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限りなく水色に近い緋色【原作版・連載中止】  作者: 尾岡れき
第2章「使い捨てられる廃材たち」
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27

 目を開ける。頭痛もお構いなしに、遠藤は起き上がった。


「――ひなちゃんは?」


 あまりの痛さに手を添えると、頭には包帯が巻かれていたのにようやく気付く。


「病院?」

「やれやれ、ですね」


 と苦笑する声が響く。


「やれやれ、だな」


 同じく、呆れた声と。見ると、川藤が苦笑を浮かべながら、リンゴの皮をナイフで剥いていた。隣のベッドには、研究者ビーカーが仏頂面で横になっていた。そしてもう一人、無表情にビーカーの横に立つ女子高生が一人――。


「とりあえず宗方さんは無事です。そのご報告を先にすればご満足頂けますか?」


 ニッコリと笑って、タブレット型端末を手に報告を進めていく。それを遠藤は食い入るように凝視する。

 遠藤は大きく息をついた。


「さすがだな、ひなちゃん」


 と言って、川藤とビーカーを呆れさせる。二人は同時にため息をついた。


「な、なんだよ……?」

「バカですね」

「バカなんだな」


 二人はあっさりと切り捨てる。


「お、おい! だ、だってそうだろ! いかに実験環境と言え、実験室があそこまで翻弄された挙句、施設破棄の選択までさせられた。今までそんなサンプルいたか? あの子達は監視はおろか、干渉すら納得しない。そんなサンプルに、実験室はどう策を講じるのか、 命令コードで示して欲しいね。【弁護なき裁判団】とは言え、たかが支援型サンプルだ。彼女たちは間違いなく、俺達を各個撃破して情報を分断しようとするぞ? 少なくとも【デバッガー】はそういう戦略を考案してくる。その時、研究者はどんな 命令コードを示してくれるんだ?」


 ほぅ、とビーカーは目を細める。


「色ボケしたエラーじゃなく、自律思考のもと、か。面白いな、お前も川藤も」

「は?」

「なんでもない」


 ビーカーは楽し気にニッと笑んだ。本来、【弁護なき裁判団】はメインシステムとサブシステム以外では自律的な判断プログラムを有しない。あくまで人間社会に溶け込む為の便宜的な感情プログラムでしかないのだ。人工的に作られプログラムで結びつく有機サンプル体。それこそが元実験室の研究者・トレーが作り上げた【弁護なき裁判団】だった。


 だが他のナンバー達に比べて、この二人の感情起伏の豊かなこと、鮮やかなこと。それは非常に興味をそそる。


(ま、エラーなら俺の好みに作り変えるという選択肢もある――)

 管理権がフラスコにあるとしても、だ。


「気に食わない――」


 ボソリと少女は呟いた。


「何故、ビーカーは私達を使わない? 私達が出れば、あんな小娘を潰すことなど造作ないのに」

「そうだな。お前達にかかれば造作ないな」


 関心なさ気な顔で、ビーカーは彼女を見る。


「遺伝子研究特化型サンプル【アイギス】――お前の 能力スペックと 経験スキルなら、な」

「嫌味か、ドクター」

「そのままの意味だ。彼女たちは未成熟だ。だが、それじゃつまらないんだよ」


 ビーカーはニンマリと笑んで言う。


「個々の能力のみに特化させて研究開発をする時代はもう終わった。それは彼らの戦い方を見れば明らかだ。ある意味で、俺の研究方針は間違ってなかったと言えるな」


「ビーカー?」


 遠藤はビーカーを見た。いいのか、そんな事を言って、とその顔は言っている。遠藤と川藤の前で発言するという事は、室長フラスコにそのままダイレクトに伝わることを意味する。【弁護なき裁判団】の前で会話するということはつまりそういう事だ。


