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第3章「鎖に繋がれた獣は、朝陽を前に夢を見る」開幕です。よろしくお願いします。
激しく打つ雨にさらされて、体温が奪われる。さらに視界を遮られ――。
夜の闇の中で、車のヘッドランプに照らされて、光は屈折する。歪んで見える視界がやけに美しく感じて――足をとられた。
派手に転ぶ。
通り過ぎる人たちはざわめきながらも、足は止めない。
光の反射で、まるで傘だけ乱舞するように見えた。
口の中が苦い。砂のジャリジャリという感触と、鉄臭さが舌を刺激する。唇を切ったんだろうか。痛みなんか感じないのは、薬のせいなのは自分でも分かる。
何から逃げ出してきたんだろう。
朦朧とした意識の中で、呼吸が浅い。それはそうか、と思う。今日はすこぶる調子が良いとは言え、今まで酸素濃縮機と点滴で命を繋がれていたのだ。
ただ生かされているだけ。それを自覚する。
苦しいなぁ、と思う。苦しみ、痛みに耐えながら呼吸を喘ぎ、それでも生きないといけないんだろうか。
視界が霞む。
これで楽になるのなら、それでもいいって思ってしまう。
(先生は、ガッカリするかな?)
最後に思うのが、それかと思うとおかしい。
治療の為に精一杯してくれたあの白衣の姿を思い浮かべなが――ら?
雨がひどく打ち付ける中、安物のビニール傘を差し出す人影。そんなことをしたら、貴方が濡れるじゃないか、と妙に冷静になって思う。
街灯の光が乱反射するなか、その人の金髪が揺れた。
「お前、死ぬのか?」
その声は凛として響いて――雨音をかき消す程に鼓膜に突き刺した。
「デートならさ、もう少し時間と天候を気にして欲しかったなぁ」
「デートなら、ひなたを誘うけどね」
ぶれないストレートな発言に、桑島ゆかりは頬を膨らませる。
ま、水原爽という男の子は――この先輩はそういう人なので、今更気にもしない。
それでもゆかりを頼ってくれた、そう思うだけで頬が緩む――そんな自分は病気なんだろうな、と思う。
時間は夜の21時を回る。
雨を気にすることなく、爽はスマートフォンを操作する。ゆかりは爽に傘をさしてあげながら、 神経を張り詰めた。
シチュエーションは相合い傘。片想いする女の子特有の緊張感――なら、なんて可愛いんだろう、と自分でも思う。
だけどね、と思ってため息をつく。
纏わりつく監視の目を感じるとなれば、臨戦体制にならさわる得ない。小さな幸せを満喫する余裕もない。
「桑島?」
と爽は囁くように言う。爽の吐息を感じる。ゆかりの脈拍が早まる。そんな言い方、ズルいと思う。
「何回か言ってるけど、向こうからのアクションがない限りは、相手にする必要ないからね? 無駄な緊張は、稼動効率を下げるぞ?」
その無駄な緊張の大半は、水原先輩のせいなんだけどね、と思いながら周囲を見回す。今のところ、ゆかりはあからさまな害意は感じていない。ただ見られているだけ。だからこそ、それが気色悪いと思う。
「何か成果あったの?」
と聞くゆかりに、小さく爽は苦笑する。
「あると言えばあるし、ないと言えばないから、よく分からないんだよね」
と爽は息をついて、視線を移動させる。
「あそこ」
「え?」
と見る。と、こちらをら全く見ようとしない背広の男が待ち合わせをしている
ような素振りで、傘をさして立つ。
「それから、あっち」
と見るとカフェの中から漫然と外を見やる女性。さらに爽は指をさす。密閉されたガラス式の喫煙コーナーで、紫煙を貪る背広姿の男が――川藤巡査部長? ゆかりは目を疑った。
「監視していたのは彼ら。【弁護なき裁判団】のNo.k、No.A、No.Yだね。最近、監視頻度が低いと思ったけど、お仕事熱心で結構。桑島、手を振ってやれよ?」
「は? なんで私が?」
「監視されてるだけはシャクだろ? 気付いてるよ、とポージングしてあげたら、暇潰しになるじゃん?」
なんて人だ、とゲンナリした顔を見せつつ――悪くない、と思う。
満面の笑顔で手を振ると、川藤は苦笑いだった。
「実験室の動きがよく分からない」
ボソリと呟く。
「報道によると廃棄工場の爆発は中東の過激派テロによる犯行。国民国防委員会はテロ組織に支援を送っていた。その国民国防委員会の幹部はテロの最中、命を落とし、組織は瓦解。テロ実行犯の逮捕により事態は収束へ。今後の国防に課題が残る――ってところだけど。どう思う? このあからさまに作られたシナリオは? だいたい廃棄工場をオシャカにしたのは俺たちだぞ?」
