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活気というよりは熱気が、スタジアムを支配しているのを感じて、ひなたは圧倒されていた。
試合開始前だというのに、ギラギラとしたエネルギーを誰もが隠さない。誰かは今日は勝てたらいいなぁ、と能天気に思う。誰かは今日のメンバーから戦略を熱く語る。誰かは羽島公平の引退試合が残念だと語り、誰かは――今の羽島では今日は負け決定だと、露骨に言う。
「気にひゃない、気にひゅない」
とゆかりはポテトを頬張り、口をモグモグさせながら言う。気にしない、気にしないと言っているのは分かる。何より、ひなたの緊張をそれで解いてくれる。何よりそれがありがたかった。
「桑島、お前ねぇ」
呆れた声で、爽は言う。ひなたへの気遣い、爽への照れ隠し。ムードメーカー。それを容易に舞っていく。それがひなたには羨ましく、眩しかった。
みのりも、それを見てクスクス笑う。その視線が、母を見やる。母は戸惑いを隠せず複雑な表情ながら、ひなた達に一礼をする。
――民放アナウンサー、羽島胡桃。スポーツに特化し、初心者に分かりやすい解説と、玄人を唸らせる解説には定評がある。スポーツ専門誌や新聞へのコラム連載をこなし、選手からの信頼もら厚いことから始まった羽島公平との交流。孤高の投手の心を解きほぐしたと、当時メディアは好意的にはやしたてた。
羽島公平は笑わない。どんなにファンの前でも。テレビのカメラの前でも。その態度はあまりにも不遜で、お茶の間の評価を低くした――のだが。
投手とアナウンサーの交際をフォーカスされてからの羽島公平は少しだけ変わった。笑うようになったのだ。
それは彼を見守り続けた野球ファンにとっても、大きな変化だったと言える。反比例して、成績も低調になったのは、31歳という年齢を考えれば、そろそろ無理もないというのが、スポーツ解説者やファンの共通の見解だった。
「――という感じかなぁ」
と、涼太は遠慮がちながら、小声でひなたに解説する。
「涼太、お前ってスポーツに詳しかったんだな」
爽が感心したように言う。
「一応、中学の時はキャッチャーだったからね。それにひなちゃんに聞かれたら、ね」
「ひなちゃん?」
爽が瞬時に不機嫌に聞き返す。かたや涼太は涼しい表情でひなたににっこり笑みを送る。一触触発の険悪な空気に、彩子は小さくため息をついた。
「なんで、男ってこうもバカなんだか」
「まぁ、想い想われの関係は美しい光景だよ、あーや」
と茜はニンマリ笑む。
「茜ちゃんはただ、楽しいだけでしょ! 後で面倒なのはこっちなんだからね」
さらに大きなため息をつく様を、みのりは小さく微笑んで見ていた。
「あの、お礼を言わせてください」
まっすぐな目で、羽島胡桃はひなた達を見る。
「未だに理解に苦しんでいるのは事実です。でも大変な時に、母親の私は何もできなかった。公平さんの苦しみも、みのりの辛さも理解できず、仕事に集中していた。非常事態だったのに――みのりの命すら危なかったのに、私は、わたしは、わたしは――」
そっと、ひなたは胡桃の手を握る。小さく微笑んだ。
「羽島さんは投手でありたかったんです、きっと」
「え?」
「涼太君に、羽島投手のことを教えてもらって思ったんですけど、多分そうなんじゃないかなぁ、って」
「それはどういう――」
「胡桃さんにとっての投手でありたかったんじゃないかな? なんとなく、そう思います。みのりちゃんを守ろうとした羽島さんは、ヒーローだって思いました。だから私も、踏ん張れた。みんなのおかげなんですけどね」
にっこり笑んで言う。
「でも、私と結婚したからあの人は投手として弱くなったって――」
「それはね」
と言ったのは茜だった。
「ボクが思うに、帰るべき場所が無い狂戦士と、守るべき者ができた投手の違いなんじゃない? 旦那さんは、その道を間違って、 狂戦士になりそうになったけどね。羽島選手なりに迷った結果が今なんだと思うけどね、ボクは」
