお店が潰れることもあるって言うしなー」

 ミヤが伽耶子の後を受け、と口をへの字に結ぶ。

(ちり)も積もれば山となるって言うけど、万引き被害の額はかなりの数字になるって聞くもんね」

 とユーリも顔をしかめる。

 クラトはもちろんそんなことをしたことはない。見たこともない。けれど、万引きは身近な犯罪の一つだろうと想像できた。簡単に盗めそうな、無用心な店もある。

「万引きとかされちゃうと、物を盗られる側にも問題があるとか、防犯対策ができてないからだとか、盗まれた側が責められることがあるけど。冗談じゃないわよね。盗む方が悪いに決まっているじゃない!」

 伽耶子は憤慨(ふんがい)する。

「手を伸ばせば手に取れるものでも、持ち主の許可を得ることができないなら、自分のものにはできないし、してはいけないよね。それは自分のものじゃないんだから」

「生活に困って、せっぱつまって盗んでしまう人もいるかもしれないけどぉ、だからって盗んでいいことにはならないよねぇ。ほしいものを盗むんじゃなくてぇ、他の方法を探さないとダメだよねぇ。……どんな方法があるかなぁ?」

「相手のことを考えれば、盗もうとか思えないはずなんだけどなー。もしも自分のものを誰かに盗まれたら困ってしまうし、悲しいだろうしさー」

 伽耶子の怒りに、ユーリ、小春、ミヤが意見を言い合い、

「ほしいものがあっても、相手のことを考えることでぐっとこらえることができるッ。手を出すかどうか。最終的に自分を止めることができるのは、自分の意思だけッ。万引きにしろなんにしろ、誰もが犯罪を犯すまいと心がければ、犯罪は起きないんだよなッ!」

 アメリカンドッグを片手に、威太郎がビシリ! と決める。

 万引きを無くすには、万引きをしようとした人間が、やめればいいんだ。

 一人ひとりが万引きをしないでおけば、それで世界中から万引きという犯罪は無くなってしまう。

 ユーリの言ったことがクラトの頭の中によみがえる。

 するとミヤが、水筒のお茶をコップに注ぎながら、

「そう言えばさ、子供でもできること、他にもあった。和歌山県のエルトゥールル号の慰霊碑はさ、地元の小学生が掃除してるんだってよ」

 と言って、ごくごくとお茶を飲み干す。

「エル……ルルル? それって何?」

 クラトが聞くと、威太郎がぎょっとする。

「エルトゥールル号! トルコの船だよッ。クラト、知らねーの?」

 威太郎には知っていて当然の話らしいが、クラトは聞き覚えがなく、首をひねるばかりだ。

「明治時代、トルコ船のエルトゥールル号が和歌山県沖で沈没して、乗組員の多くが亡くなった――そういう事件があったんだよ。でも、日本に流れ着いた乗組員もいて、近くに住んでいた村人たちに助けられたんだって。その村の人たちは貧しくて自分たちもろくに食べていなかったのに、トルコの人たちに自分たちの分の食料を食べさせて、傷の手当てをして、七十人弱のトルコ人を救ったんだそうだよ」

 ユーリが簡潔に説明する。

「へぇ。すごいね、その人たち」

 クラトは素直に感心する。

 けれど、明治時代の話なら、今は昔話だ。クラトは、わわわ会のメンバーは物知りだな、と思っただけだったが、威太郎から意外なことを聞かされる。

「すごいのはその人たちだけじゃないんだぞッ。助けられた乗組員たちはトルコに帰国した後、日本人がよくしてくれたって、自分の国の人たちに伝えたんだ。そしたらトルコ中の人が感激して、助けてくれたことに感謝してくれた、ううん、今もずっと感謝し続けてくれているんだぞ?」