「構わないさ」


 ビーカーはニンマリと笑む。


「ペナルティーを課されるようなことをするわけでもない。むしろ情報開示でフラスコを喜ばせるだけだ。もっともお前らが、【弁護なき裁判団】としての業務を全うするつもりがあるとしての話だけどな」


 川藤が振る舞った林檎を、ビーカーは口に放り込む。


「伝令だ。【グングニル】と【レーヴァテイン】にも伝えろ。本当の意味での実験を開始する。存分に暴れろ」


「あの特化型サンプル達はどうするつもりなの?」


 ビーカーの特化型サンプルが問う。何を愚問を、とビーカーは呆れた顔をした。


「お前たちの妹になるならそれも良し。 玩具オモチャにするならそれもまた良し。壊すならそれでも良い。好きにやれ」


 と遠藤を見る。これは遠藤への挑発でもある。だが――面白みがまるでないことに、遠藤は林檎を頬張り、動揺のカケラすらみせない。


「心配にならないのか?」

「なんで?」


 遠藤はシャリシャリと音を立てて、林檎を頬張る。


「ビーカー、勘違いしてないか?」


 じっと見やる。【弁護なき裁判団】としてのプログラムは正常に作動しているのだろうか。揺れる感情のバグは、フラスコがこの間にも修正パッチでシステムそのものをアップデートしたことも考えられる。


「――ひなちゃんを、そのへんのサンプルと一緒にするな。なめてると、痛い目にあうぞ」


 ビーカーは目を点にした。今現在も収集しているデータにエラーの兆候は無い。


(――面白いな、どいつもこいつも)


 林檎を噛み砕きながら思う。

 

 羽島の娘もまた然り。

 検証実験の中、サンプルの兆候をまるで確認できなかった。


 ビーカーの手で 能力スコアが確認できず、父親の筋力局所強化の可能性に着目したのだが、結局は羽島公平も廃材になるだけの劣化した部品だった。


 その娘、羽島みのりが、研究者の手を介すことなく、自身の手で能力を特化型サンプルに 調整コーディネイトさせるなど、誰が想定しただろうか。


 ――言うなれば、遺伝子研究特化型サンプル【テレポーター】か。


 物質転移は理論こそあれ、未だどの研究者も実現できていない研究の一つだ。

 それは何より欲しい、と思う。


 彼女だけじゃない。【限りなく水色に近い緋色】も【デバッガー】も【 雷帝トール】も【ドクトル】も、そして【テレポーター】も、どいつもこいつも欲しい、と思う。

 そしてプログラムに反したまま、当たり前のように活動を継続する遠藤と川藤も。


(本当に面白いな――)


 全部、欲しいな。廃棄体四号を含めて、全てのサンプルが。


 禁断の果実を貪るように。

 ビーカーは舌舐めずりをする。叡智の道はかくも険しく――これ程までに、甘美だ。











「おしゃれして、どうしたの?」


 母に声をかけられてドキリとした。母から見ても分かるのだろうか――ガラにもなく、胸が高鳴るのはどうしてなんだろう、と思う。それだけで顔が――熱い。


「え、そ、そんな、オシャレなんかしてない、よ?」


 自分で言ってオカシイと思う。母と買い物に行く時しか着ないワンピースをわざわざ選んで、同じく母と出かける時にしか使わないハンドバッグを持ち出して、お気に入りの髪留めをして、爽からもらったネックレスをさり気なく見えるように首にかけて。

