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ごくりと唾を飲み込む。窮地とは、こういうことを言うのか。
必死になって逃げていたが、やはり相手もさるもので、そうは簡単に許してくれるはずがなかった。
この組織力、さすがとしか言いようがない。
考えてみれば、実験室のサンプルも所属しているはずだ。水原爽から、この学校がカタログライブラリーであると聞いた時には耳を疑ったが――今では、少し納得できる。
彼女たちほど、実験室のサンプルに相応しい子はいないだろう。
執念、非常なまでのプロフェッショナルさ、徹底的なまでの業務完遂能力。どれをとっても、綻びすらない。
まさに完璧で。
人海戦術を駆使され、徹底的に追い込まれたのだ。
「……桑島さん、これはどういうことかしら」
一人が言う。
「ここ1か月の貴女の行動はモニタリングさせてもらったけど、規約違反が一つや二つじゃない。まさか裏切るつもりじゃないよね?」
にじり寄ってくる。距離を保ちたいが、校舎内で追い込まれては、どうにもならない。ましてや能力を起動するわけにもいかない。最早、万事休すだ。
「それと、気にくわないんですよね」
もう一人が言う。
「桑島さん。あなたは宗方ひなた――あの、ハザード級警戒対象と接触していますよね。まさかとは思いますが、私たちを裏切って、あの方と接触しようなんて思っていませんよね?」
追い詰められた。喉が奥底まで乾く。これはもうどうにもならない。弁解の余地もない。
「爽傘会の掟を忘れたわけじゃないわよね?」
ゆかりは、できるなら、耳を塞ぎたいと思った。
「それはないと思うよ。だって、この爽傘会を立ち上げたのは、ゆかりちゃんなんだもの」
言うな、言うな。やめて。マジやめて。
「水原爽様と相合傘に入りたい全ての乙女のための会、つまり爽傘会。これほど完璧なネーミングは無いと思います。さすが桑島さんです」
今なら思うよ。これほどひどいネーミングもないな、って。ゆかりは小さくため息をついた。
「爽傘会の結束3箇条が一つ。水原爽さんを会員は等しく愛し、敬うべし!」
「水原爽さんを会員は等しく愛し、敬うべし!」
一人が宣誓し、爽傘会の面々が復唱する。ヤメテ、本当にやめてくれない?
「爽傘会の結束3箇条が一つ。抜け駆けを禁じる。裏切り者には死を!」
「抜け駆けを禁じる。裏切り者には死を!」
あまりに物騒な物言いである。どんな秘密結社なのか。今なら思うが、爽は姑息な結束を嫌う。想いをつのらせて、こじらせても――悪循環しか産まれない。今だからこそ思えるが、爽は結局、ただ一人しか見ていない。
「爽傘会の結束3箇条が一つ。会員は血の結束を!」
「会員は血の結束を!」
爽傘会に入りたい女子は、血判を求められる。生半可な気持ちでの入会は許されない。この会そのものが、秘密裏に結成し活動している。軽はずみに口外したり、抜け駆けして水原爽にアプローチをするような裏切り者は排他しなくてはいけない。等しく、水原爽を愛する。それが爽傘会なのだ。――なんて会を結成してしまったんだろう、と我ながら思う。こうなっては、ため息しか出てこない。
「ゆかりちゃーん!」
聞き慣れた声に、思わず固まってしまう。一番、今、会いたくない人に、まさかこの瞬間を見られただなんて――終わった……と思ってしまう。
「すごいね、ゆかりちゃん。こんなにお友達がいて。あ、私、2年の宗方ひなたです。よろしくお願いします」
ペコリとひなたが頭を下げた。ひなたの無邪気な声に、爽傘会の面々は狼狽しながら応じる。会員達からしてみたら、水原爽に一番近しい宿敵だが、みんな毒気を抜かれている。
(ひな先輩って、こういう人なんだよね。憎みきれないっていうかさ)
今更ながらに思う。
