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特に話をすることもなく、早足を心掛けて、一人暮らしのマンションに帰りついた。
「ここ。ついた」
「そうか。それじゃ」
門を過ぎれば屋根があることを見て、すぐさま帰ろうとする男を、慌てて引き留める。
「待って。暇なら上がってください。シャワーはともかく、タオルくらい貸すから。風邪引かれたら、私の運気が下がる」
「何だその理論は」
びしょ濡れ、どぼどぼ。男はどこかから出したハンカチで、濡れた顔をぬぐってはいたが、そのハンカチすら使い物にならない。桜柄の、褪せた青色のハンカチ。季節外れ。たしか、誰かが色違いのハンカチを持っていたような気がする。有名なブランドものか、流行りものだろうか。
「私がお礼言うまで待って」
「その言葉で十分だよ」
「じゃあ言わない。名前は?」
「…………佐久良」
さくら。
「さくらさん。目を閉じて。警戒しないで、木の枝で刺したりレンガで殴ったりしないから」
「そんな物騒な心配をした覚えはない。したほうがいいのか?」
「しなくていいの」
さくらさんが渋々といったふうに目を閉じる。傘を奪って、屋根まで走った。カバンを置いて、振り返れば、さくらさんはまだ目を閉じている。いい人だ。
「まだか?」
雨音の中でさくらさんが声を張る。かくれんぼしているみたい。私に傘を差していたせいで濡れていたのか、今から濡れていくのか、わからない濡れ鼠。十秒数えて、傘を畳んだ。
「もういいよ」
さくらさんが目を開ける。私を刺す。やっぱり、そうだ。この男はいい人だ。この男は、私を憎んでいる。私はきっと、この男の誰か大事なひとを殺したのだ。それはいい、とてもいい。笑みがじわりと広がるのを自覚する。
「さくらさん。うちでシャワーを浴びましょう」
「……はあ」
さくらさんはため息ひとつこぼしたものの、抗わなかった。ずぶ濡れで歩いてきて、私から傘を取り返し、私のカバンを拾い上げた。何だドキドキする。恋だな。