 と、母は小さく微笑む。そっとペンダントに触れた。


「水原君がくれたんだったわね」


 それから、ひなたの髪に触れる。


「髪がはねてる。折角のオシャレが台無しよ?」


 と櫛を手に取り、髪を梳いていく。


 不思議な感じがする。少なくとも、 今までこんな記憶はなかったから。

 ずっと願って夢に見ていたことが、今目の前にあって。――思いもよらずに、感情が揺れる。


「こらこら、なんて顔してるの」


 母がクスリと笑いながら、ハンカチを取り出す。


「水原君とのデートなのに、そんな顔してちゃダメでしょ?」


 突然の爆弾発言に、ひなたの頭は真っ白になった。


「ち、ちが、そんなんじゃ、な、な、無いから、無いから!」


 血流が駆け巡り、鼓動が脈打つのが自分でも分かった。頬が熱くて湯立つような気がする。母はそれを見てクスリと笑う。


「ま、理由は何であれいいんじゃない? ひなたは水原君の前では遠慮なく自分を出せるみたいだしね」

「う、う……ん」


 コクリと頷く。それは母の言うとおりだと思う。爽が一番最初にひなたという存在を肯定してくれた。次に【緋色】の存在も肯定してくれた。青い、とひなたの中の彼女は吐き捨てるのが瞼の裏に浮かぶが、それでもひなたは嬉しかった。


 ――実験室にいた当時の記憶が断片的に抜け落ちて、いまいち実感がないにしても、だ。

 と、母は幾つか化粧品を取り出した。


「え?」

「せっかくだから、メイクをしてあげる。ひなたは素のままでも可愛いと思うけど、いつもと違うひなたを水原君に見せてあげるのもいいんじゃない?」


 とパフを肌に走らせていく。鏡を見やりながら、まるで自分じゃない気がする。母は小さく笑む。


「水原君がその手を離せないくらい、可愛いと思うわよ」

「え……」


 鏡を再度見やる。自信はまるでないが、子どもの殻を突き破った、少し大人の表情を垣間見せる、ひなたがそこには居た。


「楽しんでいらっしゃい」


 そう母が微笑む。ひなたは――満面の笑顔で大きく頷いた。


「あ、ひなた?」

「なに?」

「羽目を外すのはいいけど、避妊はしっかりね?」

「え――」


 ひなたは固まる。その意味を要するまで30秒、その後慌てふためき、声にならない声が、家中に響いたのだった。











「いってらっしゃい」


 変わらぬペースで、シャーレは娘を見送る。


 ひなたが出たのを確認してから、ずっとハンドバックの中でバイブ音を振動させ続けていたスマートフォンを手に取る。案の定、スピッツからのメッセージが表示されていた。




【エリクシール生成に向けて、実験を第2段階にシフトさせる。引き続き、被験体の生態観察に努めよ。こちらはエメラルド・タブレッドの起動に全力を尽くす。並行し、サンプルたちの負荷試験も進める。ログは随時送信すること】




 シャーレは小さく息をついた。


 エリクシール。――即ち、生命の妙薬。輪廻の輪から外れた悪魔の所業と言える。それは研究に関わってきたシャーレ自身が自覚していた。


 喉から手が出る程に渇望しているのは事実だ。その一方で――ひなたの笑顔が目蓋の裏側にチラつく。


 どうにかしていると思いながらも、自分がつくため息の重さの意味が分からない。

 ただ研究者シャーレとして、彼女は自動的に義務的に呟くのだ。


「――Enter」











 ベンチに座りながら、爽は缶コーラをあおる。喉を痛い程の炭酸が走り抜け、生きていることを実感する。


 姉の評価は【よく帰ってきたね】だった。それ以外の言葉がなかった。安堵の表情を見せる姉の姿なんてあまり見たことがなかった気がする。実験室の研究者の中でも、サンプルに感情移入する変人という表現をされていた【トレー】であっても、だ――。


 【帰ってきた】


 確かに。まだ帰ってこられたという実感が無い程に、時々アドレナリンが沸き上がる。それは高揚感からでは無い。むしろ危機感から。


 背筋が凍りそうになるのだ。


 爽の選択肢一つで、ひなた達を危険に晒すところだった。他に選択肢はあったとも言えるし、なかったとも言える。曖昧な思考になるのは、結果を前にして、過去の選択肢に対しての『だろう論」になるからだ。でも、それでは支援型サンプルとして存在意義すらない。