「今も? え? だって、明治時代の話なんでしょ?」

 クラトは驚いたが、ミヤがもっと驚くことを告げる。

「エルトゥールル号遭難事件はさ、トルコでは教科書に掲載されているから、トルコの人たちはみんなこのことを知っているんだってよ?」

「教科書に載っているの?」

 クラトは目を丸くする。

 日本では名も知られていない小さな村の村人たち。彼らの人助けが、遠い異国の地で未だに感謝され、教科書にも載せられているなんて、信じられない。

「トルコの人たちに親日家が多いのも、そのおかげなのよね。私からすれば、そんなに感謝できるトルコの人たちの方が、すごいと思うわ。東日本の震災の後も、トルコの人たちで救助支援とかしに来てくれた人たちがいたのよね」

「そうだなー。イラン・イラク戦争のときもイランに取り残された日本人を救うため、トルコが飛行機を飛ばして助けてくれたらしいもんなー。飛行機を飛ばしたら撃ち落とされかねなくてとても危険な状態だったのに、エルトゥールル号の借りを返そうって、国中の人が賛成してくれたんだってさ」

 伽耶子もミヤもトルコの人たちの思いの深さに感心している。

 トルコの人たちは、ずっと昔にトルコ人を助けてくれた日本人に感謝してくれているのに。なぜ自分は、日本人をトルコ人が助けてくれたことを知らないのだろう?

 クラトは疑問に思った。

 それが顔に出ていたのか、ユーリも苦い顔で言う。

「トルコの人たちは自分たちの危険を顧みずに助けてくれたのに、そのことを知っている日本人は少ない。それって恥ずかしいよね。日本では、知っておくべきことなのに語られていないことが多いんだ。もっといろんなことが語られているべきなのにね」

 クラトは空を見上げた。青くよく晴れていて、目にまぶしい。

 空は遠く異国の地へも続いているだろう。クラトはトルコの人たちに思いをはせる。

 日本人がトルコの人を助け、トルコの人たちが日本人を助けてくれた。人を助ける真心は、真心で繋がっていくのだ。

 そのとき、クラトの脳裏にひらめいた。

「名もなき民、一人一人の力こそが、この世界を平和へ導く力となる」

 草の書を読んだときに覚えた一節だ。無意識に、クラトの口をついて出る。

「そうだよ。エルトゥールル号の乗組員を助けた村人たちの名前なんて、きっともう誰もよく知らない。だけど、自分たちのなけなしの非常食でさえ差し出した彼らの、人を思いやる心が、乗組員の、そしてトルコの国民の心を動かしたんだ。名もなき人々が、後々、多くの日本人を救うことに繋がったんだ。人は国とか文化とか宗教とか飛び越えて、そうやって、心と心で繋がって、助け合って、救い合って、生きていくことができるんだよ」

 ユーリの言葉が、クラトの心に根を張っていく。

 草の力が、世界に繋がっていく。

「相手を思いやる真心があったから、トルコの人たちは感謝してくれたんだね。思いやりの和が輪になったんだ」

 クラトは大切な宝ものを見つけたように、つぶやいた。

「何をなすか、なさないか。それを決めるのは、人の心。争うか、助け合うか、それを選ぶのは、人の心次第。どちらを選ぶかで、人との繋がり方も変わってくるって思うんだよ」

 クラトに告げると、ユーリも空をふり仰ぎ、まぶしそうに目を細める。

 それからユーリは顔を戻し、自分の胸に右手を当てた。

「でもね、もっと根っこのところで思うんだ。苦しいときに、自分が助かるために人を見捨てたり、踏みつけにしたりすれば、心が苦しい。逆に、人が苦しいときに助けになれれば、こんなに嬉しいことってないよね、って」