「ゆかりちゃん、ごめんね。山田さんからね、放課後、生徒会室に来て欲しいって言われたの。爽君と茜さん、涼太君にはもう伝えたんだけど、ゆかりちゃんも来てくれる? やっぱり不安で。でもゆかりちゃんがいてくれたら安心だから……ダメかな?」
「もちろん」
自然と笑みを浮かべながら、答えた。
ひなたのお蔭で、爽傘会のことはうやむやにできたような気がするし――。
「宗方先輩、かわいい……」
「あれは、天使だ」
「マジ、天使」
「癒やしでしかない」
「なにあれ、可愛すぎ」
トリップして何か呟いている会員達を尻目に、ゆかりはこっそりと抜け出す。ひなたに癒やされるのは認める。爽をめぐるライバルのはずなのに、憎みきれないのだ。
だが爽傘会の面々は、それとは違った方向に、歪んだ形でひなたに愛情表現をしようとしているように見えた。
嫌な予感しかしない。
とりあえず、と思う。
爽傘会の秘密を守る。そして、速やかに解体をする。これが今、桑島ゆかりに課せられた使命なのだ。黒歴史は、誰にも知られることなく、暗闇の中に秘密裏に処理しなくてはならない。
誰にも知られることなく。ましてやひなたや爽に知られるわけには、絶対いかないのだ。
ただ、ゆかりの思いもよらない所で、事態は動く。
この日、宗方ひなたを愛でる会――雛愛会が結成されたとゆかりが聞くのは、それからさらに数日後の話となる。
軽くノックをして、スピッツは中からの返事を待つことなく、ドアに手をかけた。
フラスコから呼び出しておいて、とも思う。どうせ、実験三昧で片手間に指示を出すようなヤツだ。どうして、こんな男が政府中枢とコネクションを持てるのか、疑問を感じる。だが、その彼が作り上げた、実験室があるからこそ、スピッツは唯一、生きる活力を得ているのも事実だ。
と――。
ドアを開けた瞬間に、炎が膨れ上がる。スピッツは、身じろぎもせず、指をパチンと鳴らす。その瞬間に、足元から大樹の幹がせり上がり、スピッツの盾となる。床を容赦なく突き破りながら、大樹はまるで深呼吸をするかのように、風をはらむ。
その風の流れのままに、炎はあっという間に、消え去った。――否、とスピッツは微笑む。ヨリモト君が、フラスコの炎を飲み込んだ。造作ないことだ。
「スピッツ、悪かったな」
とフラスコは感情を1グラムも込めずに言う。あくまで、実験の余波と言いたいのだろう。彼らしいとも言えるし、珍しくフラスコが感情を表出させている。お気に召さなかったんだろうな、と思う。その理由に心当たりがあるだけに、スピッツは申し訳ないな、とほんの少しだけ思う。
――ほんの少しだけ、だ。
「室長が、そんなに感情を剥き出しにするなんて珍しいじゃないか。そんな怒るなよ」
「……」
フラスコは、試験管越しにスピッツを見やる。
「プレパラートを、そそのかしたな」
「否定はしない」
「弁護なき裁判団をカタログライブラリーへアクセスさせる。トレーのライブラリーにアクセスする為とは随分、都合が良い話しじゃないか。この件で得をするのは、弁護なき裁判団にアクセスすることができた、命令を出すことができた誰かだ。その誰かは、実験室のカタログライブラリーのデータと、トレーのライブラリーデータを盗むことができたワケだ。そうは思わないか、スピッツ?」
「そう簡単にいけば、ね」
とスピッツは、白衣から、缶コーヒーを取り出し、蓋を開けた。静かに口をつける。
「室長、あなたは何がしたいんだ?」
スピッツは冷ややかに言う。
「トレーのライブラリーにアクセスする気になれば、あんたはいつでもできた。それを今までしなかったのは、何故だ?」
スピッツは再度、コーヒーを煽る。
「室長は、エメラルド・タブレットが必要なんじゃないのか?」
フラスコは、白けたようにスピッツから目をそらし、試験管の中の試薬に注意を向けた。
「さすが【壊し屋】だな、スピッツ」
「それはお褒めに預かり光栄――」
スピッツは、言葉を飲み込んだ。その喉元に、まるで鏡のように磨かれた剣が突きつけられる。銀の甲冑に身を包んだサンプルが、そこに居た。
