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限りなく水色に近い緋色【原作版・連載中止】  作者: 尾岡れき
第3章「鎖に繋がれた獣は、朝陽を前に夢を見る」
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 朝陽が昇る度に、希望に巡り会える。だから私はあなたに会いに行く――なんて能天気な歌詞なんだろう、と思う。ピュアな歌詞の割にノイズギターを鳴らし、ギターソロへ。


 かちゃ。


 ラジオを消して、小さく息をつく。朝からこんなやかましい音をセレクトするラジオ局に辟易し――結局、どんな理由でも苛々は止まらない。無節操なニュースだって、通り過ぎる人の声だって、あの人が帰ってこない現実を突きつける。


(どこに行ったの?)


 警察は捜索の中止を決めた。手がかりが何ら無いのだから、そこは責めることができない。


 だが、と言って諦めることなんかできない。


 欠伸を噛み締めながら、自転車にまたがる。

 眠れない夜を乗り越えて、ようやく朝がやってきた。


 高校生に許された時間は少ない。


 ぐっ、と拳を握る。

 手がかりなんて、まるでない――それでも。


 振り返って、表札を見やる。

 大学の研究室を出てから消息不明の帰ってこない兄を思いながら。


 ペダルを漕ぐ。

 あてもなく、彷徨うように探すことしかできなくても。


「いい加減に帰ってこい、バカ兄!」


 八つ当たりに近い声は、誰に受け止められるでもなく、空に溶けて消えた。

 

  

 

   

     

       

 



 