 この思考そのものが、分析にはほど遠い感情論なのも分かっている。だとしても、だ。


 ――ひなたを失うのが怖い。


 姉はもとより、野原彩子も呆れ顔を隠さない。


 でも、と思う。


 爽は決めたのだ。ひなたの手を離さないと。何がなんでも、ひなたを守ると誓って。

 支援型サンプルが何を、と姉は笑わなかった。


 ――爽君ができる最大限のことを考えたらいいんじゃない。


 ニッと茜は笑う。でも、宗方さんは守られてばかりの女の子じゃないみたいだけどね?

 さらに意味深に笑んで。


 野原彩子は大きくため息をついて言う。

 ――オトコってバカよね。優等生といい水原君といい。ひなたが一方的に守って欲しいなんて一言でも言ったの?


 野原彩子は突き放すように言う。

 それは分かっている。そうだとしても――だからこそ――。


 何も分かってないわよ、バカ。

 脳内で叱咤する野原彩子の苦笑をかき消すように、その男は爽の隣に、腰を下ろした。


「お隣、失礼」


 すでに座っておきながら何を――と言って硬直する。白衣で白昼堂々と振る舞う彼は、あまりにも自然で、群衆の中に違和感なく溶け込んでいた。


「あえて自己紹介をする必要は無いと思いますが、実験室で室長をしている者です。君は私のことをよく知っているとは思いますが、これも何かの縁です。以後お見知りおきを」


 戦慄が走るが、動くことを爽は諦めた。耳鳴りにも近い共鳴音――ナンバリング・リンクスが実験室サンプルの存在を表明してくれる。


「特化型の水原君が今まで検知できなかった事で、もうお分かりかな、と思います。配置している私のサンプル達の性能が、ね」


 彼はニンマリと笑んだ。


(特化型サンプル――)


 爽は唇を噛む。あえてナンバリング・リンクスを鳴らすのは、嘲笑のようですらある。下位サンプルが鳴らす高周波。だが特化型サンプルとなれば、それを隠すことも造作ない。

それをあえて鳴らすのだから、悪趣味以外の何ものでもない。


「監視対象の自覚がない事はさておき、君たちの成果は刮目に値します。そこは素直に称賛を讃えるべきだと思うわけです」


 ゆったりと言う言葉は、穏やかでありながら冷然としていた。


「そちらこそ無防備に登場とは、いささか不用心じゃないか?」


 カードを一枚出す感覚で、言葉を選ぶ。だがこのゲームは完全にフラスコの手の上であるのは間違いない。


「そうですね。私も私自身の立ち位置を理解しているつもりです。元実験室研究者にして、同志トレーとは違ってね。もちろん、特化型サンプル【ナイト】【ポーン】【ビショップ】を連れてはおりますが、君が必死の抵抗をすれば投入も無意味かもしれませんね。そこを理解しているつもりではいますよ」


 流暢に、そしてさらりと、とんでもない事を言う。


「それは俺を拿捕するという目的で?」

「まさか、今日は君とお喋りをしに来ただけです」


 フラスコは笑む。


「この街中で、実験室サンプルの存在が明るみに出ることは私の本意ではありません。今はまだその時ではない」


「その時がくると?」


「時々、君が支援型サンプルであることを忘れそうになりますが、成る程ね。攻撃的でありながら、冷静であり。沈着でありながら煽る。まさしくトレーの弟君に相応しいじゃないですか」