まるで反応ができなかったことに、スピッツは戦慄を感じるが――にじみ出る感情は歓喜で。フラスコの特化型サンプル、チェスシリーズを相まみえたのが、行幸か。
「ご苦労だったね。【騎士】心配をかけた」
「油断のしすぎだ。こんな蝿を傍まで飛ばすなんて。【兵】を配置すべきだと、何度進言をしたと思っているんだ? それに【女王】はどうした?」
「限りなく水色に近い緋色に触発されたのが正直なところかな。彼女を御すると考えることの方が難題なのは、【騎士】の方がよく分かっているだろう?」
「そちらの話がすんだのなら、こちらも意見させてもらおうか」
とスピッツはにんまりと笑んで――歩みを進めた。ナイトは驚愕の顔を浮かべる。その喉元に自ら、剣を沈めていく。その剣が刹那――霧散した。ナイトの手には柄だけが残る。
「なるほど、元素レベル物質生成か。悪くはない。能力と併用することで、良い結果を生みそうな戦闘型サンプルだ」
「君は、壊し屋具合が一段とあがったようだな」
フラスコは冷たく笑むが、スピッツは意に介さず、デスクに腰を掛け、試験管越しにフラスコを見やる。ナイトは、剣を再度生み出す。スピッツは、その剣先を左手の小指で造作なく払った。
「ナイト、やめておけ。彼は自分の研究の為ならば、いくらでもサンプルを壊す。彼がサンプルを他の研究者のように追随させない理由の一つだ。スピッツ自身が特化型サンプルのデータベースそのものといって差し支えない。威嚇程度なら、我が剣として振り回すことも良いが、本気でことを構えることは本意ではないぞ?」
「私も、本気で事を構えようとは思っていないさ」
スピッツはニヤリと笑う。
「改めて、室長にはお詫びしよう。実験室のデータベースを危険に晒すつもりはなかった。だが私自身が、実験室のデータベースもトレーのデータベースにも興味があった。研究意欲を抑えきれなかったと言っても良い。反省する」
「不遜な謝罪だが、まことにスピッツ、君らしい」
フラスコは小さく笑む。だが明らかに笑っていないその目が、スピッツに向けて警鐘を鳴らしてくる。
「君が君の研究をすることは結構なことだ。だが、実験は継続稼働中だ。エメラルドタブレット起動の為のロードマップは邪魔するな。君もエメラルドタブレットの知識が必要なんだろう?」
と、スピッツに向けて、メモリーデバイスを投げる。スピッツは造作なく、掴む。
「磁気型記録メディアなんて、なんて年代物を――」
「それに弁護なき裁判団のNo.Xへのアクセスコードを保存している」
「な?」
「もちろんパスワードロックをかけている。が、君なら解除も易いだろう。永久欠番であるNo.Zにハッキングできたスピッツなら、ね」
スピッツはゴクリと唾を飲み込む。そこまでお見通しとは白旗を今は振らざるえないか。さすがはフラスコと言わざる得ない。
「君たちが開発した【限りなく水色に近い緋色】の基礎開発データも、トレーの支援型サンプルのデータも登録された上で、No.Xが独自の解析を行っている。実に興味深い支援型サンプル――総司令型サンプルと言ってもいいかもね」
「……」
「私はね、スピッツ。弁護なき裁判団がレガシ-デバイスとは思っていないよ。川藤君に言ったことがあるんだけどね、彼らにはバージョンアップが必要だ。まさしく今がそれにふさわしい時期だと私は思っているよ」
スピッツはフラスコから渡された記憶媒体を見やる。昔から得体が知れない研究者、という認識だった。スピッツはスピッツで独自に、研究を進める。自身の目的のためなら、どんな犠牲も厭わない――そんな想いでいたからこそ、実験室を、フラスコを軽視しすぎていたのかもしれない。
フラスコは、こいつは――。
(とんでもないバケモノだ)
この間もチェスシリーズの【騎士】が息の根を止めてやろうと殺意を無遠慮に、叩きつけてくるから油断ならない。
「なんの為に俺にここまです――」
「ロードマップの一環だよ」