 ひなたとゆかりはゆっくり背伸びをする。朝の冷たい空気を吸い込みながら、体をほぐしていくと、細胞の一つ一つご目覚めていく感覚が最近、好きだった。


「ひな先輩、元気すぎじゃない? 私、眠いんですけど」


 ゆかりらしい、とひなたは思わず笑みがこぼれる。それでもなんだかんだ言って、毎朝付き合ってくれているのだから、ゆかりらしい。


「適度な運動はダイエット効果があるから、がんばれ」


 彩子はおざなりに言う。


「なら、野原先輩もやれー」


「私は戦闘型サンプルじゃないので、お付き合いできなくてごめんね。あと、体型的な理由でも、桑島さんにお付き合いできなくて、ごめんね」


「むきー! そういうこと言うか!」


 とジタバタしていると、茜が手を軽く叩いた。


「さてと。それじゃ、はじめますか」


 茜と彩子はベンチに座り、ノートパソコンの前に待機。爽は自転車のサドルにまたがり、合図を待つ。


 ここ最近日課になっている10キロランニング。調整(コーディネート)を始める前に、基礎体力をあげるのが先だと茜に言われた。


 ――パフォーマンスを向上させようと思ったら、体力向上は不可欠。宗方さんは特に能力(スキル)に頼りすぎている。


 それは、ひなたにも自覚がある。


 言ってみれば、ひなたは【緋色】に頼りすぎている。ひなた自身は結局、何の力もないし、みんながいるから、これまでも実験室と何とか対峙できた。


 【発火能力(パイロキネシス)】が安定しているのも、爽がいてくれるからだ。


「そんなことないから、ね」


 爽が何でもないように囁いていた。些細だが感情が乱れて、自分の本心がみんなに筒抜けになっていたらしい。


「まぁ、自戒も行き過ぎると鬱陶しいからね。いいんじゃない? 一人はみんなの為に、みんなは一人の為に、お前のものは俺のモノぐらいで――」


「茜ちゃん、ちょっと黙れ」

「いいこと言うなと感心した3秒前の私に謝って!」


 容赦なく言い放つ、彩子とゆかりに苦笑しつつ、ひなたはゆっくりとアキレス腱を伸ばす。


「呼吸、脈拍、ともに良好。柔軟性もでてきてるね。今までラスト3キロで負荷をかけていたけど、今日からは予定通り、5キロでいくよ?」


 コクリとひなたは頷く。


「ひな先輩の心配ばかりは、ズルいと思うんですけどー」


 私も一緒に走ってるんだぞ、とストレートに主張するゆかりがひなたは羨ましい。


「はいはい、桑島には最初から負荷4倍でいくから、安心しろって」

「そういうことじゃない!」


 ゆかりの絶叫を他所に、茜がホイッスルを短く吹き鳴らした。


 おふざけは、ここまで。

 ひなたは姿勢を正す。


 再度、茜がホイッスルが鳴らす。


 イメージが大事だと爽は言う。バネのようにしなやかさをイメージする。

 この前のライオンさんがいいかもしれない。ライオンさんは、しなやかで早くて美しかった。緋色が興奮するのも分からないてもない。あの子の闘争本能は、ひなたの中には欠けている。だからひなたは、それが欲しいと切に願ってしまう。


 ――まだ私は、爽君に頼られてない。

 だから、だから。


(爽君を守るチカラが欲しい)


 筋肉を意識して、大地を蹴る。

 風が頬をよぎるのを感じながら、前へ前へ。


 何も望まないだなんて、ウソだ。こんなにも、ひなたは渇望している。ゆかりのように頼って欲しいと思う。


 ――その感情を嫉妬と言うらしいぞ、水色?


 遺伝子情報の海から囁く緋色の声は、脈打つ動悸にかき消されて、雑音も雑念も消える。


 欲だな、って思うけど。

 それでも偽れない。


(爽君を守るチカラが欲しい)


 ただ、それだけを念じて。











 コポコポと薬液を蒸留させる音が響く。その横では積み上げられたディスプレイが、リアルタイムで実験室のそれぞれの研究結果を無作為に写し出していた。


 フラスコは見ているのか、見ていないのかお構いなしに試験管を弄ぶ。薬液が跳ねて、絨毯を焦がすが、それすら関心がない様子で、調合を繰り返していた。


 試験管の薬液越しのフラスコの瞳は、柔和に見せかけて獰猛で。実験室の研究者すら実験対象としか捉えていない。


 そうだとしても――魂を捧げていいと思うほどに、心酔する研究者は多い。実験室は禁忌を犯すが、そもそも科学は禁忌の連続なのだ。

 彼女もそうであることを、フラスコはよく理解していた。道具の使い方を心得てこそ、ヒトがヒトたる所以だ。


「申し訳ありません」


 深々と、彼女は頭を下げた。


「別に謝る必要は無いさ。プレパラート、君は本当によくやってくれた。実験にイレギュラーはつきものだ。今回は色々なことが同時に動いた、ただそれだけのことだ。まずは一番気になる【禁断の林檎】の動向から報告してくれるか?」


 実験室内では女史と言われる事が多いプレパラートだが、フラスコは率直に研究者者名クリエイターネームで呼ぶ。それが彼女の誇りをくすぐるのを理解の上で、そう囁く。


「はい。現在、廃棄体4号はドクターシリンジとともに行動をしています。正常に稼動し、不具合は検知されていません」


 プレパラートの報告にフラスコはやや、目を細めた。


「弁護なき裁判団のレポートと相違があるのは感染の兆候か?」


「そう思います。もともとが、過去の遺産(レガシーデバイス)です。ドクター・トレーの管理下から離れ、セキュリティーホールのリスクは増大しています。正直、メンテナンスも限界です」


「だろうね。No.EとNo.Kの同行は?」

「レポートの通りです。一時的にリンクは切断されましたが、現在は接続可能な状態になっています」


「上位管理権をもつナンバーズがシステムから外された、か。No.Zは?」

「安定稼働しています。今のところエラーはありません」


「No.Zに意思はない、安定稼働さえしていれば害はない。問題はNo.Xか」

「永久欠番のナンバーズですね。ですがそこはドクター・トレーが本来は――」


「そういうこと。だが、トレーの干渉は有り得ない、彼女の性格を考えれば、ね。だから間違いなく、第三者が干渉している。セキュリティホールを悪用された、と言えなくもない」