 ユーリはそこで一度口を引き結ぶ。厳しい顔を見せ、口を開く。

「日本には負の歴史がある。おそろしいことをたくさんしてきた過去がある。――だけどね、だからこそ、おそろしいことをするより、人を助ける方を選びたいよね」

 ユーリはそう言ってクラトにやわらかくほほ笑みかけた。その笑顔がまぶしくて、クラトは目を細める。

 クラトには、ユーリの言うおそろしいことがなんなのか見当がつかないが、人を助ける方がいいという考えにはうなずけた。

「人を助けるっていってもさー、別にでっかいことじゃなくたっていいワケだしなー.」

「相手を思いやる心があれば、その心は通じるもの」

「一つ一つはでっかくない、ちっぽけなことだったとしても、みんながちっぽけなことをしていけば、ちっぽけじゃなくなるしなッ!」

 ミヤ、伽耶子、威太郎も口々に言う。

 一つ一つはちっぽけでも、ちっぽけじゃなくなる。

 万引きの話もそう。いや、万引きにしろそれ以外の犯罪にしろ、誰もが犯罪を犯すまいと心がければ――一人一人が心がけて一人ひとりがそうすれば、この世界から、本当に犯罪をなくすことだってできる!

 これも、一人ひとりの力を信じる、草及万里の考えなのだ。この世界の何もかも。どんな問題も、草の心、草のわで解決していけるはず。

 そして、その一人ひとりのうちの一人が自分なのだと、クラトは知った。

 この世界の問題は、ソウ力で解決できることだらけだってことに、驚かされると思うよ。

 ユーリの声が頭の中で再現される。

 草むしりもあいさつも、万引きをしないことも、あたりまえのことであたりまえにできていない世の中だ。それをあたりまえにできるようになれば、そういう人間が増えていけば、この世界は変わっていく。

 真心が人を変える。一人ひとりの心がけでこの世界が変わっていく。

 クラトは自分の中にふわふわただよっていたものが、急速にひとつにまとまって一本の道に形を変えていくような気がした。

「国が、ええと、国家? がどうするかじゃなくて! 人と人との繋がりが大事なんだね。一人一人が、うんと、……誠意! 誠意をもって、人が幸せになれるように考えて行動するんだ! 困っている人には親切にするとか、自分の分の食べ物をお腹を空かせた人にちょっとだけ分けてあげるとか、そういうことの積み重ねが平和を作っていくんだね!」

 それは、ユーリたちがいろいろな言い方で教えてくれていたことだった。

 ちょっとしたことでいい、少しのことでいいと言われていたけれど、それでいいのか、どこか自信がなかった。平和や戦争なんて大きなことに、自分が立ち向かっていけるなんて思えなくて、ちょっとでいいということを信じ切れずにいた。

 けれど――それでいいのだと、ソウ力がクラトの中で息づき始めた。

 クラトの顔に、心に、じわりじわりと笑みが広がっていく。

「そうだね。小さなことの積み重ねでいいんだよ。立派なことをした人間として名前を残したいわけじゃない。そんなもの残らなくていい。誰にも知られなくていい。無力でも微力でも、できること少しずつでいい。その少しずつが、この世界を変える何より大きな力になるって、ぼくたちは信じているんだ。それがわわわ会なんだよ」

 言い切ったユーリも、うなずくミヤも伽耶子も威太郎も小春も、そして顔を上げた翼も、クラトの目には輝いて見えた。

 その輝きが、クラトの心を照らす。クラトの心の雲が晴れていく。

 すると――。

「その、できること少しずつを積み重ねるときに大切なのが、自己責任――自分の行動には自分で責任を負う、ということなんだよ」

 ユーリがまた難しい言葉を使う。

「ええと、それって、自分がやったことで失敗したら、自分で責任をとらなきゃいけないってこと? ええと、例えば、食べ過ぎてお腹こわして苦しくても、文句言えないぞ、とかそういうこと?」

 クラトが考え考え言うと、威太郎が素早くビシリ! と間違いを指摘する。

「そういうのは自業自得っつーんだよッ」

 あ、そっか、とクラトは納得する。

 だとしたら、自己責任とは……?