フラスコは何でもないことのように言ってのける。
「情報が欲しいのなら、くれてやる。だが姑息に動き回って、私のロードマップを乱すな、ってことだ。プレパラートは原石の研究者だ。あの子には、これから実験室の研究者として狂ってもらう。君の邪な知恵は必要ない。限りなく水色に近い緋色がオーバードライブ理論を得たことも余計なことだ。が、面白くなったとも言える。トレーにそれぐらいの情報提供はすべきか。No.EとNo.Kがトレーが確保されたのは――これも面白くなりそうではあるかな」
フラスコは試薬を混ぜ合わせることに集中し始めた。ナイトが、今まで叩きつけてきた殺意を霧散させ、剣までも納める。もうスピッツに用は無いと言わんばかりに。
託された記録メディアを見やりながら、スピッツは小さく息をついて、素直に退室をすることにした。
いいだろう、と思う。スピッツが実験室に戻ったのは打算でしかない。【限りなく水色に近い緋色】におけるスピッツのロードマップは、すでに予想外の方向へ進んでいた。
《《基軸である緋色を、水色が抑え込んでいる。》》
水色が砕け、挫折し、そしてサンプルの能力に飲み込まれると予想していたのに――意外にしぶとい。
水色というバグを潰す為の【デバッガー】が、ひなたに執着しているのも、この結果に寄与している。こんな結果では、日向に投与できるわけがない。
笑っていればいい。
能天気に。
束の間の幸せを感じながら。
日向の為なら、俺はどんな犠牲も厭わない。研究者の倫理に触れようが、フラスコに背こうが、神の逆鱗に触れようが――。
かつん、かつん、と。
ラボの中、自分の足音が響く。それは――自分自身の歩みが血塗られ、罪で上書きされた亡者の行進であることを自覚しながら。
どんな犠牲も、厭わない。
生徒会室を前にして、爽は小さく息をついた。
生徒会執行部からのお願い。正直、気乗りしない、それが爽の正直な気持ちだった。ビーカー麾下の【神々の黄昏】シリーズの介入。支援型サンプルとしては警戒対象におくのも当然のことだと思う。それなのに、ひなたはあっさりと言ってのける。
――あのね、爽君。私も色々考えたんだけど、私のせいでみんなを危険な目に合わせている自覚がある。まだ私には力がないから、実験室からみんなを守れない。それなら、少なくとも今は、生徒会長さん達に協力してもらえるかも、でしょ?
あの時の、ひなたの力強い言葉が、爽の鼓膜を今でも震わす。この学校が実験室のカタログライブラリーである以上、何かしらサンプルとの接触は避けられない。そして実験室が何を思って、ひなたに接触しようとしているのか、全く理解できない。
推測できることは、実験室も一枚岩じゃない――。少なくともフラスコの計算と同じ方向でビーカーは動いていない。
そしてスピッツが、実験室に再加入したことをハッキングした。ひなたの父は何を考えているのか、理解しがたい。【限りなく水色に近い緋色】をスピッツは開発することを諦め――トレー、水原茜に託した。
スピッツは、スピッツの想いのもと実験室に再度加わった。スピッツと直接対峙した野原彩子曰く、ひなたを物扱いしていた――らしい。
だろうね、と思う。
実験室時代、常に泣いていたひなたを思い返す。
お父さんに、お母さんに認められたい。それがひなたの生存欲求だった。逆を返せば、スピッツにとってひなたは、常に研究対象でしかなかった、というわけだ。
爽はスピッツに対しては何ら、感情を持ち合わせない。ただ、ひなたを害する存在であれば、爽は徹底抗戦をする、それだけの話しだ。
それは【神々の黄昏】シリーズに対しても一緒で。
「爽君?」
ひなたがキョトンとした顔で、爽を見る。
力みすぎだな、って自分でも思う。桑島はまるで頓着していない表情で、腕のストレッチをしている。だが、その目はどんな事態も対処してみせると、自信を見せているから頼もしい。
「そろそろ、行きますか」