「引き続き、その点は解析を続けます」

「頼む。それよりプレパラート、スピッツの研究成果はどう思う?」


 とフラスコは薄い笑みを浮かべて、プレパラートに投げかける。実験室の研究者達の中からは、『稀代の天才の復帰は、期待外れ 』という声しか上がってこない。

 バイオテロ植物。遺伝子研究サンプルとして、カタチすら為していない。あれでは単なる【廃材】でしかない――その評価に、プレパラートは同意しかねていた。


「……醜悪で、発展途上で、それでいて恐ろしさと――美しさを感じました。あの特化型サンプル達の特性を踏まえた上で開発され、なお本体は晒していない。全貌はあの一戦では把握しかねます」


「君にその観察眼があるなら良い。スピッツは以前から、固定概念を廃したイノベーションを理想としてきた。【限りなく水色に近い緋色】の研究も、多重に実験的なのも頷ける。スピッツとシャーレ、そしてトレーが隠してきた研究も興味深い。スピッツの目的が、純粋な研究だけでないのも今更だが、そこはとりあえず置いておこう。彼の研究結果を見ていけば、自ずと分かる。今はまだその時じゃない」


「はい、定期的にレポートを送信します」

「そうだな」


 フラスコはニンマリと笑む。


「糸がもつれればもつれるほどに好都合だ。あの子だけは目を離すな」

「承知しました」


 プレパラートは深く頭を下げ、退室する。会談は終わった。その節目をプレパラートはよく理解している。それが欲にまみれた研究者や政治家と違って、何とも心地よかった。


 フラスコは薬液の実験過程に目を向ける。泡が弾けて、フラスコの頬を溶かす。剥き出しの筋肉を、あっという間に新しい皮膚が覆い尽くして、傷痕すら残さない。


「いまだ【弁護なき裁判団】など使わずとも、我らに指示を出せばよいものを」


 声は唐突に響いた。姿はなく、ただ影だけが揺れるが、意に介さずフラスコは試験管を見やる。


「ビショップ、君はせっかちだな」

「チェスのみんなが、そう思っている。お前が作った特化型サンプルというだけで、活躍の場が狭まるのは不本意だ」


「政治の世界は、そこらへんの特化型サンプルに任せるわけにはいかないからね。(こら)えろ――というのは無理なんだろう?」

「クイーンがいつ暴走してもいいのなら、呑気に構えているがいい」


「やれやれ――と言いたいところだが、君達に頼みがある」

「は?」


「造作無い事さ。糸はもつれれば、もつれる程に良い。そろそろ本格的に、君達にお仕事をお願いしたくて、ね」

「聞くだけは、聞こう……」


 フラスコは歪んだ笑みをこぼす。糸はもつれれ絡んで、解けない方が良い。強固な結び目で、固結びで、ほつれても解けずに君を縛る。それは、あれほと夢を見てきたロードマップの結末なのだ。


 試験管をあおり、薬液を飲み干す。


 喉を焼くほどの痛みが駆け巡り――細胞という細胞が目覚めるような感覚に酔う。

 あと少しで手が届く。

 エメラルドタブレットが――。











「なかなか、良いペースで走ってるんじゃない」


 ノートパソコンを見やりながら、茜は小さく呟いた。特化型サンプルと言えど、魔法のような能力開花はあり得ない。緻密な調整と、稼働試験は必要不可欠だ。


 実験室時代はスピッツとシャーレが、過剰なまでに負荷実験を繰り返していた。ひなたはあの時の事を語らないが、小さな子どもには拷問だったに違いない。


 もっとも、その記憶は欠落している。

 茜はあえて実験室時代について触れない。

 

 特化型サンプルはデリケートな存在だが、宗方ひなたという子は、輪にかけて繊細だった。スピッツとシャーレの子として育ってきたのだから想像に難くないが、ひなたは愛情に飢えている。ましてコントロールできなかった能力(スキル)を含めて、ひなたは消化不良で――戦意に欠けていた。