「回り道してもいいと思うんです」
と言ったのはゆかりだった。
「世間の皆様は勝手なことを言うと思うけど、言わせておけばいい。だよね、ひな先輩?」
言われて、ひなたはコクリと頷く。
「誰がなんと言おうと、みのりちゃんのお父さんは、ヒーローですから」
そう言い切る。思わず、みのりから笑顔がこぼれた。
スタジアムの中からより一層歓声が湧き上がる。
「いよいよ、かな?」
爽が言った。歓声がまるでパレードの始まりのようで。
羽島公平の決断を見届けるのだ。
昨日、電話で聞いた彼の声がやけに耳に残っていた。
――野球が好きなまま、マウンドを降りたいんだ。
彼が実験室のサンプルである事実は変わらない。
だから、彼が暴走しないように、爽と彩子でブレーキをかける。
生身の人間、羽島公平として最後にマウンドに立ちたいと言う願いを叶える、ただその為だけに。
だから見守る。
内野席から見る羽島の姿は小さいけれど、誰よりもマウンドに立てられることが嬉しそうに見えて。
「プレイボール!」
その宣言とともに、場内はさらなる熱気で包まれた。
この球場には、防音・盗聴予防を施したVIPルームが存在する。観客席も選手も高くから見下ろし、試合の詳細はスクリーンで見やる。その詳細たるや、球団関係者はおろかスタジアムスタッフにすら秘匿されていた。
観客席の歓声も、ここには一切届かない。
ワインでその唇を濡らしながら、この国の首長は漫然と観客席の方へ目を向ける。
スクリーンが切り替わる。
宗方ひなたがアップで映し出された。
「川藤君はいつも察しがいい」
表情一つ変えず、姿勢を正す【弁護なき裁判団】No.Kを見やり、首相はニンマリと笑む。
「こんな小娘が、実験サンプル廃棄第三工場をオシャカにしてくれた訳か。かなりの損失だと思わないか、フラスコ君? 前回の極限能力最上稼働は大震災に傘を着せ原発事故を装ったが、今回はそれ以上に苦労したよ? 官房長官の苦労たるや。また禿げたらしいからね」
「それはお気の毒です」
とフラスコは本当に気の毒そうに、官房長官の頭部を見やる。彼は無言を貫くが、頭皮まで真っ赤にさせて怒りを示していた。
「で、だ」
「はい?」
「フラスコ君、君はこの小娘をどうするつもりなんだ?」
「単なる道具ですから。馴染まなければ改良するのみです」
「できるのかい? 動画と資料で確認させてもらったが、実験室のサンプルが悉く翻弄されてるじゃないか? 我が国の国家プロジェクトたる遺伝子研究サンプルとは、この程度の出来栄えなのかい?」
「と、我が国の総理は仰ってたが、遺伝子研究特化型サンプル【クイーン】君はどう思う?」
とフラスコは後ろに控えていた深紅のドレスに身を包んだ淑女に声をかけた。彼女は小さく息を吐く。ただそれだけで、甘美なアルコールに酔うような空気に支配され、首相は目をパチクリさせた。
「心外ですわ。あの程度の能力で特化型サンプルだなんて。内閣総理大臣におかれましても、血税を注いだ国家プロジェクトの結果を過少判断しすぎと言わざるを得ませんわね。私たち、そんなに安くありませんことよ?」
「考慮に値しないと? 今回の損失についてはどう説明する?」
「目的の為の手段、経過です。総理はこの国を強く、平和で、富み、格差をゼロにしたいと仰る。その為の手段は生半可なものではないことをお忘れか?」
フラスコは表情を変えずに頷く。
「あの【デバッガー】との接触も、か」
「総理、実にお目が高いですわ」
と【クイーン】は優雅に乾いた拍手をする。まるで人を食ったような態度だが、毎度の事なので首相は意に介さない。一方で官房長官は、不快感をまるで隠しはしない。ここらへんが、と首相は思う。彼の能力の限界でもあるのかもしれない。
もっとも――首相を守る鉄砲玉としても、広報役としても、今はまだ適任だ。政治の動きは流動的である。その時代の流れを機敏に察知し、民主を欺き、時に扇動するセンスは努力如何では何ともし難い。
(そういう意味では、フラスコは誰よりも政治家の素質がある、か)
