44
――1――
「それじゃ、仕切り直しってことで」
生徒会長、神谷蓮がにっこりと笑む。真とビーカーが、不燃ゴミとして纏められた空き缶の残骸を見ながら、残念そうに見ているが、良識ある面々は無視を決め込む。茜はと言うと、静かに彩子に怒られて、小さくなっている。さすがに気まずさがあるようで、目が宙を泳いでいた。
「一応、確認をさせてもらうけど、宗方さんを、生徒会執行部役員に招致させてもらっていいかな、水原茜さん?」
蓮は柔和に茜に向けて、言葉を投げかけた。生徒会規約第1章第7条4項、生徒会三役は選挙にて生徒全体から選挙によるする投票で決を採るが、以下役員に関しては生徒会長が指名を行い、執行部・学校運営委員会の承認のもと、役員を指名追加、もしくは除名を行うことができる――と、ご丁寧に説明まで付け加えてくれた。
「重ねて聞くけど、それはひなたのみ、生徒会執行部役員に任命するということ?」
爽は剣呑な空気を隠すこと無く、直球で叩きつける。蓮は笑顔を絶やすことなく、手をひらひらと振りながら、
「まさか。ココにきて今さらそんな事は言わないし、そんなもったいないこと言わないよ?」
と爽に向け、なお満面の笑みを浮かべる。
――ハラグロ二人の攻防だね。
彩子、ほたるの二人が同時にそんな事を思っていた。
「勿論、希望してもらえるのであれば、チーム・トレーを生徒会執行部役員に承知させてもらいたい。生徒会執行部役員は、当然部活じゃないから継続して、情報処理研究会の同好会活動をしてもらってもかまわない。なんなら、宗方ひなたさんの情報処理研究会の中途入会を特例で認めてもいい」
蓮――生徒会長は、承諾してくれるのなら、学校生活への生徒会執行部として融通をチーム・トレーに効かせる、とそう言っている。
「呑むよ、その条件」
と茜は躊躇無く、即断する。
「生徒会規約第1章第7条5項、執行部本部役員は任期の間、職務を全うする責を負う。ただし特段の事情等がある場合は、本人の意志を執行部、運営委員会で確認し、同意を得られれば、辞任は妨げない――これについてはどうかな?」
茜は蓮を見やる。ビーカー率いる【神々の黄昏】シリーズがチーム・トレーに敵対行動を見せれば、即、この一時同盟は破棄する、そう茜は言っている。
「もちろん」
蓮はにっこり笑って、ひなたに手を伸ばし――その手を爽が、払いのけるようにしたのも一瞬で、蓮の甲に手のひらを重ね合わせた。自然とひなたの手の上に爽が、そして爽の手のひらの上に蓮の手のひらが重なり、ゆかり、彩子、涼太、茜、ほたる、真が続いていく。
それをビーカーは、興味津々に見やる。
(水原君はやっぱり、ひなたを触れさせまいと必死だね。腹黒王子は、コジラセ王子か)
(水原爽は、爽やかに見せて、ハラグロと。まぁ今さらよね)
と彩子と同時に、ほたるも似たようなことを思っていた。
「ありがとう」
蓮は心底、嬉しそうに笑む。
「皆さんには当校、執行部付生徒相談員の役についてもらうので、よろしくね」
ひなたは小さく頷き、ゆかりは首をかしげ、爽は胡散臭いものを見るような視線を蓮に向けた。
ひなたは爽に向けて微笑む。爽がそうやって、みんなを守ってくれているのが、本当に嬉しい。
でも、とひなたは思う。ひなたは、覚悟を決めたのだ。
今度は自分の力で、みんなに力を貸してもらいながら、前を向くのだ。実験室に好きなようにはさせない、その覚悟をもって。