コクリとゆかりは頷く。ゆかりでもそう思う。しかも三日、マスメディアが騒ぐだけ騒いだら、後は満足したかのようにカットアウトだ。解せない、と思う。
爽はスマートフォンから顔を上げてゆかりを見る。
み、水原先輩の顔が近い、とゆかりは慌てる。相合い傘をしているので当たり前だが、彼が作業に没頭していなからこそ理性を保てていたのだ。いきなり、目を覗き込むなんて、そんなのズルすぎる。ゆかりは心拍数が跳ね上がるのを実感した。
が――爽はお構いなしだ。そんなマイペースな爽に腹がたつ。
「実験室は、なにを考えているんだろうね」
「え?」
「ここ一週間、国民国防委員会の活動が活発化している。研究サンプルに適した被験体を強行に拉致してるんだよね。今までの実験室じゃありえなかったろ? 彼らは甘い言葉で囁くが、強制はしない。それがフラスコのやり方だろ?」
確かに、と思う。ゆかりがサンプル実験に加わった際も、選択権は被験者にあった。そこに強制はない。――その後の【調整】で生殺与奪を管理されたというのはある。でも、ゆかりはゆかりの意思で望んでサンプルになったのだ。
「ひな先輩がそれを聞いたら、きっとじっとしていられないね」
「そう思うだろ?」
「え?」
爽は悩ましげにため息をつくので、思わずゆかりは爽の顔を見る。
「……実験室の絡みで、誰かがムリヤリ拉致されたとなれば、ひなたは動く。だから、ひなたに相談できなかったの。【調整】もこれからだしね」
「……」
「ま、それは桑島も一緒なんだけどな」
「え?」
「だって桑島も【調整】は完全にすんでないでしょ? その状態で実験室と接触させたくないし、勝利条件を完全に揃えてからにしてあげたいじゃん? でも俺はあくまで支援型サンプルだから、身の程はわきまえてるつもり。だから無理はしないし、させたくない」
「……」
心なしか、嬉しいと思うのは単純なんだろうか? ゆかりは拳を握る。彼の目が自分に向いていないのは良く分かる。それでも、だ。私が彼を守る。そう心の中で小さく呟い――
「――ひなたに勉強させたいしね」
「え?」
今、この先輩は何て言った?
「明日からテストでしょ? 今まで前の学校と学習範囲が違うからひなたは苦労したけど、桑島は余裕でしょ? そうでなきゃ、なかなか頼めないしね」
ゆかりは口をパクパクさせる。 舞い上がっていたと思う。爽に誘われた、ただそれだけで。
(やば、い。何も手をつけてない――)
自分の顔はきっと青い。血の気がぬけたのを自分でも実感する。
「せ、先輩、わ、私、そろそろ帰っていい?」
「え? 帰るの?」
爽はさもガッカリして、取り残されたような顔をする。ズルい、とゆかりは思う。そんな顔をされたら――。
「もし再テストなら、教えるよ?」
囁く。ゆかりは思わず爽の顔をみて――。
「涼太が、ね」
と言う。
「は?」
どうしてそこで金木先輩?
「正直、涼太は教え方が上手いんだよね。俺じゃそこまで教えられないし。でも、ひなたも飲み込みがいいから、今回は及第点で、補講も無いだろうし。桑島の専属講師になってくれたら、俺がひなたを独占できるでしょ?」
「……」
これほど腹黒い笑顔を見るとは思いもしなかった。胸におさめていた憧れが脆くも崩壊しそうで、ゆかりはゲンナリする。
「ウソだよ。桑島を教えるぐらいなら、俺でもできるかな?」
ニッと笑って言う。ドコまで本気なのか分からなくて、ゆかりはため息をつく。
『好きになる人はもう少し選んだ方がいいんじゃない? 爽やか王子の本性は腹黒王子よ?』
突然鳴り響く【デベロッパー】こと野原彩子の声に、ゆかりは辟易する。プラベートも何もあったもんじゃない。爽が何も聞こえていないところを見ると、彩子の声はゆかりにしか聞こえていないようだ。
『これが桑島さん達の個人的なデートならお邪魔はしないから、安心して』
彩子はクスクス笑う――その声が止まる。見ると、爽も表情を変え、 神経を張り詰めている。
『桑島さん、警戒して。国民国防委員会が――』
感覚通知が歪む。正確には音声でも無い。水原茜こと、元実験室の研究者【トレー】が開発した多重暗号形式感覚通知なので、神経に直結し電導してくるのだ。傍受されないよう暗号化を施し、遺伝子情報が自動解凍するという仕組みを爽や彩子に説明されたが、イマイチわからない。
ただわかる事は――。
(みんなと今、この瞬間も繋がっているということ、だよね!)
