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梅影先生は濡れたらまずそうな書類だけ身から離して、おとなしく私の椅子になる係に専念することにしたようだ。そうと決めたら微動だにしない体幹、残念ながらやはりかなう気がしない。
「殺して来ないのか?」
「誰を? っていうのはともかく、最近ちゃんと我慢してるから我慢慣れてきたというか。衝動を飼い慣らせてるというか、ほら私も大人になったんですよ」
「嫌いなやつを殺したい気持ちを否定はしない。昔のことだが……ひとつ、懺悔がある」
「聞いてあげましょう」
「腹立つなお前」
鼻で笑って、梅影先生は続ける。私は懺悔や告解を聞きはしても、許すような存在ではない。
「一度だけ、私怨でお前に殺しをさせた。あの女が死んだことに後悔はないが、お前に説明しなかったことは、いや、お前の手を使うのではなく自分でやればよかったとは、今もたまに考える」
「いいんじゃないですか、どうでも。それ誰か覚えてないし」
「そうだな。で、だ。お前も嫌いなやつを殺していいんだぞ」
「嫌いポイントぶっちぎりは先生なんですけど」
他の人に嫌いポイントを進呈していないだけともいう。
「命惜むに異らず、だ」
「何それ?」
「なあ、茉莉。俺には世界は救えなかったが、今は、お前が幸せならいいと思ってるんだ」
ひとりで勝手にたそがれたりまとめに入るのやめろ。
「殺したっていいし、愛したっていい。惜しんでいい、執着していい。忘れなくていい。無かったことになんかしなくていい」
何もかもお見通しみたいなことを言うなんて。偶然なのか、本当に本当は全部知っているのか、わからない。否定できない。梅影先生の眼鏡は飾りではないのだ。
「……ほんときらい。しね」
捨て台詞のように呟いた。梅影先生は少し笑った。それでも椅子は揺れなくて、やっぱり嫌いだ。はじめて会った時は、何を思ったのだろう。それだって、とうに覚えていなかった。