首相は心の中でほくそ笑む。彼がいたからこそこの国の遺伝子研究は躍進し、この国が遺伝子研究先進国として名をあげていくのは間違いない。
そして首相は単なる政治屋ではなく、歴史に名を残す【時の人】になる。
この国の民は、そうあることを望んだ。
ドコよりも穏やかで。
ドコよりも心配がなく。
ドコよりも富んで。
ドコよりも格差なく平等で。
誰よりも自分のことだけを、そうこの国の民は願う。なんて身勝手で、なんてエゴに溢れた願いを権利として――。
「総理の情報網には恐れ入ります」
とフラスコは頭を下げた。しかしながら、と言葉を紡ぐ。
――エメラルドタブレットを起動する為の一手なのです。
そう囁く。
首相の目はグランドに向く。群衆は試合に一喜一憂する。今日引退を迎える投手が廃材と知るよしもなく。そしてその廃材を処分することが、【実験室】はおろか【政府】ですら不可な現状を今日迎えた。あの特化型サンプルの所為で――。
唇を噛む。
血の味がする。
なんたる屈辱か。なんたる侮辱か。選挙権も持たない、人権すら持たない、単なる実験材料が――。
首相はワイングラスを床に叩きつけた。奇せずして――羽島の投球が打たれる。見事な場外ホームランだった。
「ゲームも実験もこれからですよ、総理」
とフラスコは静かに微笑んで言う。7回の表、ゲームは佳境。
廃材も特化型サンプルも、どう足掻いても変わらない現実を知るがいい。
エメラルドタブレットさえ起動できれば――。
ただそれだけを思う。
自分に――国に――政府に抗う、愚かな特化型サンプルの少女をその目に焼き付けながら。
スタジアムの熱気、感情の温度を感じながら、【弁護なき裁判団】No.Eこと遠藤遼は漫然とビールをあおる。
【弁護なき裁判団】に味覚は無い。だからビールの何が美味いのか分からない。ただニンゲンに紛れて監視と記録をする。状況に応じてサンプルを処分する。それが【弁護なき裁判団】の役割である以上、ニンゲンであることを演じるのも仕事の一つだった。
ある人はこれが美味しいと言う。それを食べると、誰かはよくそんな不味いものを食べられるね、と言う。ニンゲンという生き物はなんて勝手なんだろうか、半ば呆れながら。
だから――不味いと言われた食材を、さも美味しそうに食べてやるのが【No.E】のささやかな楽しみだった。それでも何ら心は踊らない。そもそも弁護なき裁判団に、ココロがあるのかどうかも疑問だが。
だが――たが――。
エラー。
えらー。
error。
自分の中にバグが出現したという自覚はある。宗方ひなたを前にして、プログラムでしか判断できない【弁護なき裁判団】がココロオドルのだ。
(意味不明だ)
ビールをあおる。まるで味なんて無い。苦味も、泡すら感じない。それこそが【弁護なき裁判団】なのに、彼女は無性に遠藤の存在しないはずのナニカを掻き立てる。
「おサボりか、公務員?」
と聞き慣れた声に振り向く。ユニフォーム姿が見慣れず、思わず瞬きをしてしまった。
「ビーカー?」
「おっと識別名は無しだ。ここでは山田でいい」
ビーカーは真面目な顔で言うので、なお面喰らう。と、隣で同じくユニフォーム姿に身を包んだ遺伝子研究特化型サンプル【アイギス】がいることに気付く。
「親子っぽいだろ?」
にんまり笑むが、当のアイギスの方は不本意そうに顔を真っ赤に染めていた。
「しかし、どこまでも面白いな」
「…………」
「羽島の廃材としての能力をブレーキで抑える、か。なかなかどうして、チャレンジャーじゃないか?」
「――そんなの無駄でしかない」
とアイギスは切り捨てる。
「そうだな。浪費だと思う。本来支援型のブレーキは、過剰稼働の戦闘型サンプルの調整目的で行うものだ。長時間のブレーキなんて、そもそも負担がありすぎる。媒介でアシストするにしても限度がある、が」
とビールをあおる。
「――それがあの特化型サンプルのやり方なんだから、お手並み拝見といこうじゃないか、アイギス」
ビーカーはさも愉しげに笑みを絶やさない。遠藤はただ、味のないビールを飲む。それが無意味な行為だと知りながら。
