なぜここに?
私は学園の玄関ホールにたどり着くと、息を整えて額の汗を拭った。
喧騒はまだ遠い。追いつかれることは無さそうだ。
ヒールを履きなおし、できるだけすましてフォーン男爵家の馬車に乗り込んだ。
馬車にはエレナが待機してくれているはずだ。
彼女は下働きのメイドから私専属の侍女まで上り詰めた。
ずっとそばにいてくれる大事な親友だ。
私は馬車に乗り込むとさっと座ってエレナに話しかけた。
「エレナ、早く家に帰ろう。ちょっとまずいことになっちゃったから…」
「……」
暗がりでよく見えないが、エレナは顔を蒼白にして固まっていた。
「エレナ…?気分が悪いの?」
「私がいるから、緊張してしまったのだろう」
エレナの代わりに、そこにいるはずのない人物の声が響いた。
「ひっ!?」
思わず座席の背もたれにのけぞってしまった。
私の座席の反対側に、広間で演説していたはずのルーイ王子が座っていた。
ゆったりと足を組み、膝の上に指を絡ませて置いている。
微笑んだ顔は本当に楽しそうだったが、青い瞳はほの暗い光を宿していた。
(こ…怖い!!なんで私よりも先にここにいるの!?)
私はからからになった喉から、なんとか声をひねり出した。
「な…なぜ!?私全力で走ってきましたのに…!!」
「いや、全く君は本当にひどい人だ。あの場で逃げてしまうなんて」
王子は、疑問には答えず微笑みながら私を責めた。
「…だって私には、身に覚えがありません」
「そうなの?結構アプローチしたつもりだったんだけど」
「アプローチ…!?」
私は、学園での王子との関わりをまざまざと思い出した。
それはホラー映画顔負けの恐怖体験だった。
ことの始まりは、このルーイ王子の奇行だった。
私が下町育ちの令嬢ということは、入学してからすでに周りに知られていた。
本当のことだから否定もしなかったし、深窓の令嬢達とは合わないと分かっていたので、積極的に絡まなかった。なので、最初からぼっちだった。
そのほうが気が楽じゃいと、昼休みは中庭のベンチで本を読むのが日課になった。
ある日、そのベンチにいきなりルーイ王子が座って話しかけてきたのだ。
あまりの驚きに、ダッシュで逃げ出した気がする。
同学年に第一王子がいることは知っていたが、まさか話しかけられるとは思わなかったのだ。男爵令嬢と王子では身分に差がありすぎる。気軽に口を利くこともできないはずだ。
当時、王子の周りには将来的に側近となるであろう有力貴族の子息が集まっていたし、婚約者であるアデル様を筆頭に、これまた有力貴族の娘達が取り巻いていた。
下町育ちの男爵令嬢なんて道端の石ころと同じである。
ちゃんと自分でわかっている。
そんな私に野心などあるわけもなく、ただ平穏無事に学園ライフを送りたいと思っていた。
王子と接触するなど言語道断。
いじめられることは火を見るより明らかだからだ。
王子が隣に座ったという一件だけでも、クラスのボス的令嬢にねちねち嫌味を言われた。
面倒なので反省しているふりをして、涙目で謝っておいた。
(王子も毛色の変わった令嬢を見たかっただけでしょう)
そう思っていたのだが、それからも王子は会えば普通に声をかけてくる。
これ以上いびられるのはごめんだと王子を見つけるたびに避けていた。
だが、そうしたら今度は私の行く先々に王子が現れるようになった。
これがもう本当に怖い。王子という肩書とイケメン補正があっても怖いものは怖い。
移動教室の際に、王子を目視して避けて通ったはずなのに、いつのまにか隣を歩いているのはまだいい。
中庭で本を読んでいれば、ベンチの後ろから静かに肩を叩かれる。このベンチの後ろは茂みだ。なぜ物音一つ立てずに近寄ってこれるのだ。
くじ引きのはずだった席決めで、いつの間にか隣に座って居たりもした。王子が引いたのは確かに私の席の隣の番号だった。しぶしぶ納得したのだが、席替えするたびにそうなった。呪いでもかけているのか。引きが強すぎる。
食事中に話しかけられるのが嫌で、昼食の場所は毎回変えていたのに、食べ終わるころに颯爽と現れる。教室から離れた準備室とかなのに。しかもいきなりドアがあく。それまで全く足音もしない。