今は小さな変化かもしれないけれど、そうひなたは呟く。せめて、この目の前の人達だけは絶対に守り通す――その覚悟で。
遺伝子工学研究所臨床研究室と書かれた看板は朽ちかけていた。その実態は、すでに撤退した製薬会社跡地だ。かつては遺伝子工学研究所――つまり実験室のラボが、日本全国に存在していた。被験者を現地で調達し、実験する。成果を検証し、データベースに登録しながら、特化型サンプルの製造を模索する。失敗、失敗、そして成功あってまた失敗、研究はその繰り返しだった。
実験室は、突如、国から撤退する。厚生労働省の組織から【遺伝子工学研究所】はこつ然と消えたのだ。表向きは、限りなく水色に近い緋色のオーバードライブの為。実態は、内閣総理大臣がアンチ実験室勢力を抑止することができなくなったという政治的な問題から。
研究室内で、シリンジは頬杖をつきながら、モニターを眺める。当時の研究資料、実験室のデータが簡単に閲覧できる。プレパラートが、遺伝子研究監視システム【Mother】の開発にいそしんでいるという話しは、風の噂で聞く。
シリンジから見ても、優秀な研修者だとは素直に思う。実直で、フラスコに対して素直で、勤勉で、真面目で。
だが、それだけだ。
可愛い顔しながら、研究に一心不乱で。その目はフラスコしか見ていない。そんな彼女を揶揄して、研究者達は【狂信者】と呼ぶ。なにを今さら、とシリンジは思う。どいつもこいつも、フラスコに畏怖を恐怖を感じながら、自身の目的の為に研究を続けているくせに。
倫理という枠では為し得ない、研究を達成する為に。
遺伝子研究が、ここ5年、躍進的に発展した。この国の住人は、少しずつ遺伝子研究テクノロジーが、生活の中に馴染んでいることを受け入れつつある。
時に、国民国防委員会が過激な、遺伝子選民思想を訴え。
時に、政権与党――自主民主党が、安全な遺伝子工学を基軸とした、遺伝子研究ドリームを語り。遺伝子登録したマイナンバーが当たり前のように普及し、政府はその実現に注力し、遺伝子再生医療や遺伝子工学研究援助に血税を大胆に注ぐ。
医療、そして科学に政府は貢献する。その一方で、国民の中に、自身を遺伝子情報を献体として、提供する人間が増えつつある。
政府は囁く――危険性は一つも無い。提供された遺伝子情報や、被験者の体は安全が保障される。
「バカめ」
シリンジは呟いた。実験室の研究では、廃材をいかに出さないかが命題だ。特化型サンプル排出の為には、それ以上の実験を繰り返し、データベースの分母を増やしていくしかない。
被験者の多くは、廃材になる運命から免れない。この研究の中では、廃材か特化型かのどちらかなのだ。量産型は、その研究の中で大量生産が可能な、すでに研究し尽くしたデータをもとに多量生産している。適合する遺伝子データと、ほんの少しの編集で、量産型を製造できるが、特化型の価値には及ばない。
被験者に実験の安全を保障すると実験室は言うが、元気で過ごしているのは、本人のかわりに、弁護なき裁判団の番号無しなのだから、これほどの喜劇があるだろうか。何が遺伝子研究ドリームか、新世紀産業革命かと言いたくもなる。
そう思うと腹がよじれるほどに笑いが込み上げてくる。無知はこれほどまでに、悪辣だ。
今やカタログライブラリーから選別してサンプルをそれぞれのラボに送り込む。昔に比べたら効率的に実験が行えるようになった、と言うべきだろう。
そうやって実験をしていたことが、ついこの間のようで懐かしく感じる。
(この命令の忌々しいことといった――ら?)