ぐっと拳を握る。
黒いライダースーツに身を包んだ見覚えのある不審者たちが、バイクを空ふかしさせながら、敵意しかない視線を送る。国民国防委員会か、とゆかりは静かに戦闘態勢に入る。爽のブーストを感じながら。
「同志、【デバッガー】と【雷帝】を発見した。命令通り、捕獲にシフトする」
「同志、了解だ。援護する。極力傷つけるな。ただし、遺伝子情報を持ち帰ることさえできれば、その限りではない」
「了解」
誰が喋ったのか分からないし、全員が同じことを喋るような不思議な感覚だったが――見とれている場合じゃない。
間髪入れず、エンジン音が唸り――バイクが動く。
「やれるものなら、やってみなさいって!」
ゆかりは傘を投げ捨てる。しばらく平和だと思っていたけど――こっちの方が私らしい。そう小さく笑みながら。
『桑島――』
爽の声がより勇気をくれる。私が水原先輩を守る。そう固く誓いながら。
『効率的にいこう。彼らから聞き出せるものは、徹底的に吐き出させる。どんな情報でも欲しい』
そうだった、と思う。彼は無力な支援型サンプルじゃない。そしてゆかりは、カテゴライズする所では戦闘型サンプルで。それぞれの仕事をする事で、実験室からひな先輩を守る事に繋がる。
国民国防委員会のサンプルは、ゆかりと爽をサンプルとして捕獲が目的のようだが――そう簡単にいくわけないって? ね、水原先輩?
『私もサポートさせてもらっていいかな、桑島さん?』
彩子はクスクス笑いながら感覚通知で伝えてくる。これは爽にも送信されたようで、小さく微笑むのが見えた。
「――お願いします。遠慮なく頼りますからね」
ゆかりは青白く、電流を体中に駆け回らせながら、ニンマリと笑んだ。さらに出力を上げるブーストの力を感じながら。
相乗して、量産型サンプル達が発する共鳴音――ナンバリングリンクスが、やかましく脳内に打ち付けてきた。
「どういうことだ?」
唇を噛む。安全な場所で情報収集をしながら、シリンジは困惑する。
(そんな命令を与えたつもりはないぞ?)
実験にエラーはつきものだが、研究設備の劣る今の体制では致し方がないか、と思う。
実験室が脅威ともいうべき研究団体なのは政治力や国の後ろ盾があるからではない。資金力もさることながら、選抜された研究者が揃っているエリート中のエリート集団なのだ。
無論、【実験室】に所属する以上、表舞台に出ることは許されなくなる。だが、それがどうした? 倫理や社会通念から外れた場所にこそ真理はある。
――シリンジ、君は君の真理を探究すればいい。盗み出すこともまた、正しい真理だ。コピーアンドペーストから生まれる真理があってもいいんじゃないか?
室長の言葉が今さらながら、忌々しく浮かんでくる。シリンジ自身、感じている限界を見透かされて腹ただしい。シリンジはオリジナルを探究できる嗅覚がないことは自覚している。そしてフラスコは残酷なまでにオリジナルを探究できる研究者だ。
その差は明確だ――。
唇を噛む。血が滲んで、鉄臭い味を噛み締めながら。
シリンジは実験室から外れて行動する事を選択した。選択させられたと言うべきか。
シリンジ一人では、特化型サンプルの開発はかなわない。それならば、量産型サンプルを主軸に柔軟性のある軍隊を作ればいい。
特化型サンプルに焦点をあてるから、多量の廃材を持て余す。それならばハードルの低い量産型を大量生産し、軍隊を組織した方がいい。
実験室の中でシリンジの考えは認められることはなかった。ただ一人フラスコだけが、時が来れば面白いだろうね、とほくそ笑むのが不愉快だった。
だが。
実験にエラーがつきものでも、研究者が足りなくても、設備が脆弱でも――こんな異常がおきるはずがない。
【《《特化型サンプルは回避しろ》》。最小限の行動で、最小限の事件性で】
それは功を奏したはずだった。だが――。
【特化型サンプルを捕獲せよ】
そんな命令を出した覚えはない。どうしてこうも、悉く上手くいかないのか。怒り任せに握り拳を固める。爪が皮膚に食い込むのも構わずに。
「こんな時にあの廃棄体はどこをうろついてる!」
半ば八つ当たりに近く、シリンジはキーボードを叩きつけた。
「……爽君と、ゆかりちゃん?」
ひなたは顔を上げて、窓の外を見た。雨音はより強く打ち付ける。
「お姉ちゃん? 何も聞こえなかったけど?」
とみのりは言う。聞こえなかったのは、感覚通知の事を言っている。彼女もまた遺伝子研究特化型サンプル【テレポーター】で、感覚通知を何度か受信してきた。