 フラスコは爽が持っていたコーラを無造作に奪い、一口飲む。


「いずれ、頂きにあがります」


 何を、とはフラスコは言わなかった。

 何を、と爽は聞かなかった。ただその目は、敵意と殺意だけをしたためる。

 フラスコは笑む。


「実験室のサンプルが絶対に見せない表情か――つくづく、君たちは面白い」


 敬語を捨てて、ニンマリと彼は笑んだ。

 フラスコは立ちあがる。ナンバリング・リンクスの共鳴音は、それが合図と言わんばかりに、すっと消えた。


「また会いましょう」


 雑踏の中、白衣を翻して。フラスコはその姿を消していく。


 爽は唇を噛み締めながら、ただ見やる。一矢報いる手が無いわけでない。だが、それを姉貴分――野原綾子が、感覚通知で制止したのだ。


【特化型サンプルは三体じゃない。四体いたよ? 絶対に手出しはしないこと。やり過ごす事も戦略なのは、水原君なら分かるでしょ? 今は一戦交える時じゃない。まだその時じゃないから!】


 言葉豊富に次々と送信されてくるのを聞きながら、バージョンアップさせた感覚通知の成果が出ているじゃないか、と呑気なことを思う。


 綾子は淡々としているように見せて、必死に爽を制止しようと懸命で。

 今回ばかりは、野原彩子に感謝せざる得ない。――否、いつも感謝なのだ。彼女のアシストにいくら助けられたことか。


 このもう一人の姉は、悪辣な物言いをしながらも、誰よりも爽のことを想ってくれているのが、ひしひしと分かる。


 だから、無謀な行動をしようとは思わない。それは支援型サンプルとして、踏んではいけない過ちであることを自覚していた。


【全部を一人で片付けようなんて、それこそ思い上がりなんじゃない?】


 彩子はそう言う。

 爽は苦笑いを浮かべた。


 確かにね、と思う。だから――と言う訳ではないが、爽は八つ当たり気味に呟く。これくらいは悪態をついても、支障はないはずだ。


「コーラぐらい、自分で買えよ」


 感覚通知越しに、彩子の盛大なため息が聞こえたのが、なんともおかしい。

 待ち合わせ時間まで後、15分――。

 今だけはささやかな現実を満喫したいと、思考を切り替える。臨戦態勢の鼓動を抑えるのには、少し時間が足りない気もするが、それでもだ。ひなたに心配をかけたくない。


 ――その考えそのものがバカだって言ってるのにね。

 彩子のその言葉はあえて無視をして、爽は大きく背伸びをするのだった。











 ゆかりは雑踏の中、歩みながら生きていることを実感していた。今日みたいな青空でも、いつかの雨の日でも人はこうやって行き交い、すれ違ったその人の顔すら憶えてない。


 でも、と思う。誰もがその人なりに行き先を決めて歩いている。それがどんな小さな理由でも。

 以前ならそんな事は思わなかった。そう思わせてくれたのは、宗方ひたなのお人好しな影響が大きい気がする。

 だからと言うわけではないが――。


(バカだな、わたし)


 余裕をもって集合時間を設定したのはゆかりだ。爽がひなたを誘い、二人の時間を作るのは容易に想像できた。


 二人を見るのは辛い。憧れから始まった爽への感情は、信頼とそれ以上の想いに成長してきた。


 諦めたらいいのに。


 理性は冷然と突き放す。爽が誰のことを想って動いているのか一目瞭然だ。ゆかりが足掻いたところで、変わらない現実はそこにある。


 諦めてしまえば、いっそ楽になるのに。

 諦めてしまえば、きっとそのうち忘れることもできるのに。

 諦めてしまえば、違う幸せを探せるはずなのに。


 ――わかってる。


 でも、分かったのだ。簡単に諦めるような中途半端な気持ちじゃないことを。爽のチカラになりたい。爽の幸せになりたい。その幸せの先は、多分、ゆかりの望まない未来でも。


 憎めたら、楽なのにな。キライになれたら楽なのにな。純粋にそう思う。

 でも恋敵は、無垢に微笑むのだ。


 ――ゆかりちゃんがいてくれて良かった。


 へ? と顔を上げたゆかりは、きっと間抜けな顔をしていたんだと思う。


 ――ゆかりちゃんが諦めるなって言ってくれたから、なんとかがんばれたよ? ありがとう。


(本当にお人好し)


