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キッチンに立つさくらさんの後ろ姿を、ベッドでごろごろしながら眺める。長くも短くもない黒髪、料理を始めるにあたってかけた眼鏡。スーツを締め付けるエプロンの黄色。どちらかと言えば細身で、だが筋肉はありそうだ。やるとしたなら不意討ちしかない。
ふと、さくらさんが振り向いた。目が合えばかすかに笑って、また料理に戻る。ようやく目を合わせてくれた。
「何を作ってるの?」
持ち込みの包丁で野菜を切っているさくらさんに尋ねてみた。私のキッチンにだって包丁はあるし、誰かの血がついたりもしていないのに。マイ包丁とかいうやつなのかもしれないが。
「炊き込みご飯と、味噌汁と、焼き魚の予定だ。あとは余る材料で適当なもの。余ったものを残していっても、あの冷蔵庫の様子では、無駄になりそうだ」
さくらさんは作業を続けながら答えた。美味しそうだ。味噌汁のにおいはわかる。白いビニール袋にあれらすべての材料が入るとは思えないので、味噌や米や土鍋は、エプロンや包丁と同じく、肩かけカバンのほうに入れてきたのだろう。どうも重い荷物でわざわざ訪ねてくださったようで。
しかし、魚肉ハンバーグとは何だったのか。てっきりハンバーグを作ってくれるものかと。
私の疑問に気づいたわけではないだろうが、突然さくらさんが手を止めて振り向いた。
「着替えなくていいのか? 制服のスカート、しわになるとか、うるさく言われないのか」
「別に」
「そうか」
「着替える。振り向いてもいいよ。見るなら見るでがんばる」
「いや何をがんばる。見ないよ、俺は料理で忙しい」
「そう」
私がベッドに座ってブレザーを脱いでも、カーディガンを脱いでも、それからスカートに手をかけても、さくらさんは本当にちらりとも見ない。ベッドがきしむ音だって、制服が毛布の上に放り投げられる音だって、聞こえているはずなのに。水道の音も、換気扇の音も、広くはないワンルームでは邪魔にはならないはずなのに。
軽くなった身で跳ぶようにベッドから降りて、さくらさんの背中を狙う。火を使っていて危ないことは理解している私なので、少しは遠慮しつつ、背中に抱きついてみた。なんだろう、ほんの少し、ブルーベリーのガムみたいな甘いにおいがする。金曜日にはなかったにおいだ。
「危ないだろ、包丁も火も」
「さくらさんタバコ吸うの?」
「え? いや、吸わないが」
「お菓子食べた?」
「ああ、せんべいなら……」
違う。この甘いにおいは、知っているにおいに似ている。タバコだ。梅影先生の吸う、あの。
「タバコ臭いか? 職場の人間が吸うのが移ったかもな」
「ふうん」
「それで……離れてくれ。作業が中断されてる」
背中にすがり付いていた両腕を、腰からおなかのほうへ。抱き締める。思った以上に筋肉質だ。
「おい……」
「ハンバーグ。次は、ハンバーグも作ってくれる?」
「わかったよ。だから」
そんなにあっさり、またここへ来るような約束をするのか。何をされても文句が言えないのは、さくらさんのほうではないのか。
引き剥がされるまま離れて、さくらさんの足にもたれるように座り込んだ。邪魔には変わりないだろうに、さくらさんは何も言わず、少し固まった後、また作業を続けることにしたようだった。