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放課後、保健室に行けば、不在の札が出ていた。舌打ちが出そうになって飲み込む。落ち着いて、お上品に、お上品に。
三十分待ったが鏡先生が現れなかったので、帰宅を決めた。早く帰ってこたつで暖まろう。風邪を引いたら先生のせいだ。
傘がない。
「はあ……」
舌打ちこそふたたびこらえたものの、おおげさにため息を吐いてしまう。こんなに激しい雨の日に、傘がない。傘立てにあるはずの朝差してきた傘もないし、靴箱に入れてある折り畳み傘もない。カバンに入れてある折り畳み傘は、昨日使って、家で干したまま。借りた報告の付箋とメモをくしゃり潰してポケットに突っ込んだ。
金曜日だし、いいか。雨に打たれて帰ることにする。カバンの中身を出して、ブランケットで包んでから入れ直し、抱えた。
外に出た瞬間に頭のてっぺんに大きな滴が落ちて、肩をすくめる。無駄だと思いつつカバンを庇いながら、水溜まりを避けることもせずに歩く。
放課後というには遅く、部活終わりにはまだ早い、中途半端な時間帯で、下校中の生徒はほとんどいないようだ。顔を滴る雨が目や口に入らないよう気にしていて、周りを観察する余裕はない。
「寒い」
足を止めた。寒いと言っても寒くはなくならないが、余計に寒さが増すこともなかった。
髪をまとめておけばよかった。顔に張り付いて気持ち悪い。足元に目をやると、まるで粒が後ろから流れていくように見えた。雪でもないのに、あちらへ、こちらへと、ふらふら揺れて、雨がアスファルトに落ちる。
「聞いていいかな?」
雨が降らない。
「あなたはバカなのか?」
顔をあげれば、男がいた。矢車菊の色の傘。目を奪われる。
暗い、眼差し。
私に傘を差しかけた男は海外ドラマに出てくるようなトレンチコートを着て、まるで刑事ですといわんばかりの出で立ちだった。それはたぶん私の偏見だ。
自分が雨に濡れることをいとわずに傘を差し出した行為が、善意なのか厚意なのか、何か裏があるのかわからないが、問われたことには返してやるべきだろう。
「傘がないことなら、人に貸したからというか、借りられてしまったから、仕方がないんです。雨の中を歩いていることなら、特に弁明はありません。趣味です」
「趣味」
何とも読みづらい表情だった男の顔が、苦くなった。
「ついでだし、このまま家まで送ってくれます? 何ならうちでシャワー浴びてってもいいよ」
「その制服……初対面の赤の他人を家に誘うようなタイプがいるとは思わなかったけどな」
「一人暮らしだと?」
「え? ああ、そうか」
「一人暮らしなんだけどね」
男は、そうだろうと納得するように小さく息を吐いた。てっきり、からかったのかと責めるような目を向けてくるかと思ったが、まさか、私の素性を知っていたわけでは、ない、と、思う。
「どうする? 拾った捨て猫を、捨てられていた場所に戻す?」
「性格が悪いな」
「ごめんね」
私としてはどちらでも構わなかった。男と出会うつもりで雨の中に飛び出したわけではない。
男は黙ったまま、私の左隣の少し後ろに移動した。男性用の大きな傘を、滴さえ当たらないほどほとんど私に差しかけて。最初から傘持ちだったように、自然に、私が歩き出すのを待っていた。