 そう思う。諦めなかったのはひな先輩の方なのに。


 やり過ごしてもいい事だったと思う。所詮は他人だ。厄介ごとはゴメンだ、そう思っていたはずが、自然とひなたに感化されていた気がする。


 自分のタイムリミットが近い――だから焦燥感に駆られていたのもあった。世界はこんなにも理不尽で身勝手で。薄情な社会は遺伝子研究サンプルでも変わらない。


 結局は数少ない少数が大多数を踏みにじる。踏みにじられた大多数は、その中の力ない少数を腹いせに踏みにじる。そんな連鎖しかない事をゆかりは痛感していた。


 ――その連鎖をひなたは断ち切ったのだ。


 ひなたが眩しい、と思う。どこまでも真っ直ぐで、ひたむきで。そんな彼女をキライになれない自分がいる。


(だったら――)


 正々堂々とひなたに向き合う。爽のことでは妥協しない。それが何より、自分が選ぶべき道のような気がする。


 ゆかりちゃんがいてくれて良かった――。

 ゆかりがいてくれて良かった――。

 

 ひなたの声と母の声が重なって――。


 あの日、傷だらけで帰った母が、ゆかりを抱き締めてくれた。それ以外はなんの言葉もなく。

 後で知ったのたが――サンプル実験の報酬に、母は一切手をつけていなかった。

 ボソリと弟は言った。

 

――姉ちゃん、俺もがんばるから。


 本当に守りたかった人たちに、実は守られていることを知って、不覚にもゆかりの涙腺は緩んだ。

 

(私はバカだ、本当にバカだ――)


 目が痛くなるほどの青空で、ひなたのことを言えないくらいに感情が揺れる。

 湿気くさい感情を振り払うように、ゆかりは首を振る――その思考が凍りついた。


「実験材料にしかならないバカどもが 」


 忘れるはずもない。ゆかりはシリンジの声を確かに聞いたのだ。思わず振り返り――。

 呼吸が止まる。喉にかかる圧力を感じた。 金髪の青年が、さも楽しげにその手に力をこめる。


「サンプルが油断し過ぎじゃないか?」


 心底、嬉し気な表情を浮かべて。


「あ……が……」

「つまらないな。お前、弱すぎる」


 必死に抵抗するが、ますます彼の思うつぼでしかなく。周囲の人間は何事かと視線を向けることはあれ、助けようとする人は誰一人いない。分かっていることだ。この社会は理不尽で、不公平で、優しくない。


 と、パチンと炎がはじける。それは小さな火の粉だった。彼は無造作にはらった瞬間――火の粉は炎に膨れ上がる。


(ひな先輩?)