シリンジはモニターの動きに、不機嫌さをその顔に隠さない。廃棄体4号と、それを追って【禁断の果実】が動くのを確認する。
「バカどもめ」
厄介なことに、奴らはいつもに勝手なことばかりしてくれる。かと言って放置もできないのが辛いところだ。廃棄体4号の暴力性は勿論、禁断の果実の原子レベル細胞破壊は、シリンジとてその手を握りたいとは、到底思えない。無知な一般住民に被害が及べば、計画は大きく変更を余儀なくされる。それだけは防がなくてはいけない。
さっさと捕獲すればいいものを、実験室は何を考えているのか。と、ぼやいていても始まらないので、シリンジは自分の仕事に取り掛かることにした。
キーボードに向けて、その指を走らせる。
稼働可能なサンプルを確認して、それはそうかと小さく息を吐く。限りなく水色に近い緋色達との連戦で、サンプルは摩耗――なら、まだ良い。機能不全になったサンプルも多い。
(あぁ、こいつがいたか)
と、シリンジは命令を発信する。
間もなく、ディスプレイには承諾を示す【Enter】の文字が、明滅した。
鼻を鳴らす。システム稼働は不安定だが、とりあえずはMotherにつなげれば、問題ないだろう。プレパラートでは、きっとこの付け焼き刃の追加オペレーションシステムの変更も解析できないに違いない。
シリンジは煙草を吹かしながら、席を立つ。
こいつだけじゃ、力不足だろう。――弁護なき裁判団、No.F。システムが断片的にフリーズして自律思考ができない。プレパラートがバグであるNo.EとNo.Kのリンクを切断したことは、評価に値するが。だが、ただ、それだけのことだ。
「どいつも、こいつもバカめ」
トレー、限りなく水色に近い緋色、デバッガー、サンプル達がディスプレイに映る姿を一瞥しながら、紫煙をシリンジは堪能する。
友情だの、守りたいだの、好きだの、青臭い言葉を奴らはこれでもかと並べている。今は、好きに言い合えば良い。
どうせ――最後に笑うのは、この俺だ。
――2――
「執行部付生徒相談員って、でも何をすればいいんです?」
すごくもっともなひなたの質問に、蓮は満足そうに頷く。
「大切なことを、流さずに聞く。それはとても肝要なことだと思うよ。支援型サンプルに頼りっぱなしにすることなく、自分自身でも自律して思考するか。面白いね、ひなたちゃんは」
「え?」
単純に疑問に思ったことを、言葉にしただけなのに、何故か褒められた。
「ほたる、説明してあげて」
と蓮にいきなり言われて、今度はほたるが目をパチクリさせた。
「そのまま生徒会長が説明すればいいじゃない、なんで私?」
「僕だと、つい水原君をからかいたくなっちゃうからね。単刀直入に、要点をまとめての説明はほたるが得意でしょ?」
「どうせ、私はカッとなりやすい支援型サンプルですからね」
不機嫌に言うほたるを、蓮は変わらず笑顔で受け止める。
「誰にだって、ウィークポイントはあるよ。俺にも、ね。でもほたるは状況を分析して、戦況を把握してくれる。その数々の情報の中から、俺が戦略を決定して、真が実際に行動に移してくれる。それが俺達【神々の黄昏】だよね? 話しをスムーズに今回は進めたいから、ほたるにお願いしたいのさ。頼むよ」
蓮に願いと言われたら、ほたるに断れるわけがなかった。――蓮のお願いは、ほたるにとっては、覆せない王命と言ってもいい。グングニルの言葉は、ほたるにとっても真にとっても絶対服従が唯一の選択肢だった。
ほたるは気を取り直して、息をつく。
「結論から言うと、この学校内での困り事に対処するのが、執行部付生徒相談員よ」
本来であれば、生徒会執行部が生徒の陳情の窓口になる。しかしこの学園は高等部だけでも3000人規模のマンモス学園である。教師も生徒会執行部もその全てを掌握づることは困難だ。故に委員会やクラブ活動もまた執行部下位組織としての役割を担っているが、それでも執行部の意図を汲んで対処はできない。
故に執行部付生徒相談員という役職が設定されたのだが――好き好んで、そんな面倒なことをする希有な人間なんているわけがなく、空席状態となって数年が経過していた。
「なるほどね。それは純粋な生徒の相談役という意味になるのか? それともカタログライブラリーのトラブル調停を重きにおくのか、どっちなんだ?」
爽は鞘からナイフを抜き放つように言葉を発した。それを蓮は、漫然と受け止める。
「カタログライブラリーに関しては公然たる秘密、トップシークレットだからね。さすがに弁護なき裁判団まがいのことを、君たちにお願いをしようとは思ってないさ。純粋な生徒からの依頼が重きだね。勿論、例外が無いとは言わないけれど」
含みを隠さない、その言いように爽は苦笑する。そういう駆け引きは嫌いじゃない――。
「ご、誤解しないでね。基本は執行部へ寄せられた相談事を、宗方さん達に依頼していくことになるけど、私達が画策して実験室の案件に巻き込むことは企図してないからね」
爽はひなたを見やる。姉からは、神々の黄昏の思惑に乗ってやれと言われているので、すでに決定事項だ。これ以上、錯乱させても意味もないし、きっと【グングニル】は乗ってこない。無駄な時間をかけるだけ、意味のないことだった。
だから、後はひなたの意志、それだけで良い。みんなが――同じように、視線を交わすのが、やけに微笑ましかった。
(ひなた? みんなが君の言葉を待ってるよ?)