「もしも危ないことをして大ケガしても、自分の好きでやったことだからしょうがない、とすることが自己責任じゃなくて。わわわ会流の『自己責任』は、自分にできないことは、『やらない』という決断を『自分で』することだよ」

 ユーリからそう説明されたが、クラトはいまいちピンとこない。

「例えば、高い木のてっぺんに登って降りることができなくなったらさ、レスキュー隊とか呼ばなくちゃいけなくなるワケでさ。そんなことになったら大変だしさ。だったら木に登るときに、降りることができるかどうかまで考えておけよってこと」

 とミヤが具体例を挙げて説明する。

 ユーリはミヤの言うことにうなずいて、

「そのためには、自分でできることかどうかをしっかり見極めることが大切なんだ。何か行動する場合には、そのときどんな危険が起こり得るかを予想して、対策を立てる必要があるんだよ」

 こめかみに人差し指を当て、考えろと仕草で示す。

「そ、そんな難しそうなことをしなくちゃいけないの?」

 クラトは驚くが、威太郎から鋭い声が飛ぶ。

「できなきゃ何もできないぜッ」

「ええ?」

「子供が好き放題やって何か問題が起きたら後のことは大人に任せます、じゃあ、大人だって子供に好きにさせるわけにはいかなくなるやろ? 子供のやることに口出しせざるを得ないって。んで、アレもダメ、コレもするなッ、ってがんじがらめコースに突入ッ」

 威太郎はあっさり言ってのける。

「何かしようとするたびにいちいち先生とか保護者とか、大人に責任を持ってもらわなきゃいけないとしたら、なんにもできなくなってしまうよね。それより、ぼくたちが自分で自分の行動に責任を負えるようになれれば、大人も安心できて、ぼくたち子供は、自分のやりたいことをやれるんだよ」

 ユーリに言われ、クラトの目からうろこが落ちる。

「子供のやることには大人が責任を持つんだと思ってた。……でも、そうじゃないんだね」

 クラトの口からぽろりとこぼれる。

「ぼくたちにだって、何がやっていいことで何がやっちゃいけないことか、何が危険なことで何が安全なことか、ある程度のことは判断することができるだろう?」

 ユーリは余裕の表情だ。

 そんなものなのだろうか?

「いじめだって自己責任だもんねぇ」

 と、ずっとお菓子を食べることに集中していた小春が話に加わった。

「え?」

 クラトはぎょっとして隣に座る小春のつむじを見下ろした。

「それって、いじめられる方に問題があるってこと? いじめられるかどうかは、その人の責任だってこと?」

 それはあんまりだと、クラトはうろたえる。

 小春はきょとんとあどけない顔でクラトを見上げ、小首を傾げた。

「逆、逆ッ! いじめられる方じゃなくて、いじめをやる方に問題があるってことだよッ」

 と、小春に代わり答えたのは兄の威太郎だ。「そうだよなッ」と小春に確認すると、小春はこくんとうなずいて「そうだよぉ」とにっこり笑う。

「いじめる方に問題がある……?」

 それはそうだろう、とクラトは思う。

 小春も威太郎も、何を言っているのだろう?

 ()に落ちない様子のクラトに、ミヤが気づく。

「いじめが問題になるとさ、すぐ、学校はどう責任をとるんだ、とか、教師は何をしていたんだ、って話になるやん? けどさ、いじめって学校とか教師とかの問題じゃなくて、何よりも、いじめをやった本人の問題なワケでさ。それを、いじめをやった子じゃなくて、学校や先生の問題にすり替えるっておかしくない? って話」

 ミヤはそれだけ言うと、ココア色とキツネ色のマーブル模様になっているマフィンにパクついた。

「子供にだって、いじめは悪いことだってことくらい、わからないわけないよね? なのに、その悪いことを自分で選んでやっているってことなんだから、その責任は、それをやった本人が背負うのが当然なんじゃないかな? それを、いじめをやる方にもいじめをしてしまうだけのなんらかの理由があるんだろう、って、まるでいじめの加害者が、被害者であるかのような扱いを受けてるのは不当じゃないか、つまり、おかしいんじゃないか、って話してたんだよね」