 ひなたは、ゆかりの腕を掴む。もう片方の手で彼に向けて、擬似重力操作を手加減なしで衝突させた。

 彼は問答無用で、群衆の中に弾き飛ばされる。

 巻き上がる悲鳴と狼狽。それを尻目にひなたとゆかりは駆ける。


「ひ、ひな先輩! や、やりすぎ!」

「ゆかりちゃんにそう言われるのは心外だなぁ」


 悪びれることなく笑顔をむける。


「だって、誰一人助けようとしなかったんだもん。ゆかりちゃんの為なら、私は迷わない。実験室がそのつもりなら、そのつもりで受けてたつよ?」

「そういう問題じゃ――」

「私にはそういう問題」


 ひなたはニッと笑む。つられて――ゆかりも笑みがこぼれ――我に返る。


「ひな先輩?」

「ん?」


「水原先輩と……や、約束あったんじゃないの?」

「え? あ、うん。声をかけてもらったんだけど、それはまた今度にしたいな、って思って」


「へ?」

「ゆかりちゃんと買い物できたら、と思って。ゆかりちゃんお洒落だから、アクセサリーのお店と、色々知ってるかなぁ……って。前からゆかりちゃんと一緒に回ってみたくて」


 目を点にするとは、今のような事を言うのか。思わず、声をあげて笑ってしまった。


「私、なにかおかしな事言った?」


 きょとんとした顔で、ひなたは聞く。


「そんなことない。ただ、嬉しかっただけ」


 笑ってそう言う。悶々と悩んだ自分は何なのか、と思う。ひな先輩をニクメナイ理由の一つがコレだ。そうは言いながら、ワンピースを着て、なんて女の子らしくコーディネートしてきたんだろう、と思う。


(いいよ、ひな先輩の初デートの相手になってあげる)


 ニッと笑んで、ひなたの手を引く。時間はあまりないが――シリンジや実験室のサンプルに水を差されたが――それを不意に思い出して、ゴクリとゆかりは唾を飲む。


 あの金髪のサンプルは強かった。


 油断をした、そんな言葉で片付けることはできない。ゆかりは、まるで動くことができなかったのだ。多分、彼は能力をまるで活用せずに、ゆかりを追い詰めた。


 このままではダメだ、と思う。その一方で、能力行使を洗練させていくひなた。彼女の学習能力の高さは、まさしく特化型サンプルと言える。


 実験室は、どこまでも粘着質なんだろう、と思う。


 ――だからこそ、ひな先輩や水原先輩の力になりたい。

 惰性ではなく誰かののために。ゆかりが心底、力を願った瞬間でもあった。

 











 街中の喧騒というのが、ここまで不快だとは思わなかった。何をそんなに喋ることがあるのか、不特定多数が会話を繰り返す。それはもはや騒音と言って差し支えなく、鼓膜を遠慮なく突き刺してくる。


「なにを勝手なことをしているんだ?」


 ヤツは感情を沸騰させんばかりに唾を撒き散らかす。知ったことか。指図されるいわれはない。


「わかってるのか? 今、事を起こすのがマズイことを!」


 実験室にとって、俺は特化型サンプル以上の情報ハザード対象だと、同じことを飽きもせずにヤツは説明を繰り返す。それで? だからどうしたと言う?


「それで、じゃない! 貴様がどの特化型サンプルよりも性能が高いことは認めるが、国家権力が後ろ盾にある実験室にはかなわない! だから、もう少し待と言っているのだ!」


 実験室がどう企もうが、ヤツがどう画策しようが興味はない。だが、あの特化型サンプルには大いに興味をそそられる。


「忌々しい【限りなく水色に近い緋色】は、どこまでも私の邪魔をする――」


 怨念ごと吐き出すようだが。そんな研究者を見やりながら、嘲笑すら浮かばない。結局はお前が研究者として不完全なだけだろ? あの特化型がお前の研究や理論より強いだけ。ただそれだけのことじゃないか?


(まぁ、いい)


 ヤツは道具として利用価値がある。だから、勝手に喋らせておく。

 と、足を止める。

 あれは、なんだ?


「あぁ、野球場だ。お前には縁の無い場所だ。あの廃材が引退試合をするらしいぞ。能天気な話だな」


 鼻で嘲笑い、ヤツは歩みを早める。

 ふぅんと、見やる。

 笑顔で人々は【やきゅうじょう】とやらに列をなしていく。


 【やきゅう】とやらに、これだけの人が集まるらしい。どういう場所なのか、より興味をそそられた。

 こんなにも外の世界はたくさんの人で溢れて、明るくて鮮やかで眩しくて。自分が拘束されていた、窮屈で狭い場所とはかけ離れすぎて――。

 

 

 

 


 

  

   

    

     

      

       

        

         

           

 

 

 

 

 なんて

 壊しがいが、

 あるんだろう。













 

 

 

 

 

 彼はあの特化型サンプル――宗方ひなたとの再会を夢見て、ニンマリと笑みを零すのだった。

 

 

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