それが爽は何より嬉しい。【発火能力】の能力を制御できていなかった少女が今ここに立つ。ひなただって想像していなかったと思うが、彼女が心の奥底に眠る意思の強さ――それこそ爽が惹かれたのだった。
――爽君は一人じゃないから、怖くないから、だから泣かないで。なんとかするから!
きっと君は憶えてないだろう、実験室時代の記憶なんて。セキュリティーロックをスピッツはかけた。だから、本当に残酷な現実を、ひなたは憶えていないし――それで良い。
ひなたは小さく息をついた。
多分、爽だけがその息づかいを感じていた。
ひなたの小さな癖。
きっとひなた自身も気付いてない。
何か、勇気を出そうとする時のモーション。でも、と爽は思う。実験室時代の、ひなたの言葉をそのまま借りて。――なんとか、するから。
(俺はデバッガーだからね)
小さく笑んで。だから相棒――なんとかしてやろう?
ひなたは言葉を紡いでいく。
「みんなと一緒なら、なんとかできそうな気がするので。できる限り、がんばります」
そうひなたは言った。蓮、ほたる、真の顔を見て。まっすぐ見て、微笑んで。
「みなさんと一緒なら」
へ?――蓮は予想外の言葉に、冷静と達観で取り繕った表情が崩れた。
してやったりと言うつもりはなかったが、爽は笑いをこらえきれなかった。全力で気持ちを伝えたつもりだったひなたは、爽の笑いの意味が分からず、きょとんとしている。
つられて、彩子やゆかり、涼太まで腹を抱え――茜も苦笑が隠せない。
「積み上げられた垣根を、こうもあっさり越えるんだな【限りなく水色に近い緋色】ってサンプルは」
ビーカーは呆れ半分、興味深そうにこの余興を見やる。
「ほたる?」
「え、あ、うん、なんでもない。ちょ、調子がちょっとくるっただけ」
ビーカーの声に、ほたるは動揺したように声をあげる。
爽のスマートフォンが検知する。心拍数の上昇、α波の乱高下を確認。精神的な不安定さを検知。ビーカーは目を細め、異常を感知したらしい。
とスマートフォン上の数値を見ると、時間の経過とともに脳波の安定を確認、呼吸状態は正常値に戻った――が。
心なしか、”ひなと”と”ほたる”の距離が近い。そっぽ向くほたると、首をかしげるひなたと。
それを尻目に、爽はすっと、蓮に手を伸ばした。
「え?」
それも予想外の行動だったようで、蓮は目を丸くした。
「相棒が、協力したいって言ってるんだ。支援型としても、それに添うだけなんだけど、なにか?」
ニンマリと笑んで。
ペースを乱され、蓮の表情が一瞬、歪んだ。爽としてはしてやったりだが――そんな小さな自己満足に浸っていても仕方がない。何より、ひなたの満面な笑顔、それだけで十分で。
この日、ひなたを中心に欠員だった生徒会執行部付生徒相談員に6人の生徒が任命された。一時的にだが、チームトレーが、ビーカーに協力する形になったのだ。
王は大きく欠伸をした。
公園のベンチで、白いライオンが寝そべっている様はシュールだと思うが、誰に見られても王は困らない。勝手に慌てて、喚けば良いと思っている。
シリンジの近くにいるのは退屈だ。そして生命の水の毒素は、未だに王の体を蝕んでいる。シリンジがそれなりに分析は進めているが、本来の開発者であるフラスコで無い限り、下手な遺伝子レベルでの調整ができるはずもない。まして生命の水に関しては、スピッツが開発した、SS級情報ハザードだ。シリンジレベルが、情報をかき集められるはずもない。