「何かの理由があったらいじめてもいいだろう、って――そりゃないだろッ? そこらへんがおかしいんだって」

「いじめをやるかどうかも、本人の責任なワケでさ。だったら、いじめをやったことで人から責められたり、そのことが内申書の評価とかに書かれたりするようなことがあったとしても、それはその本人が背負うしかないよなー」

 ユーリ、威太郎、ミヤがあきれたような、わずらわしそうな、苦い顔で言う。伽耶子は口を一文字に引き結んでじっとりまゆを寄せている。

「黒幕が他にいて、その黒幕に強要されて直接いじめを実行している子とかいたら、ちょっと難しいんだけどね。それにしたって、戦争の問題と同じで、どうにかいじめをやめようとする努力ができないかな、ってことかなと思うよ」

 と、ユーリは眉をひそめ、

「いじめをやった本人じゃないところに責任を求めるから、話がおかしくなるし、いじめもなくならないんだってッ!」

 威太郎は、少なくなったお菓子の中から、次にどれを食べるか、狙いを定めながら口にする。金魚すくいをするときに金魚を狙うような真剣な目だ。

 ミヤがロールサンドのラップをはがしながら、

「だからと言って、いじめをした本人をネットでさらしものにしたり、関係のない人が寄ってたかって追い詰めればいいっていうのとは違うけどなー。その辺は裏主義ってことで」

 と言うと、威太郎が弾かれたように、

「あ、そうだよなッ。『自己責任』は自己責任だけじゃなくって、自己責任を支える『裏主義』っつーのと一緒じゃなきゃ、効果がちゃんと出ないんだよなッ。……まあ、その辺はまた今度だなッ」

 と言うと、さっき選んだ抹茶のマフィンをかじる。

「たっくんは、『大声バスツアー』やれば、いじめはかなり減ると思うって言ってたよぉ」

 小春がおっとり言うと、

「あんだよ、ソレ?」

 と威太郎が口をもごもごさせながら聞く。もごもごさせているので「なんだよ」が「あんだよ」になっているが、本人はおかまいなし。

「何かなぁ? 聞きそびれちゃったから、わかんなぁい」

「なんで肝心なとこ聞いてないんだよッ?」

「だってぇ。たっくん、ご用があるってどっか行っちゃったんだもん」

 と兄妹で言い合いする。

 クラトはいじめがニュースで取り上げられるとき、学校側がいじめにどう対処したかばかりが問題になっていることに、これまで疑問を感じたことはなかった。けれど言われてみれば、いじめをした本人たちはどうしているのだろう?

 いじめはいけないことだってことくらい、子供でもわかることだ。

 からかっているだけでいじめていない、とか言っているのだろうか?

 それでいいのだろうか?

 自分で自分の行動に責任を持つ。

 自分がこうすると選択した、その選択に責任を持つ。

 それは、少し怖いことのような気がして、クラトは知らず身体を固くした。

 黙りこんだクラトに、ユーリと威太郎が注意点を挙げていく。

「『自己責任』で気をつけなくちゃいけないのは、冷静に見極めること。やりたいことがあるときって、やりたいことだから『安全なこと』なんだ、ってことにしてしまうことがあるんだよ。自分で自分をごまかすっていうか。でもね、本当に大丈夫かどうかなんて考えず、安全じゃないことを『大丈夫だ』と言い訳してやってしまったら、危ない目に合うかもしれないよね?」

「お腹いっぱいなのに、お菓子がおいしくて、まだ大丈夫、まだイケるって食べ続けてお腹こわして病院へ救急搬送、なんてのはナシ、ってことなッ。そんなことになったら、自分もしんどいし、病院の人にも自分の家族にも悪いし、めちゃめちゃカッコ悪ぃだろッ」

 二人の言うことを聞いて、ああ、なるほどと、クラトは納得する。

 ユーリは水筒のお茶をゆったり飲んで、

「草むしりを始めるときに、ちゃんと水分補給して、具合が悪くなったときには言うように言ったのも、自分で自分の体調を管理することが大切だからなんだ。体調って、他人からはわかりにくいからね。陽射しも強くなってきたし、熱中症や脱水症に気をつけなきゃね」