 能力上限稼働(オーバードライブ)で緋色が稼働した時の記憶は欠落したと考えてもいい。サンプルとしても、これから調整に時間をかける必要がある。茜――研究者トレーとして、綺麗事を言うつもりはない。非道な実験をしてきたし、使い捨ててきた実験素材の数は数え切られない。


 その中で、茜が出した結論は――それでも、サンプルはニンゲンである事には変わらない。だから、戦闘の結果、心的外傷(トラウマ)は発生するし、一般人を凌駕する能力(スキル)に飲まれたら正常な判断はできない。まして歪んだ価値観は、研究者の道具にもなり得ない。

 だからこそ、研究者とサンプルの関係が重要という理論から、かつて茜は【遺伝子特化型サンプル不安定要素補完の為チームアプローチの可能性と検証】と言う論文を軸に、【デバッガー】水原爽を作り上げた。闘争本能剥き出しの緋色の行動を検証し、心理鑑定を行い、最適のカウンセリングプログラムで、緋色が欲した愛情を作り上げる。その上で、両サンプルをリンクさせて、一個体では成せない機動力と火力、戦術を目指した――のだが――。


〈そんな木偶の坊で、妾を懐柔させようとは片腹痛い!〉


 あの時の緋色の失笑が耳に響く。


 それでも白紙から作り上げたプログラムを基に【命令(コード)】された爽だからこそ、ひたむきだった。もちろん、それ以上に遺伝子情報が二人を結びつけたのも間違いない。紆余曲折したが、結果は全て、今を物語る。


「そうだね、やっと茜ちゃんが目指すサポートシステムに私たち、なれるのかな?」


 彩子もニッと笑む。特化型サンプルは基本的に群れない。一個体それぞれが、独立した完成形だ。本来、群れる必要などない。


 だが、緋色の破壊衝動は、サンプル個体として安定稼働とは言い難い。


 だからこそ、支援型サンプルとカウンセリングサンプルの両面の研究開発から、水原爽は開発されたのだ。彩子はそんな爽の安全装置(バックアップ)でもある。


 ただし、爽がひなたに、淡く強い思慕を抱いたことが、なおさらロードマップを狂わせたが――考えてみればいまさらのことだ。


 サンプルは生きて思考する。その事実は研究成果にいつだってアクシデントと奇跡を産む。

 エメラルドタブレットがそうであるように――。


「これなら、調整(コーディネート)の段階にも進めるかな」


 茜はボソリと呟く。

 茜の研究方針は、信頼関係と教育にある。例えば、フラスコが戯れで開発した【廃棄体4号】は、教育も無く、信頼関係を作る努力すらしなかった。フラスコから見て、研究対象として魅力が薄かったのだ。結果、彼は実験室の誰にもなびく事はなかった。廃棄もすることができない、再生能力。それこそがこれまで生きてきた理由でもある。早々に処分をする理由も無い、ただそれだけのことだった。


 だからこそ、無理な【調整(コーディネート)】をするつもりはさらさらなかった。


 そもそも、ひなたと爽を接触させる予定ではなかったのだ。


 ロードマップ上では、ひなたはこれから本格的に、戦闘型サンンプルとして【調整】をされる予定だったし、爽もまた然り。それがスピッツの気まぐれで、接触を余儀なくされた。


 正直、茜自身の詰めの甘さ、見通しの甘さを感じないでも無い。


 ひなたは何ら開発すらされず、むしろ心的外傷(トラウマ)ばかりを蓄積させていた。


 それもそうか、と思う。

 スピッツは開発しなかったのでは無い、開発できなかったのだ。


 彼が望む【緋色】は深く眠りにつき、【水色】であるひなたが、事ある度に小規模ながら【能力上限稼働(オーバードライブ)】を繰り返す。今のひなたを愛せないスピッツにとって、実験の施しようすら無い。結果、データは無い。【限りなく水色に近い緋色】とリンクさせようにも、接続すらできない。今のひなたと爽は、ロードマップから外れて、完全に独立した個体でしかない。