ルカは懸命に看護をしてくれているが、正直、なるようにしかならないと思っている。生への執着を捨てたのか、とルカなら言いそうだが、一度は浴びた生命の水である。あの時も三ヶ月は生死を彷徨った。実験室の医療サポートがあって生き延びた。あの時に比べれば、そもそも命の危険性があるわけでもない。ただ、変容体のコントロールが難しいだけのことだ。
生命の水による、遺伝子レベルでのナノウイルスによる改変が行われたのだから当然か。
今までにないくらい達観している自分に驚く。それでいて、気持ちは躍動しているのだ。その理由は――分かっている。
目標ができたのだ。
《《彼女》》の炎は美しかった。能力としては荒削りで、調整が途上であることを物語る。それでなおあの灼熱、あの温度。純粋な敵意。それでいて脆いくらいに甘ったるい優しさを持ち合わせていて――強い。
(二面性を持ち合わせた実験体とは、珍しい)
だが、と思う。壊れかけている。危うさの共存は、当然、無理が生じていく。結果――廃材になり果てる、逆を言えば、廃材とならない遺伝子図、その生命力の強さが特化型サンプルを創り出す。同じ遺伝子図をもとにして遺伝子編集を行っても、同じサンプルが得られるとは限らない。
だからこそ実験室は、先発的遺伝子研究――試験管ベイビーと言われる、ゼロベースからの開発とともに、後発的遺伝子研究――遺伝子図をもとに適合する実験体を採集し、遺伝子の改変を行っている。特化型サンプルの9割以上の出自が後発型だ。いかに先発型が難産であるのが分かる
試験管ベイビーは、実験室のラボの中でしか生きられない。ルカが試験管ベイビーであるのは間違いない。生きる意欲がない、気力がない、能力を制御できない。先天性遺伝子研究は、廃材増産工場とシリンジが揶揄するぐらいだ。実験室が苦慮している現実がある――どうでもいいことだが。
思うのは、お前は何者だ、ということだ。
「王様、今日もココにいたー」
微睡んでいると、ベンチを囲むように猫やリス、スズメがぞろぞろと取り囲んでは好奇心旺盛に、王の一挙一動を見ていた。最近の恒例行事だ。
遺伝子変容体の副作用――動物の言語を翻訳することが可能だ。それが何の役に立つのかと吐き捨てたい。小動物達は本能に赴くがままなので、最初こそ怯えて警戒していたが、慣れれば、無遠慮に親しみをぶつけてくる。おまけに悪意も敵意もないから、真っ正面から相手にするのもバカらしい。今は力の温存と瞼を閉じると――。
「お前達、あれほど王様の安息を妨げたらいかんと、何度言ったらわかるのだ?」
と舞い降りたのは、動物達から翁と呼ばれる老カラスであった。この近隣の動物をカラスが仕切るのも不思議な話だが、こちらでは伺い知れない動物の世界があるように感じた。なぁ――どうでもいいが。
小動物達は不満の声をあげる。「だってだって」とか「翁ばかりズルイよ」だったりと、より一層賑やかになる。王は少し苛々して、尻尾でベンチを叩いた。俺は寝たいんだ、との意思表示に過ぎなかったが、そのワンモーションで静まりかえってしまう。
「王様の御前である。伏礼せよ」
全ての動物達が頭を垂れて伏す。王は小さく息をついた、そういう余計なことは良いから、寝させてくれと思う。動物達の本能に赴くがままの好奇心と気安さと言ったら、まだルカやシリンジを相手にしている方が気楽だ。だがルカは言うのだ。遺伝子変容体の能力の一つなら、それを活用するのは手ではないですか?――と。
なるほどな、と思う。生の執着をもたなかった試験管ベイビーとは思えない言葉の強さを感じる。相変わらず、蒼白な表情からは、何を考えているのか読み取れないにしろ、だ。
ルカが言うことにも一理ある。だからこそ、小動物達に一つ、指令を投げかけたのだ。
「おそれながら王様」
と翁が言葉を続けた。