 と、手をかざして陽を見上げる。太陽は真上から傾いた位置にいる。

 熱中症はニュースでよく聞く、身近で怖い病気だ。命に関わる症状を引き起こすことがあるので、注意が必要なのは間違いない。

「人に心配をかけないように具合が悪いことを隠して体調を悪化させるより、正直に打ち明けて休んだ方が自分を大事にできるし、周りの人に迷惑をかけずにすむ場合もある。――一つのことだけを考えるんじゃなく、いろんなことを考え合わせる。そういう考え方を身につけていかなくちゃね」

 クラトを見て、ユーリがやわらかくほほ笑む。あわてなくてもいいと言うように。

「それって、どうやったら身につくの?」

 クラトは聞いた。

 そこが大事なところだ。クラトには見当もつかない。

「本を読むといろんな経験を疑似体験できるから、有効だと思うッ!」

 と即座に返したのは、薄紫の図書館カードを持つ威太郎だ。読書家ならではのアドバイスだろう。

「過去の体験とか、人の話を聞くのもすごく大事だよ。自分が同じ目にあう可能性もあるから、どういうことがあったか聞いておけば、参考にできるしね。ちょっと違うけど、言い伝えとかもおろそかにしない方がいいよね。東日本の震災では、津波に襲われたとき、昔からの言い伝えを守って助かった人もたくさんいるらしいから」

 ユーリが言うと、伽耶子とミヤと威太郎も意見を出し合う。

「小さな子の目につくところで危ないことをやらないっていうのも大事でしょ。自分が安全かどうかだけ考えればいいわけじゃないわよね。私なら跳び越えられると判断して溝を跳び越えて、それを見ていた低学年の子がマネして溝を跳ぼうとして、跳び越えそこねて溝の中に落っこちたら危ないもの」

「マネと言えば――ちょっと自己責任の話からはズレるけど――うちの姉ちゃんは、友達のやってることでいいなと思ったことはマネするんだってさー。友達から学んだことが多いし、今でも友達から学ぶことが多いって言ってた」

「オレ、習字の先生からは、『学ぶ』は『真似ぶ』ことから始めろって言われた。人のマネするのって主体性がないっっつーか、オリジナリティがないっつーか、自分を主張できてなくてカッコ悪ィ気がするけど、そうじゃないんだって。いいものをマネしているうちに、自分はここをこうしたいとか、ここはこうした方がいいなとか、自分なりの考えが生まれて来る。それが個性なんだって。だから、まずはお手本をマネしてしっかり練習しなさいって言われたんだよなッ。そしたら、いいところっつーか、『基礎』が身に付く上に、自分らしさも加わっていくんだって」

 ぽんぽんぽんっと出てくる意見に、また目が回りそうになりながら、クラトは三人の言ったことを頭の中に入れていく。

 自分のことだけ考えるのではなく、友達から学び、人のいいところをマネしていく。

 友達から学ぶというのはわかる気がする、とクラトは思った。将大の野球や野球に対する姿勢。一也や次哉がチームメイトたちを盛り上げたり、クラトのフォローをしてくれたりしていたのをチラリと思い出す。ああいう風になれたらいいな、あんな風にやればいいんだな、と思ったことを。

「他人のふり見て我がふり直せ、ってのも一理あるよね。ごはんを食べに行ったときとか、スーパーで買い物するときとか、いろんなお客さんがいるから、そういう人の振る舞いを見て、いいことしてれば自分の中に採り入れて、ああいうのはイヤだなっていうのは、やらないように心がけるとか。そういうのも大事じゃないかな」