感覚通知ではなくて――と思って、言うのをやめた。今は勉強に集中すべきだ、と思う。最近、そんな気配にも近いモノを感じてしまう。どれほど、爽やゆかりに依存しているのかと思うと、苦笑しか出てこない。気づくと、爽を探している自分がいるのだ。
(みんなが応援してくれたんだから頑張らないと――)
転校して初めてのテストだ。爽や涼太、最近は彩子まで応援してくれている。赤点なんか取れない、と思うとつい緊張してしまう。
――誰がどう教えたかじゃなくて、宗方さんがどう勉強したかだと思うけど、ね。まぁ、宗方さんらいしいけどね。
茜は呆れながら小さく笑んだのが、目蓋の裏にちらつく。そんな茜にも教えてもらったのだから、自分は恵まれていると思う。
「テストが終わったら、また絵を描こう?」
みのりはニッコリ笑って言う。
最近、みのりはよく宗方家に泊まるようになった。父は元プロ野球選手――今はプロ野球コーチで、母はスポーツに特化したテレビレポーターだ。今までも家を開けることが多く、祖父母宅や託児所で夜を過ごす事が多かったみのりだった。
ひなたと一緒にいると安心する、と言う。ひなたもみのりと一緒にいると安心する。まるで、姉妹みたいね、とひなたの母は笑う。本当にそうだ、と思う。ひなたは妹が欲しかったし、みのりは姉が欲しかったから。
みのりは、ひなたがこっそり描いていた絵本の原稿を見つけてしまった。
間違いなく、みのりが一番最初の読者で。それがこそばゆいながら、嬉しかった。
今や絵の描き方を教えて、とまでねだられる始末だ。
テストが終わったら一緒に描こうね――と笑う表情が、途中で強張る。
雷光が下から空へ。突き抜けるように、真逆に稲光りが暴れ狂って消えたのが窓から見て取れた。
「お姉ちゃん、あれって……?」
ひなたはコクリと頷く。その直後だった。耳ざわりな不協和音――ナンバリングリンクスが、緊急事態を容赦なく突きつけてきた。
フラスコはビルの最上階から、桑島ゆかりが巻き起こした《《地上の雷雨》》を傍観する。一方のスピッツは、遺伝子研究特化型サンプル【クイーン】が注いでくれた深紅なワインの方に興味津々な様子を見せていた。
「なかなか【雷帝】は好戦的じゃないか。嫌いじゃないな、そういう子どもは」
とスピッツは小さく笑む。
「研究者プレパラートの周到な準備は盤石に値しますわ。小娘の悪あがきは蝿が飛ぶ鬱陶しさにも等しくてよ、研究者スピッツ?」
「これは手厳しい」
スピッツはニンマリ笑みながら芳醇な香りと味に舌鼓を打つ。
「合わせて、君の余興も見せてくれるんだろう?」
フラスコはスピッツを見る。
「そうでなくては、君を実験室に再び招き入れた意味がないだろう?」
「なるほど。これは俺への試験という意味合いもあるのか」
「それは邪推だ」
とフラスコは社交的に笑うが――その目はその通りだと物語る。やれやれ、と思う。彼にとってはサンプルであれ研究者であれ政治家であれ国民国防委員会という組織も単なる道具にしかすぎないのだ。
だが、それでいい。
そうでなくてはならないのだ、エリクシールの為ならば。
「開発中だが、面白いサンプルだと思うよ。頼元君ならより撹乱してくれると思う。フラスコの思惑を、ね」
「サンプルを被験者名で呼ぶとは、悪趣味め」
「最大の賛辞だね」
スピッツはワインを味わいながら、微笑む。
思惑は蔦のように絡まるが、解きほぐせば、全てはエメラルド・タブレットに集約する。時は十分に熟したし、スピッツはもう待てない。――もう待てないのだ。
「楽しみですわ、スピッツ」
ワクワクして仕方がないと言った素振りで、フラスコの特化型サンプルは頬を寄せる。化粧くさくて、吐き気がすると思いながら。【クイーン】のするがままに任せる。今現在もまた検閲されている状態だ。フラスコが甘くないのは承知の上で――結果を提示するのみだ。
(頼元君、存分に遊んでおいで)
かつての助手には、もう意思なんて無い。ただ生存本能におもむくのみだ。
スピッツは銘酒を舌で転がして、ゲームのスタートを待つ。いつだって新しい実験の幕開けはワクワクが止まらない。
(楽しませてくれよ、ひなた?)
そうほくそ笑みながら。
ぴちゃん。
命令を確かに受信した。
雨は枯れかけた彼を救う。だが、それだけでは全く渇きは満たされない。
彼は飢えていた。
全ての拘束から解放された、宗方研究室の元助手だった存在は、自己保存の欲求の元、這いずり回る。
示された命令にのみ従って。頼元大樹とかつては呼ばれていた《《それ》》は行動に移した。