「王様の言うニンゲンが動き出した模様です」
王はその一言に目を目を細めた。ルカの提案に乗る形で、翁達に指示を出したのだ。シリンジは自分の思惑で動く。当然、王の想いは彼にとって、勝手な行動でしかない。王自身が動きたくても、生命の水の副作用が、体を蝕む。
このまま生命の水に飲まれるつもりはない。生命の水に打ち勝っからこそこの命がある。二回目も、無論同じことだ。
ルカはシリンジのシステムを活用して、弁護なき裁判団をハッキングしようとしている。生命の水を解析することが、王の身を救う唯一の方法と信じてやまず。
だが生命の水を浴びたのも2回目だ。長い付き合いの中で、この悪魔の妙薬に打ち勝つ方法は、一つしかないと思っている。
(この劇薬に勝る、生命力。それだ)
――それならば、できることはたった一つではないか。
限りなく水色に近い緋色と再度、接触し――命を燃やす。そして力で示し、彼女を娶るのだ。
王には后が必要で。王と后が子孫を残す。それはつまり優秀な遺伝子を残すということで。会いたいな、と思う。早く逢いたい。そして衝突しあって、壊れないことを確かめあいたい。
王は微睡みに引きずり込まれそうになりながら、翁に言葉を投げかけた。
「監視を続けろ。機会をうかがいたい」
「仰せのままに」
ひれ伏す獣達を尻目に、王は無防備に夢の世界に落ちていった。
――3――
「ところで、君の真意を聞いてもいい?」
と茜は、にぎやかさが収まらない中、ビーカーに囁いた。
「そういえば、こうやってあんたと話すのも久しぶりだったな? 実験室では【ビーカー】と言われているが、ここじゃただの山田だ。下の名前は考えてない。思いついたら、また言うさ」
「太郎でいいんじゃない?」
「お、いいな。それ。いただくわ」
「「それで、いいの?」」
涼太と蓮の声がともに重なる。二人とも、緊急事態に備えて控えていたのだ。声は発さなかったが、それは苦笑を浮かべていた彩子も同様で。茜の奔放さはいつものことなので、彩子にとっては今さらである。
「そうだな」
とニンマリとビーカーも笑む。
「水原茜という実験室元研究者とお近づきになりたかったことは大きいか。だが、それ以上に、こちらの一方的な思惑で申し訳ないが、利害が一致すると判断した」
「利害の一致?」
「SS級情報ハザード――シークレットセキュリティーレベルととまで言われた【限りなく水色に近い緋色】はもちろん、その相棒たるデバッガーも、そして、開発者である水原茜と接触できるだけで、このうえ無い機会だ。それこそ実験室の中では得ることができない、現場だからこその学びがある。そう思わないか、水原先輩?」
「ふぅん、でもデータベースの開示はしないよ?」
「それは必要なことなのか?」
「え?」
「研究者が共同研究でデータを確認し合うならまだしも、俺と水原茜、あんたとじゃ研究方針が違うだろ? データを確認することに、どんな意義があるって言うんだ?」
茜は目を丸くする。実験室の研究者は、自分たちの地位向上の為であれば、盗用も常套手段である。しかし、ビーカーの言うことは、何により真実だ。情報を得たとしても、研究分野が違えば、その知識も無用の長物になる。だが、実験室の世界は化かし、化かされる世界でもある。政治的な駆け引きで、どうやってフラスコに評価されるか、それだけを模索する研究者も多い。
そして、そういう研究者はフラスコが関心をもつはずもなく、あっという間に淘汰されていく。――唯一の例外はシリンジだった。
「最初は水原茜のサンプル達と衝突実験するのも面白いと思っていたんだけどな、興味が他に移った」
