『失敗』しないことの不安
数か月が過ぎ、さらに何度目かの失敗をした日、栞は書架で翔に話しかけた。
「また、きょう失敗しちゃった」
「さっき脱がされたとき、栞のおしり、しっかり見えたもん」
「もう〜、前の席に座った日に限って、おしっこ漏らさせなくてもいいと思うんだけど・・・」
「でも、入ったときと比べると、栞の表情が変わってきたよ」
「そう・・・?」
「うん、失敗に強くなってる」
「強くって・・・まるで品がないみたい」
「あ、そうじゃなくて・・・失敗って、どう? 恥ずかしい?」
「うん、それはずっと変わらないわ。今もすっごく恥ずかしい」
「それでいいんだよ。その気持ちが大事だから」
「はい」
「栞が強くなったっていうのはね・・・栞はいま、ここを辞めたいと思う?」
栞はそう言われてふと思った。ここに入った当初、目の当たりにした光景はとにかく衝撃的だった。そして自分も失敗した。今まで生きてきた中でこれほど恥ずかしい経験があっただろうかと思った。しかし、これだけ恥ずかしい失敗を幾度となくさせられても、それでもこのセラピーを抜けたり、辞めたりしたいと思うことはなかった。なぜだろう?
「失敗するのは恥ずかしいし、イヤだけど、自分だけじゃないし、いずれみんなも失敗するんだって、思った」
「そうだね、僕の失敗は栞が受け止めてくれてるよね。それは心強いよ」
人の失敗を自分が受け止め、自分の失敗も人に受け止めてもらう、互いにそう思う、その繰り返しの日々に、居心地がいいと思えてきたからかもしれない。
考えてみれば、これまで自分は絶対に人前で失敗しないように、頑張ってきた。気張って生きてきた。自分の弱みを見せたくないために、人に助けを求めることさえしなかった。その結果、自分は仕事で大きな失敗を犯し、立ち直れなくなっていた。そして、このセラピーに入った。
それからも、栞は何度か失敗をした。しかし、ある時を境に、失敗をしなくなった。栞は翔に相談した。
「私、この頃、失敗しなくなったの」
「そう・・・だね、そういえば、栞の可愛いブルマー姿、最近見てないかもね」
「ちょっと何よ、それ・・・でも、どうしたんだろう、少し怖いの」
「どうして?」
「ずっと失敗のブランクを空けておいて、また忘れた頃にやってくるなんて」
「それって、自分の失敗を恐れてる?」
「そうじゃない・・・けど・・・そうかも」
「仕事だって、ハードワークをいつもしていれば、それが心地よくなることもあるよね。でも、しばらく休んでると、仕事に復帰することすら怖くなる」
「私、何か、試されてる?」
「どうかな、それは栞が考えればいいよ」
栞は、周りのみんながいつも失敗しているのに、自分だけが失敗せず順風満帆な日々を過ごしていることが不安だった。失敗なんてできればしたくないけど、いざ失敗したときに、これまで以上に狼狽してしまう自分がもっと怖かった。
《失敗なんて・・・したくないけど、失敗させてほしい・・・》
ずっと悩んだ末、ある日、栞は行動に出た。
その日は、バナナとトマトジュースの朝食を多めに摂った。そしてセラピーに着く前の公園で、持ってきたペットボトルのレモンティーを飲み干した。栞は、自分がレッスンの間に失敗してしまっても仕方がない状況をつくりだした。いわゆる未必の故意だ。
そして、いつものようにレッスンが始まった。しんと静まりかえった教室で黙々と作業を続けるうち、栞は自分がとんでもなく悪いことをしているように思えてきた。
《私は、いったい何をしているのだろう・・・》
でも後悔しても遅かった。今朝摂った朝食と、さっき飲んだレモンティーが持つ高い利尿作用が、急速に栞の尿意を高め、1時間も経たないうちに、栞の身体は限界に達した。
《どうしよう・・・漏らす》
罪悪感と切迫感に苛まれた栞は、今まで言ったことのないことを恭子先生に告げた。
「先生・・・、あの、私、おしっこしたくなったんです」
「え、栞さん・・・、本当に?」
恭子先生は怪訝な表情で栞に訊ねた。周囲には分からなかったが、今日栞が失敗するはずがないことを一番良く知っているのは恭子先生だからだ。
「ほんとにおしっこしたいの? まだ1時間も経ってないわよ」
栞は恭子先生の言葉に、心を見透かされた思いがした。そして、思わず懺悔するように言った。
「じつは・・・・私、今日、わざと失敗しようと思って、いえ、失敗しても仕方なくなるようなことを、してきてしまって・・・、それで」
にわかに恭子先生の表情が曇った。