ゆかりがニンマリ笑む。その手に挑発的なまでに、青白く雷光を帯電させながら。アイギスの全体領域構築は厄介だが、対処法が無いわけじゃない。それは前回の情報戦である程度確認しているが――それが全てじゃない。
ただ、生徒会長はひなた達の協力を必要としている。それならば、ひなたの言う通り、【神々の黄昏】シリーズの提案に乗るのも一興だと思う。いざとなれば噛みついて――戦況を逆に支配してみせる。その為には、ひなたや爽を含めて能力の向上が必要で。ひなたもゆかりも、そういう意味で言えばまだ特化型サンプルとしては発展途上だ。
そろそろ爽も【調整】を決心しないといけないのだが――今は目の前のことに集中すべき、と自分に言い聞かせる。
爽が軽く、生徒会室の厚い扉をノックした。
爽達以外、誰一人いない校舎は静寂に包まれていた。その静謐さを打ち破るかのようにノック音が反響した。
「はいはーい、どうぞー。宗方さん、爽君、桑島さん、遅いってばー。待ちくたびれちゃったよー」
聞き慣れた、緊張感の無い声が返ってきて――三人は思わず顔を見合わせた。
「姉さん、なにやって――うわっ、酒臭っ! 生徒会室で、何やらかしているのさ!」
姉――実験室元研究者トレーこと、水原茜はケタケタ楽しげに笑っている。テーブルにはすでに、缶のカクテルが転がっていて、呆れたを通り越して無視を決め込む彩子と、茜にからまれて半分涙目の涼太。山田ほたるは白い目でこちらを見るし、副会長の田中真はコップに注がれた透明なナニかを呷って、生徒会長の神谷蓮はそれを見て満面の笑顔を浮かべている。
さらにはビールジョッキを握りながら、陽気に笑っていたのは――。
「ビーカー」
実験室研究者にして【実験狂】の異名で実験室の中核を担う研究者ビーカーが、その場に居たとなっては身構える。羽島みのりとの出会いの中で、旧清掃工場で邂逅したのは爽だけだったが、【神々の黄昏】シリーズの開発者というだけで、警戒対象として認識するには十分で。爽は、迷わずファイアーウォールを展開しようとして、それより早かったひなたの挙動に、つい目を点にしてしまう。
ひなたが、その手に炎を宿す。アイギスが能力を展開したのだろう。その炎はあっさり消えたが、熱量はそのまま残る。爽の【感知】がひなたの、発火能力が稼働継続中である事を伝えてくる。爽はブレーキの発動がいつでも行えるよう準備をした。
ひなたは暴走をしていない。ひなたの意志で、燃焼させているのであれば、爽があえて止める必要もない。
その意図は、分かる――。生徒会を利用しようと言いながら、研究者【ビーカー】を目の前にして身構え、爽とゆかり、彩子、涼太、そして茜を守りたいと直感的に思っている事が、感覚通知から痛いほどに伝わってきた。
「ほたる、どうして中途半端に制止した? アイギスを使うなら徹底的に抑え込め。【限りなく水色に近い緋色】はお前と同じ、特化型サンプルだぞ?」
ビーカーの冷静な声にほたるは、はっとする。室内の温度が上昇し、息苦しさが増す。ひなたの発火能力が酸素を食い荒らしているのだ。この密閉空間の中で酸素がなくなればいかに、特化型サンプルと言えど窒息する。まして換気をしようと空気を流し込めば、即座にバックドラフト現象で大爆発は免れない。ほたるは慌てて、アイギスを起動しようとして――爽がスマートフォンを操作しながら、掌をひなたの掌へ合わせる。
やれやれ、と言いたげに彩子も立ち上がった。
「山田さん、これはサービスと、お詫びも含めてだ。ただそちらも、何も伝えず、ビーカーを同席させたのは失点だぞ? 俺達は無条件で、生徒会に協力するわけじゃない」
爽は小さく微笑む。ひなたと付き合わせた掌が、仄白く光る。淡く弱々しい光が、この戦慄で満たされた空気を変えるには充分だった。
「「シャットダウン」」
爽と彩子が同時に呟く。その刹那で、ひなたの燃焼反応がウソのように消えてしまう。ほたるは、目を丸くし、ビーカーはにやりと笑む。