とんでもないことをさらりと、ビーカーは言ってのける。茜はそれを眉一つ動かさず、受け止める。
「そう怖い顔するなって、寝首を刈るような真似をしても俺には、何の得も無い。水原茜、あんたから先輩としての研究者道ってものを語ってもらうのも、後学の為になるんじゃないかと思ってる」
「ボクはボクの目的で研究している。ビーカーの参考にならないと思うし、無駄な時間だと――」
ビーカーはチッ、チッ、チッとリズミカルに舌打ちしながら、人差し指を左右に揺らして拒絶する。
「ここでは山田太郎でお願いしたいね。俺もあんたを、茜先輩って呼んでやることにする」
どんな尊大な後輩だ、と茜は呆れてため息をつく。勝手にしたら? と意思表示も兼ねながら。ビーカーこと山田太郎氏は満足そうにニンマリと笑む。
「俺はね、茜先輩にも興味があるし、宗方ひなたと水原爽のリンクシステムも興味がある」
「……」
「あんたの論文は読み漁った。スピッツ、シャーレの論文も。興味深かったのは、トレーとシャーレが共に特定サンプルのリンクシステムについて記載があることだ。だがあの論文から察するに、あくまで宗方ひなたと水原爽は、リンクするには至っていない。水原爽あくまで支援型サンプルの領域を出ていないってわけだな。ロードマップはそこまで達していないってわけだ」
「よく見つけたね。あの論文はデータベースの最下層に保管されていたはずなのに」
――遺伝子研究特化型サンプル、不安定要素補完の為のチームアプローチの可能性と検証。まさかあの論文をわざわざ読み漁る奇特な研究者が今いると思わなかっただけに驚きだ。
「現在、管理しているMotherのシステムがザルなだけだ。おかげで興味深く読ませてもらったがな。だが、それ以上に宗方ひなたに興味がある」
「へ?」
「面白いじゃないか? うちのほたるが感化されて、明らかにペースを乱されている。蓮も真もあんな顔ができるんだな、って研究者である俺が感心しているくらいだ。単純に好奇心をそそられる。まぁどちらかと言うと、一個人としての興味本位だが、もらうだけじゃフェアじゃないからな。あんた達にとっての有益な情報は提供するつもりだ。そうだな、例えば――」
ビーカーはこれまでの笑顔を消して、茜にだけ聞こえる声で囁いた。
「スピッツが実験室に舞い戻った。弁護なき裁判団は独自に動いて、一見暴走されているが、あれは管理権を誰かに剥奪されてるな。シリンジは現在、廃棄体4号を確保して逃走中。実験室の試験管ベイビー【禁断の林檎】が共にいる。フラスコは……こいつが何を考えているのかよく分からないが、何か目的はあるんだろうな。チェスシリーズが動きを見せている」
茜は目を丸くする。こうも惜しげも無く、情報を開示されると思わなかったので、意表を突かれ、言葉が出てこない。データ収集の断片から推測していたが、実験室の中の研究者から語られた言葉は大きい。
「ビーカーは――」
と言いかけて、茜は訂正する。
「山田太郎君は、それで本当は何が望みなわけ?」
隣で彩子が緊張を走らせるのは分かる。それに呼応するように、蓮もまた同様で。
「そうだな。まぁ立場上、頻回には来れないが仲良くしてくれたら嬉しいかな。どうせだ、実験室の思惑を少し開示してやるのも一つか。ちょっと協力してやろう」
と蓮に目で合図をし、彼もまた頷ずき、手元のパソコンを操作し、小さくキーを叩いた。茜も彩子も目を丸くする。
「茜先輩にも興味があるし、友人として宗方ひなたや水原爽にも興味があるってことだ、単純にな。それと純粋に」
と茜の耳元に囁く。
「エメラルド・タブレットにもな――」