誰もいない廊下を通ったり、隠れてその場所に行っているはずなのに、なぜわかるのだ。
放課後は待ち伏せされることが多かったので、図書館で本棚の奥に身を潜めて、生徒がすべて出て行ってから出ようとしたら、本棚の向こうからじっと青い瞳が見ていたこともあった。全く気配はしなかった。それにはさすがに腰が抜けた。
加えて何が怖いって、王子は見つけられてビビる私のことなど全く意に介さず、授業のことなど聞いてくるのだ。本当に意味がわからない。「それ今私に聞く必要ある!?」という言葉を何度飲み込んだことか。
時折、恐怖のあまり恥も外聞もなくダッシュして逃げることもあったが、撒いたと思って一息つくと、息も乱していない王子が物陰から登場するのだ。瞬間移動でもしてんのか。あれは本当に不思議。まじで怖い。
拒否できればよかったのだが、王子に強く物申せば不敬罪となる可能性があったから、何も言えなかった。男爵家に迷惑をかけたくなかったのだ。
六年間、できるだけ王子に近寄られないため、常に警戒していた。
おかげで、周辺視野で動くものに過敏に反応するようになってしまった。
だが、それでも近づいてくる王子は恐怖以外の何者でもなかった。
今、目の前に座っている彼こそ、そのルーイ王子なのだ。
その人が、自分にアプローチしていたと聞いて愕然とした。
(あ…あれ、アプローチだったの!?追い詰められてるとしか思えなかったけど!!)
私は、藁にも縋る思いで言葉を吐き出した。
「ですが、あなたにはアデル様がいるはずです…!」
「そのアデルも了承している。リンデルも話したのではないか?」
「は…話しましたが…!」
その時のことはよく覚えている。
なんだかんだと王子の近くにいる私を、令嬢たちが黙って見ているはずがない。
取り囲まれて糾弾されることもあったが、いつも隙をついてダッシュして逃げていた。
(所詮相手はお嬢様。私の足には勝てないのだ!見よこの俊足を!)
それでも繰り返し取り囲まれると辟易する。そんな時、アデル様に呼び出された。
(ついに本命がきた…)
これまでの攻防は、王子の婚約者であるアデル様にも伝わっていることだろう。
大層不快に思われているに違いない。
かのハワード家は名門中の名門。財力もあり権力もある。
機嫌を損ねれば男爵家など捻り潰されてしまう。
だけど、これはまたとない機会だ。私には野心など毛頭ない。
それどころか王子の奇行に恐怖さえ感じるのだ。
(アデル様が信じてくだされば、王子に一言言ってくださるかもしれない!)
期待と不安を胸に、呼び出された学園の温室に向かった。
何故か温室にはテーブルとイスがセッティングされ、アデル様は優雅にお茶を飲んでいた。
私はできるだけ綺麗に淑女の礼をした。
「…フォーン男爵家長女、リンデル・フォーンが参りました。アデル・ハワード様にはご機嫌麗しく…」
「まぁまぁ、リンデルさん。固くならないで、ここはわたくしたちしかいないから、どうぞお座りになって?」
アデル様は拍子抜けするほど気さくな方だった。婚約者に横恋慕する女を恨む様子など全くなかった。それはなぜかすぐわかるのだが。
恐る恐る紅茶を一口飲んだ私を見て、アデル様はにっこりと笑った。この上ない美少女を間近で見て、手が震えてしまった。
口火を切ったのはアデル様だった。
「あなた、ルーイ王子殿下と噂になっていますわ」
「アデル様、それなのですが―――…」
「ふふふ。あの方変わっているでしょう」
「はい―――…え?」
「やっぱり怖いわよね?」
「アデル様、ご存じで…!?」
あっけにとられる私を見て、ころころとアデル様が笑った。
「あの方、昔から変わっているのよね、執着心がすごいというかなんというか…」
「あの、私決して気を引くようなことは何もしていないのです!」
「そうねぇ…何故かあの方はリンデルさんを気に入っているようね」
アデル様は愛らしく小首を傾げた。
私はやっと恐怖体験を理解してくれる人を得て、ちょっと涙が出てきた。