「なるほどな」
とビーカーはビールを呷りながら、まじまじと眺める。
「アイギスは絶対領域で一定空間を制圧する事を目的にしているが、【デバッガー】は局所的に、能力稼働を強制終了させるか。これはまたとんでもねぇな」
「お褒めにあずかり光栄だけど、支援型サンプル基礎研究ブレーキの上位版だからね。稼働しているスキルプロセスを全て塗り替えて終了させるワケだから、負荷は半端ないよ? 今回は【デベロッパー】であるあーやが、演算計算や負荷分散を近距離でリンクさせた事で可能にしたわけで、おいそれ多発できる能力じゃないからね」
とは缶チューハイをちびりと口を付けながら、茜。
「ちょっと水原先輩、そろそろお酒は控えた方が、いや未成年がお酒は――」
途中挟まれた、涼太の一声は無視され、研究者のディスカッションは続く。
「山田さんの【アイギス】か。あの能力も面白いね。領域を構築し、優位な環境を作り上げるか。つまり、山田さんがいる場所を中心に、戦場を塗り替えるわけね? 言うなれば即時戦略再編って事よね。とても興味深い」
「そういう事だ。トレー、あんたの支援型サンプル基礎研究の論文は読ませてもらったが、それと同じサンプル構築じゃ面白くねぇ。俺が【アイギス】に求めたのは、何者にも貫くことができない盾――まさしくアイギスだ。ほたるが絶対領域の中で、戦場を支配する。それは相手の能力稼働も、情報も含めて、全て制圧するんだ。ただ、ほたるのウイークポイントは支援型なのに、熱くなりすぎる事だな。【デバッガー】の冷静さが、やはりほたるには欲しいな」
「悪かったわね、いつも熱くなりすぎて」
ほたるはそっぽ向くが、茜とビーカーはお構いなしである。
「あ、爽君もああ見えて、宗方さんバカだからね。宗方さんがからむと、周りが見えなくなるから。ボクもそこは本当に困りものだと思ってるよ。バックアップシステムとして、あーやがいてくれて正解だったな、って今は思う」
「誰がひなたバカだよ」
と言いながらも、合わせた掌を離そうとしないのだから説得力のカケラも無い。狼狽えるのは、ひなたばかりだった。
「ちょ、爽、お前いい加減その手を離せって!」
と涼太は叫ぶが、田中真に無理矢理、透明な液体を飲まされ、涼太は即沈黙した。顔を真っ赤に、口をパクパクさせて――。
「だらしねぇな、日本酒も水もかわらぇーだろ」
「酒と水じゃ、大いに変わるに決まってるでしょ!」
ほたるが上げる抗議を素直に受け取る、真なワケはなく。この状況に頭を抱えるしかない。
「やれやれ」
と爽は小さく息をつく。
「うちの姉さんも大概、お祭り好きだけど、ビーカーもなかなかだね」
「あぁ……あの人、お酒が入ると楽しくなっちゃうからね。【実験狂】なんて言われているけど、したい実験だけして、基本はさぼる不真面目人種だから」
言いながら、ほたるはげんなりとした顔をする。
「同類なんだと思うよ」
爽は苦笑しながら応じる。
「そこで、だ。山田さん、どちらにせよ生徒会に協力するつもりで今日は来てるから、休戦協定と同盟を結ばないかい?」
「同じ学年なんだから、ほたるでいいけど?」
「俺、好きな子にだけ名前を呼ぶ主義なんだ」
「あ、そう」
ほたるはどうでもいいと言いたげに、しらけた表情を浮かべる。
「涼太、【ドクトル】なら自分のアルコールの解毒くらい、すぐできるだろう? その後、山田さんにアイギスで絶対領域を張ってもらおう? 涼太の能力を俺がブーストをかけて、デバッグチェインで一時的にアイギスとつなぐ。これなら、アイギスが絶対領域の起動をかけた時に、改めて情報認識をする必要もない。アイギスなら情報の選別もできるでしょう? 山田さんが渡したくない情報はこれなら開示しなくて良い。広範囲の演算計算は、うちの【デベロッパー】がしてくれる。その上で、この酔っ払いどもに、アイギスとの相乗効果で、ドクトルの能力【解毒】をみんなにかけてあげるのが、一番てっとりばやいと思うんだけど、どうかな?」