いつもの日課で、カバンを置き、着替えたらまた出かける。兄の手がかりはまるで無い。警察は一定の捜査をしたら、フェードアウトよろしく、消極的だ。
――目下、捜査は継続中だ。お兄さんに関する情報が得られれば、ご家族にすぐお伝えをする。
進捗を聞く度に、同じ言葉が返ってくる。いっそ、プログラミングされて、同じ発言を繰り返すよう指示されていると聞いても、疑わないと思う。それほどまでに、警察官達の発する台詞は一字一句、同一だった。そして知る。捜査はすでに、警察の中では終了していたことを。それをご丁寧に教えてくれたのは、遠藤遼という警部補だった。
「この件にあんたは関わるな」
うるさいと思う。そしてオカシイとも思う。なにか、こじれてもつれて、歪んでいるのを実感する。でもソレが何なのか分からないから、気持ちが悪い。警察が隠蔽している印象すら感じた。でも、たかが女子高生には何もできない。
兄と同じ大学院の研究室の同僚達は、より複雑そうな表情で受け止めてくれただけに、救いがある。特に、兄の直属の上司であった宗方教授は、真摯だった。
――彼は真面目な研究員であり、私の敬愛する同僚だった。そんな彼が、何か恐ろしい事件に巻き込まれたなど、考えるだけで震えが止まらない。私の方でも何か、気付きがあれば勿論、君にはお伝えしよう。だけどね、君一人で解決しようと思っているのなら、それは駄目だ。危険なことに関わっちゃいけない。今は、司法に任せるんだ。
そう優しく宗方教授は諭してくれた。
その気持ちは有り難いと思う。でも、と思うのだ。一向に進まない――進める気がそもそも警察にないのであれば、自分が調べるしか無い。そう思っている。
と、携帯電話が鳴った。
兄の名前を期待したが、当然、そんなわけもなく。
「生徒会執行部?」
学校の生徒会から、直接のメッセージだった。
嘆願は出した。兄の消息を探してくれる可能性があるのであればと、ダメ元で意見箱に出した気がするが、その存在そのものを忘れていた。
メッセージには、生徒会長名義で、要望は受理したとある。
「へ?」
文章を確認して、また目が点になる。
――頼本浅海様。寄せられている案件は数多くあるが、貴女の出した嘆願書は優先事項に値すると判断した。今後は、生徒会執行部付相談員が、お兄さんの捜索に協力していくことになる――とある。
メッセージは続く。
生徒会執行部付相談員が、案件整理ができ次第、連絡があると思うので、分かる範囲での情報提供をお願いしたい、と最後に付記されていた。
(……どうでもいいかな)
小さく息をついて、メッセージアプリを終了させた。誰が協力してくれるとか、正直、そんなこと、どうでもよかった。兄が見つかるのなら、それで良い。そしてたかだか学生に何ができるだろうか、と思う。自分が藁にもすがる想いで、生徒会に向けて投げかけておきながら、身勝手であるけれど。
八つ当たりなのは自覚している。
今日も、手がかり何一つなく、浅海は出かけていく。オトナはどうして簡単に諦めることができるんだろう。
お父さんもお母さんも、兄がいない生活をもう当たり前のこととして、受け止めている。言葉にはしない。口にはしない。態度には見せない。だって、それをしたら浅海の感情が波打つのが両親は分かっているから。
この行動は無駄と分かっている。
多分、誰も言葉にしない結末が、もうすでに、現実では横たわっている。
それでも諦められない――。
浅海は自分の頬をその手で打つ。自分が信じるんだ。兄は無事でいる。絶対に見つける。誰もが諦めても、相手にしてくれなくても絶対に、絶対に。
頬を伝わる冷たい感情を、今は飲み込む。
諦めない、絶対に諦めない――。