 とユーリが発言すると、記憶を呼び起こされたらしく、ミヤがぽんとひざを打った。

「この前、じいちゃんたちとうどん食べに行ったんだ。そしたらさー、おばあさんとお母さんと小さい子供が三人、だったかな? オレたちより先に来て食べてたんだけど、隣のテーブルのざぶとんを自分たちのところへ持ってきて座っててさ。隣のテーブルに座ろうとしたお客さんがざぶとんが足りなくてキョロキョロしてても、ざぶとんを返しもせず、知らんぷりしてたワケ」

 ミヤの話に、周囲から「うわー」とイヤそうな声が上がる。

「その上、その人たち、うどんを食べ残して帰ってさー。それがさー、注文したけどいざ食べ始めたら食べきれなかったっていう量じゃなかったんだよなー。オレはさ、最初っから、食べきれそうな分を注文すべきだと思うんだけど。お金を払ってるから残そうが残すまいがどうでもいいじゃないか、ってのは、ないよなーって思う」

 ミヤはうんざりした顔で言い、一息ついてマフィンをかじり、笑顔に戻る。

「そういうのを見ると、こういうことはしないでおこうって思うよね。――今の時代は他人のことをよく見てて。この人はいいとかちゃんとできてるとか、あの人は悪いとかダメだとか、SNSなんかで批判する人って多いみたいだけど。そうやって批判するだけだったら、その人が批判している人と変わらないんじゃないかなって思うよ」

 ユーリもまゆをひそめる。

 ミヤは口の中のものをのみ下しながら、大きくうなずくと、

「批判するんじゃなくって、自分だったらどうするかを考えないと意味ないのになー。こんなのはダメだ、で終わらないで、じゃあどうすればいいのか、それを考えないとさー」

「何がいいか悪いか、自分はどうすべきかを何度も何度も考える。その積み重ねだよね、きっと。自分で少しずつ経験を積んで、このときはこうしちゃったけどこうした方がよかったとか、次はこうしたいとか、自分の中に貯めていく。それと同時に、自分ならどれくらいのことができてできないかも把握していく。――自分で自分のことに責任を持つためには、そういうことをしていくことが必要だよね」

 ミヤとユーリがうなずき合うと、小春と威太郎も考えを述べ合う。

「そのときできることって体調次第で変わることもあるからぁ、そこも考えないといけないよねぇ」

「だからって、やりたくないことから逃げるために、痛くもないのにお腹が痛いからできません、なんて自己申告するのはダメだよなッ。周囲に心配かけるしさッ」

「でもぉ、仮病って言っても、いじめられてすごくつらいときに、お腹が痛くないのに痛いと言って休むのは別だと思うよぉ。休むことが必要なときもあるしぃ。自分で自分の心を見つめないとダメかな、って思うー」

「結局、自分の心がけなんだよなッ。自分自身のことを甘やかすのもおろそかにするのもダメだし。他人に迷惑をかけていないか、他人を大事にできているか、自問自答して、自分と向かい合っていけるかどうかだよなッ」

 威太郎がまゆをよせ、口をとがらせる。

 自分の心がけ次第って何かに似てる。何かに……ソウ力だ!

 一人ひとりが真心を尽くすのがソウ力だと思えば、なんだかこれもソウ力みたいだ。

 クラトがそう思いながら話を聞いていると、ユーリが、「それから、想像することかな」とぽつりと言った。

「今日みたいに草むしりをするときなら、車道に生えた草をとる場合は、ここで草をとろうとしたらどうなるかを想像する。そしたら、道路なんだから、もしかしたら車がここを通るかもしれないって想像する。それが想像できれば、車に気をつけよう、って思う。そうしないと、車道に降りてしゃがんで草をむしっているときに車が下から上って来たら、しゃがんでいるせいで、車を運転している人からよく見えなくて、そこにいることに気づかれずに、()かれてしまうかもしれないよね?」

 ユーリに問われて、クラトは想像してみる。

 さっきまで草をむしっていたのは歩道だったし、車道を通ったのはバイク一台だけだった。けれどこれがもし歩道がない道で、車が頻繁に通っていたら、危なくて草をむしるどころではなかっただろう。