爽の言葉に、酔っ払い集団の表情ががらりと変わった。
「お、お前、この宴に水を差すようなことを! ほたる、やめ! だめ、絶対、やめろ!」
「お姉ちゃんは、爽君をそんな子に育てた憶えはないのよ、およよよよ」
「酒を飲もうぜ、まだまだ足りねー! お前らも飲め、飲め!」
ビーカー、茜、全力の拒絶に、爽は頭痛がしてくる。そして、真は酔いすぎて、何も理解ができていない。
「桑島、ちょっとあの人たち黙らせて」
「あいあいさー」
ゆかりは仏頂面で、電力を解放する。やや加減したにせよ、電圧とともに電流の加圧が、瞬間的に落雷レベルに達したことを検知したが、彩子はあえて黙認する。爽が余計なことを言うから、ゆかりの機嫌が珍しく悪いことと言ったら。
(水原君は、きっと露にも気付いていないだろうけどね)
むくわれないゆかりに対して、彩子は少しだけ助け船を出してあげることにした。
「ふーん、水原君は優等生のことは名前で呼ぶんだね」
ニンマリ笑んで爆弾を投下する。
「野原、お前、なにふざけたこと――」
「この状況で、その冗談笑えないって」
「それは興味深い。僕も、水原君と名前を言い合う仲になりたいね」
爽と涼太の苦い表情に対して、生徒会長・神谷蓮は満面の笑顔で。もっとも、涼太はドクトルのスキルの一つ【解毒】を使用し、すでにアルコールがぬけているから流石と言うべきか。
と、取り残されたように、不安そうな表情を浮かべるひなたにむけて、彩子は無造作に髪を撫でてやる。ひなたが、【発火能力】を行使したことで、自分が暴走したと悔いているのが、ありありと分かる。
(バカな子なんだから)
と彩子は微苦笑しながら思う。もし彩子に能力があったら、実験室の研究者を前にしてする反応は、ひなたより過激になると言わざる得ない。ビーカーも茜も迂闊過ぎるのだ。
もっとも茜の場合は、これもサンプル稼働試験の一環と断言しそうだ。実際に、ひなたの危機意識レベルは向上している。初動でこれだけ動けるのも、バックでアシストする爽達への信頼関係がある故、だ。
それなら、こんなどんちゃん騒ぎをする必要はなかったと思うのだが――純粋に飲みたかったんだろうな、と思う。きっと涼太と一緒にいることで、珍しくはしゃいでしまったのかもしれない。
長く茜とは付き合いっているが、こういう表情を浮かべるのは、ここ最近の話しだ。ひなたに感化されて――少なからず、涼太を無自覚に意識している様子がある。
(あの茜ちゃんが、ね)
とは思う。彼女に残されている時間が少ないことは置いておいても、と彩子の独白は声にはせずに。高校生なんだから、そこは素直でいいんじゃないかと思う。茜が戸籍データも、姿形も、遺伝子情報すら偽って、今ココにいるのは間違いないけれど。
涼太の前で見せる表情は、本当の意味で、水原茜なのかもしれない――。
「野原、演算の補助頼むよ。ひなた、ブーストを手伝ってくれる?」
「わかった」
「うん」
ひなたは、ようやく笑顔を溢す。爽のデバッグ・チェインがほたるの、指先に絡まる。彩子の脳裏に限定された【アイギス】からのデータが転送されてきた。相乗効果でブーストを涼太に上乗せさせていく。
準備は整った。
「それじゃ、いきますか?」
爽が小さく笑んだ。
――この、20分後、ようやく生徒会執行部、そして実験室研究者ビーカーとの非公式会合が再開することとなったのだった。
おまたせしました最新話です。他サイトでは細切れ更新で、わりかし遅筆ですがコンスタントだとは思うのですが、なろう様はこのスタイルでいくので、エピソード一括更新なので、こういう形になってます。次はもっと早めに更新」できるよう頑張っていきたいと思います。
【次回予告】
生徒会執行部に招き入られたチーム・トレーは、執行部からの依頼を承諾する。
その水面下で、やはり実験室やシリンジ、廃棄体4号は蠢動する。