 だからこそ、二人が接続(リンク)できるまでは、実験室と事を構えるつもりはない。


「羽島さんも順調に、筋力局所強化の精度が上がってるね」


 彩子は瞬時に、茜のパソコンに表示をさせる。彩子の領域(サーバー)内であれば、容易い事だった。


「もともとスポーツ選手としての才能に加えて、遺伝子レベル再生成で、筋力局所強化の精度も上がったからね。今まで筋力局所強化体は量産型サンプル程度でしょ? これはなおさら実験室か欲しがるよ」


「羽島選手は量産型から脱した?」

「としか判断できないレベルじゃない?」


 茜がほれぼれとしながら、羽島の筋肉スキャン画像に見やる。


 彩子は小さく頷く。通常、サンプルの能力は改変された遺伝子情報でほぼ決まる。操作や制御の精度向上は訓練の必要があるが。


 ひなたの施した遺伝子レベル再生成は、筋力局所強化体の概念そのものを覆す――否、実験室の研究そのものを覆し、エメラルドタブレットを揺るがし――ひなたの人体にも負荷が強い。精査も必要だが、これ以上実行させるつもりもなかった。


「スゴイね、金木君は【ドクトル】のロードマップ以上に能力(スキル)を磨いているじゃない?」


 ドクトルはそもそも、研究者シャーレが専門分野としていた医療特化型サンプルだ。設計上、電気信号による麻酔にのみならず、電気メス、電気縫合、電視分析、薬物変容干渉と多岐にわたる。ただ問題は、そこに適合する被験体が存在しなかった。

 ――金木涼太以外では。


「正直、シャーレに全てを任せるのはぞっとしないんだけどね。全部、私が抱え込むわけにはいかないし。シャーレの動向は金木君に頼みたいから、あーやもレポートの確認は随時よろしく」


「なんなら、スパイアプリを作るけど?」


「シャーレが気付かないわけないじゃない? 無駄な疑心は意味がないし、シャーレだって、100%信頼を得ているなんて思ってないよ」


「……」


 彩子から見て、シャーレは三重人格のように見える。慈愛の母と、研究者の素顔と、そして――放棄した母と。


 時々、シャーレはひなたを愛する演技に必死な気がしてならない。――そうでなきゃ、ひなたが追い詰められることもなかったはずだ。


「無意味な悪感情は分析の邪魔だよ? シャーレは元とはいえ実験室所属の研究者だよ。ボクと一緒で、ね。サンプルに対して、時に残酷なのはあーやの方がよく分かっているでしょう? ボクだって、あーやに過酷な実験や指示を強いる。まして、シャーレと、そしてスピッツの目的を考えたら、致し方ないよ。同情だけはする」


「……あとは、みのりちゃんだけど?」


 画面は沈黙し、真っ暗だ。それもそのはず、彩子はデータを持ち合わせていない。このサンプルの中で現在、唯一。茜――研究者トレーが、みのりの【調整】をし、記録として残されていない。


「テレポーターの能力テストが今は主かな。ロードマップも遺伝子図も持ち合わせてないからね。彼女は遺伝子レベル再生成も受けていない。それなのに、能力(スキル)が発現した。これは科学者としては、由々しき事態だとボクは思っている」


「理由があると茜ちゃんが言いたいわけよね?」


「ボクの記憶では、エメラルドタブレットにも、写本にも【テレポーター】の存在はなかった。存在のない遺伝子図では遺伝子編集(ゲノムエディット)がそもそもできないでしょ?」


「偶然の産物?」

「まさか」


 と茜は苦々しく笑う。


「まぁ、みんながみんな、もしかしたらそうなのかもしれないけどね」

「は?」

「宗方さんが、定期的に遺伝子レベル再生成を施している、という仮説も面白いかな?」


 彩子は目を丸くし、言葉を失う。具体的な確証はないが、遺伝子レベル再生成はひなたの遺伝子情報を代償に、他者に干渉する。そもそも【限りなく水色に近い緋色】は因子水色を因子緋色が食い尽くし、融合するところから研究が端に発している。遺伝子レベル再生成は、その最たる手段――ひなたを緋色にする最短にして最良の手段なのだ。