「もしも危ない場所だったら、草むしりはあきらめるべきだよね。つまり、何が何でもやろうとすることが大切なんじゃない。自分が危ない目に遭わないかどうか考えて、危ないことはしないことが大切だということなんだ。それが自己責任――自分で責任を負うということだよ」

 ユーリが言う。

 そうか、と、クラトは自分で自分の両手を見つめる。

 それから顔を上げて、ユーリの顔を見た。

「ぼくたちは守られるべき存在じゃないって、守る側の人間に成長すべきだって、言ったよね? それって、自分で自分の行動に責任を負えるようになることも大切なの?」

 疑問形で聞いてはいるが、その答えはわかっている。

 果たしてユーリはハッキリ大きくうなずいた。

「ぼくたちはいつまでも子供じゃない。毎日少しずつ成長していて、大人になっていくんだ。自分の行動によって誰にどんな影響が出るか、考えながら、予測しながら、自分の行動を選べるようになっていかなくちゃいけない――そう思うよ」

 ユーリは確かめるように言葉を重ねる。

 クラトは両手をぎゅっと握りしめた。

「ぼくたちはまだ子供で、できることは限られている。力も知識も足りてない。その中でできることを考えなくちゃいけない。――ぼくたちは海外で人助けをしようとしても、保護者がやってくれなくちゃパスポートを作ることもできないよ。でもね、こうやって公園の草むしりをすることはできる」

 ユーリが笑って、草を詰めたボランティア袋を指差す。

 草むしりも大事なこと。クラトは改めて考える。

 そう言えば、真珠麿と千夜空と初めて会った公園も、荒れ放題で怖かったのを思い出す。

 あの公園も草むしりをしてゴミを拾って、見通しをよくしたら、明るい場所になるかな?

 そう思って気がついた。

 そうか、こうやって気がついたことを一つずつやっていけばいいんだ。

 クラトの前に、道ができていく。

 心は五月の空よりずっと高く、晴れて、楽しくなっていく。

 「あー、食った食った!」「腹いっぱい」「おいしかったぁ」と、子供たちが満足げな声を上げる。お菓子がいっぱい詰まっていた重箱が、どれも空っぽ、ナッツの欠片すら残っていない。

「それじゃ、そろそろ草むしり後半戦を始めようか」

 ユーリが両手を頭の上で組んで、「うーん」と大きく伸びをする。

「はいはいッ! オレ、次はクラトとやるッ!」

 威太郎が威勢よく右手を挙げる。「いいよなッ、クラト!」とクラトの顔をのぞきこむ。クラトは「うん!」と大きくうなずいた。

「それじゃ、午後からは――」

 ユーリが残りのメンバーを組分けしていく、それからみんなで一緒にお弁当やシートを手早く片づけ、草が生え残っているところへ組ごとに向かった。



          ※



 威太郎との草むしりはユーリのときと違ってにぎやかだった。

 レオレンジャーの話や、お気に入りの本やマンガの話、学校のおもしろい先生の話など、他愛のない話は、威太郎のハキハキしたしゃべり方もあって、クラトに元気を分けてくれる。

 おしゃべりはするものの手を休めず、ふざけることなく、威太郎は真面目に草むしりに精を出した。クラトももちろん、一生懸命、草をむしった。

 草むしりをしていた間、クラトは思い切って、威太郎に、練習試合の帰りに見つけた小さな公園をキレイにしたいと相談してみた。話を聞いた威太郎はクラトに賛成し、今度みんなに提案しようと言ってくれた。



 クラトと威太郎の組はこの日いちばん、多く草を取った。長生山広場周辺の植えこみはどこもこざっぱりと、目に気持ちのいい仕上がりだ。

 次の祝日に八角堂の地下の部屋に集まることを約束して、この日はそれで解散した。

 クラトは達成感を持って、家路についた。









 お読みいただいてありがとうございます。

 これからもよろしくお願いします。

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