王子が何故か追い詰めてくるなど、誰にも相談できなかったのだから。
これは本気の涙だ。
「私はものすごく怖いのですが!!アデル様から婚約者として一言言ってくださいませんか…?」
「ふふ。わたくしからは、言えませんね」
「なぜ!?」
「渡りに船なのですよ」
「は…?」
アデル様は扇子をふわりと開くと恥ずかしそうに口元を隠した。
ふんわりと頬を染めている。
すごく可愛い。ちょっと見惚れてしまった。
だが次の言葉に驚いた。
「わたくし、別の方が好きなのです」
「えぇ…!?」
これは、貞淑さを求められるご令嬢としては爆弾発言だが、アデル様は言葉を続けた。
「わたくしたち、幼いころから婚約しておりまして、お互いの性格はよくわかっているのですよ。わたくしに心がないことは殿下もご存知です。殿下もわたくしのことを友人として大事と思いこそすれ、恋愛感情は持っていないでしょうね」
「いやでも、それとこれとは…」
いやだって政略結婚てそういうものじゃんとアデル様を見つめると、彼女は穏やかに微笑んで言った。
「あの王子殿下の相手するのは正直めんど…いえわたくしにしても将来の王妃は重責です。わたくしの他に相応しい方がいなければ、このまま泣く泣く結婚するしかないかと思っていました…」
ここでアデル様は一口、紅茶を飲んだ。
「けれど、王子殿下はこの学園で、やっと恋しいと思う方を見つけたようなので、これ幸いと身を引こうと思いまして…リンデルさんは結構根性ありそうですし、殿下と仲良くやっていけそうですしね」
「アデル様、遠回しですけど王子が嫌だから結婚したくないって言ってますよ!?」
「だからルーイ王子殿下をよろしくね?」
「可愛く言っても騙されませんよ!」
「まぁ、殿下の伴侶となれば将来の王妃ですわよ?」
「そんなの望んでません!それに、あれは恋してるやり方ではないと思うのですが!!」
「謙虚な方ねぇ、わかっていますよ、わたくしに遠慮しなくても…」
「いやいや押し付ける気満々ですよね!?」
「あの方、お顔は良いし頭もいいですわよ?暗愚な方ではありません。ただちょっとしつこいというか、執念深いだけで…」
「そこが怖いんですよぉ!!」
ルーイ王子の押し付け合いは、そこから十分は続いた。
ふうとため息をついてアデル様が言った。
「…そこまで言うならしかたありませんわね」
「わかっていただけましたか…!?」
もう何をわかっていただいたのか分からない。
「わたくし、殿下と相談いたしますわね」
「そうしていただけますか?」
「えぇ、おそらく殿下の行動を止めることはできませんが…一度色々話してみましょう」
「私のことは、放っておいてくださいね!?お二人のことですからね!?」
「まぁ、つれない方ね」
アデル様は終始穏やかに微笑んでいらした。
その後、卒業パーティーまでの間、少し王子が現れる頻度が減ったような気がして、私は安心していたのだ。
(アデル様はあの時、色々話してみると言っていたけど、それは婚約破棄のことだったの!?)
おそらく、アデル様が好きなのはダグラス公爵家の長男であるエリック・ダグラスだろう。
婚約破棄の時、どさくさに紛れて抱き着いてたし。ガッツポーズしてたし。
王子とアデル様は、二人で共謀して今夜の劇を演じたらしい。
皆の前で知らしめてしまえば、後戻りできなくなるとわかっていてやったのだ。
そして、私に逃げられないようにあの場で名前を出したに違いない。
散々逃げ回ってきたのに、先手を打たれてしまった。
「お二人は…わざと…?」
「…わかってもらえたかな?すでに国王陛下にも、アデルの両親にも話して婚約解消の了解は得ている。何も問題はないさ」
「いえ!私には、なぜ殿下がそこまで私に執着なさるのかわかりません!私が王子にふさわしいとも思えません!!私は下町育ちですよ!?」
のけぞってそう言った私を、王子は静かに見つめた。
「…君は、まだ思い出してはくれないんだね」
「な…なんのことでしょう…」
「本当にひどい人だ。僕はずっと覚えていたというのに。ねぇ、デール」
思わぬ名前で呼ばれ、私は目を瞠った。