 彩子は唾を飲み込む。

 もしそれが本当なら――ひなたが消える日が早い。


「元々が、本来なら消えて当たり前の遺伝子情報の集合体だからね。緋色がよく目覚めている。それが何よりの、証拠とも言えなくもないけど。実際に【調整(コーディネート)】してみないと、なんともね」


「だったら、早く――」

「あーや」


 と茜は彩子を見る。研究者トレーの目で。デバッガー? 言わなくても分かってるよね? トレーは【命令(コード)】を示す。


 ひなたと爽はリンクを接続できていない。接続するには、ひなたの耐性はあまりに無い。ひなたと爽が最低限、リンクする必要があるのだ。


 彩子が肩を落としたのを見て、茜は小さく頷く。焦燥感もあるが、今は地道にトレーニングを続けていくしかない。シンクロ率をあげる、それに尽きる。幸い、感覚通知の伝達精度向上は眼を見張るものがある。


「水色を残したまま、緋色も消さないか。なんとも宗方さんに毒されたんじゃない?」


 茜は笑う。


 彩子は思う。茜ちゃんはもともとそうだよ? と。実験室の中でも奇人と評された【トレー】だ。サンプルに感情移入し、無駄な実験を嫌がった。彼女は合理的な方が好きなだけだよ、と言い張るのみだが。弁護なき裁判団達だって理由さえ知れば、捨てられただなんて――。


 と、電子音が機械的に響いた。


 茜のパソコンにメール通知――ただし、多重に暗号化され、認証にも労力を要するが――茜は難なく解いていく。


「やれやれだね」


 と茜は息をつく。彩子はあえて聞くまでもなかった。茜が操作した電子機器は、全て彩子の領域内にバックアップされる。


 弁護なき裁判団、No.Kこと川藤巡査部長からとあれば、なおきな臭い。


「セキュリティが甘いよ、川藤さん」


 茜はそれでも、楽し気に笑む。


 彩子は小さく息をついた。メール本文を読むまでもなく、嫌な予感しかなく――開かれたメール内容は


「最悪……」


 だった。










 思いつめた目をしている、とひなたは思った。


 風を切って、自転車に乗ったその子と、とひなたはすれ違う。


「どうしたの?」


 爽が声をかける。


「ん、なんでもない」


 ひなたは前を向く。息は切れていない。まだ全然、走られる。今は誰かのことを考えている場合じゃない。そもそも、ひなたは爽達に守られてばかり。それではダメ、それではダメなのだ。


「負荷、かけるよ」

 爽は指で狙いを定めて、ひなたとゆかりに、【ブレーキ】で負荷をかける。もう慣れたが、いきなり体が重くなることに戸惑う。


「さすがに倍は、キツ、きつい――」


 ゆかりは悲鳴をあげる。ひなたは息を整える。ゆかりの言う通りキツイが、倒れこむ程じゃない。まだ走られる。


 ひなたは一歩、踏み込む。


 イメージが大切なのだ。負荷がかかっても、フォームは崩さない。前を見て、背筋を伸ばして、腕を上げて。


 前へ、前へ、前へ。


 ――泣いてばかりの水色が、変われば変わるものだな。


 緋色の囁きとともに、膝を抱え込んで泣いていた幼いひなたが、フラッシュバックする。あぁ、そうか。あの頃、緋色は苦しい時に実験を代わってくれていたのか。爽の背中も、何回も見た。小さな背中で、ひなたをあの頃から守ってくれていた。


(だから、今度は私が――)


 前へ。泣いているのはイヤだ。守られているだけもイヤだ。何も知らないのも、何もしないのもイヤだ。


 諦めるのは、もっとイヤだから。


 汗で目が痛いけど、まだ走られる。

 前へ、前へ、もっと前へ行くんだ。

 欲だな、って思う。強欲だなって思うけど。


(前へ、もっと前へ――)

 

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