「それより、いいのか?」
「なにが?」
「首相のお相手だよ」
遠藤は肩をすくめる。【No.K】こと川藤から――今の警部補は隙だらけなんです――とお役御免のレッテルを貼られた。だが川藤の言うところはもっともなのだ。
政治屋連中の前では、演技と外交駆け引きが何より重要になる。まして、フラスコの前で掻き乱されたプログラムを露呈する訳にはいかない。結局は同志の意見を聞いてひっこんだのだが――釈然としない。感情がないはずのプログラムが、心掻き乱される、という表現でしか表せないほどに、宗方ひなたに、突き動かされるのだ。
ゲームは1対0でリードをしながら、羽島が球をコントロールできなくなってきている。水原爽のブレーキが限界にきてるのは間違いない。
「お前はどうなんだ?」
ビーカーに向けて、ようやく吐き出す。監視型サンプルはあくまでフラスコにとっての【資料】でしかない。研究者達こそ政治屋連中と外交すべきなのだ。
ビーカーは反対にげんなりとした顔で息を吐いた。
「試合がナマで観られるのにか? 冗談も休み休み言え。あの特化型サンプルに便乗して、エース最後の仕事を堪能させてもらおうっていう時に誰が好き好んで、タヌキに会いたいと思うか」
「あのさ、俺、一応【弁護なき裁判団】なんだけどさ」
「は? 俺は山田だし、お前は県警警部補だが休日満喫中の遠藤だろ? 何も気にすることはない」
と悪びれもなく言い切って、子どものように笑う。
そんな幕間劇はお構い無しに、会場は熱狂する。
高揚感に酔いながらも、どことなく居心地の悪さを感じる、エースへの諦めが空気に漂って。
「野球はまだ分からないから、面白いんだけどな」
ビーカーはぼそりと呟く。思わずNo.Eはビーカーの顔を見る。
「お前のご執心の特化型サンプルと一緒だ。最後までどうなるか分からない往生際のワルイ奴が、俺は好きだな」
ニンマリと笑んで、羽島に声援を送る。
マウンドの上で、それでもボールを握る羽島を見やった。それでもきっと諦めていない、ひなたを想いながら。ゲームはまだ終わってない。混乱した感情を掻き消すように、【遠藤】は羽島へ声援を送る。【弁護なき裁判団】として、ありえないアクションである事を感じながら。
無表情な遺伝子研究特化型サンプル【アイギス】が、そんな二人を見て微笑んだ気がしたのは、気のせいか――。
緋色は情報を掻き集める。これは戯れで、余興でしかない。そう言い聞かせる自分の唇が綻ぶのはどうしてか。
(くだらん――)
あの量産型サンプルが、ニンゲンであることを振る舞うことに、意味を感じない。ただ、あえて言うとすれば【デバッガー】の負荷が強すぎる。
今後あの男には、調整という意味で活躍してもらわなくてはならない。緋色の覚醒が完璧ではないということは、サンプルの調整が不完全であるという事に他ならない。今回、緋色が覚醒しきれなかった原因があると思う。
だが――。
球を投げる。球を打つ。球を追い掛けて、懸命に走って。それを観衆達は一喜一憂する。
あくまで水色のデータベースを参照したにすぎないが、大体のルールを理解した。廃材が【エース】である事に拘る理由は共感できないが、存在意義という意味でなら理解する。彼が彼である証であり、生きる意味なのは肌で感じる。緋色はそういう剥き出しの闘争心に好感が持てた。
だから――。
力を巡らす。
水色が緋色の力を乞うように。緋色もまた水色の力を借りるだけの事だ。
(デバッガー、これで貸し借りは無しだ)
彼がエクストリームドライブを止めた。結果的に水色を――緋色を救ったことに他ならない。サンプルとして水色の肉体は発展途上ということだ。【実験室】の言う所の調整が必要なのだ。
緋色は遺伝子情報を結合させて、一つの礫に手を伸ばす。
――眠り続けるのも飽きた。たまにはこんな余興も良いではないか。なぁ、水原爽?
生欠伸を嚙み殺しながら、緋色は自分自身、微笑んでいた事に気付かず――そのまま眠りに落ちた。




