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限りなく水色に近い緋色【原作版・連載中止】  作者: 尾岡れき
第2章「使い捨てられる廃材たち」
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19

 無機質な電子音とともにメッセージが表示された。


【今夜、零時】


 一瞥しただけで、作業に戻る。

 それは二次暗号化済みという、特定の者から覗き見(ハッキング)されても良いという、意図を明確に感じた。


 シャーレが送ってきたレポートを読むまでもなく、検体の【デハッガー】との相性は上々。トレーを巻き込んだだけの成果は上げるかもしれない。


 もっとも肝心なのは、醸成している検体の反応変化だ。様々な相互実験を並行しているように見せかけて、シャーレとの実験目標はたった一つしかない。


 ──即ち、エリクシールを。


 無造作に飴を噛む。


「──せい、先生? 宗方先生?」


 ポカンと顔を上げる。ずっと声をかけられていたのだろうが、まるで気付かず、苦笑する。


「あ、ゴメンゴメン。どうしたかな?」


 苦笑で応じる。同僚は微笑ましそうに彼を見た。


「先生、またお子さんの写真見てニヤニヤしてる。研究の方も集中してくださいね」


「失礼な、ちゃんと仕事中は集中してるさ」


「どうだか」


 とわざと肩をすくめて見せつつ、デスクの写真を見やる。


「でも利発で凛々しいお子さんですね」


「……」


 彼は表情を変えず笑顔で応じる──ことに成功したと思う。唾を飲み込む。


 エリクシールを。エリクシールを。エリクシールさえあれば。呪詛のように言葉が渦巻く。その全てを飲み込み、満面の笑顔を作ってみせた。


「そんなことより、今日はプロジェクト進めるぞ。今日は交配の検証だ。そのデータを精査することに費やそう。遺伝子データの抽出も再検証だ」


「はい!」


 研究員たちが一斉に応じた。


「砂漠緑地化計画そのものは真新しいモノではないかもしれませんが、先生の提唱する安全な遺伝子工学による緑化計画は学会のみならず、政府も各国も注目しています。絶対にカタチにしましょう、宗方先生!」


 彼女は満幅の信頼を寄せて、そう言う。


 彼は笑みを絶やさず、小さく頷いた。その目が虚ろだったことに気付くものはいなかった。口に放り込んだ飴を噛み砕いたことに気付く者も。


 エリクシールを──。


 元実験室研究者・スピッツの漏れた呟きにすら誰も気づかず、研究に没頭する。

 今夜零時、それはスピッツとシャーレにとっても新しい実験を開始することを意味する。


「ヒナタ──」


 彼の呟きは空気となって消える。誰も知らないまま、誰も気付かないまま。それでいい。

 もう一度、放り込んだ飴を彼は無造作に噛み砕いたのだった。








 ゆかりは拳を固める。パチン、青白く火花が散る。以前に比べたらコントロールがいい。何より暴走しない、これはどういう事なんだろう、と思う。


 ──君は失敗作だ。


 宣告は無機質だった。なに、ガッカリする事はない。契約は確実に履行する。君のデータは今後の研究に活かす。君は実験室のデータとして、確かに生きた証を刻む。最期の日までメンテナンスは継続する。契約を違うことはない。


 淡々と、淡々と。


 研究者・ビーカーはそう呟いた。契約内容は癌だった父の、手術及び入院費用、その後の生活フォローの全面支援。父が病床に伏せて始めて知る父の存在の大きさ。母の脆さを感じた。


 何が何でも、父を救いたかった。知らなかった、自分がこんなにお父さんっ子だったなんて。


 あら? と気丈に母は振舞って言う。昔からゆかりはそうよ? そう笑んで。


 結果、手術は失敗した。末期の大腸がんだった。


 父の末期に、母が自分たちに手を差し伸べてくれたのは唯一の救いだったのかもしれない。弟はそんな母を支えようと懸命なのが見てとれた。彼は私よりしっかりしている。大丈夫、大丈夫、大丈夫。


 結局は役立たずと自分を自嘲してしまう。


 ──スクラップチップスにはスクラップチップスなりの存在意義がある。君のデータは無駄にはしない。科学の貢献に感謝する。


 なんて無機質で用意された、テンプレートな台詞だろうか。


 置かれた札束の山を、ゆかりは茫然と見やることしかできなかった。

 ゆかりは、拳を再度握る。


 ぱちん。ぱちん。


 またしても青白く光る。そのチカラが以前に比べて過剰な気がする。オーバードライブの前兆か。力の過剰放出が症状の一つとして出る。それはサンプルになる前に学習させられた予備知識だった。


 まっすぐ前を向く。学校の屋上から見る夕陽は、影の色を深めていく。なお、ゆかりの時間制限(タイムリミット)を感じさせる。


 不思議と怖くはない。

 終わりは覚悟できた。


 気持ちの整理は──できたとは言い難い。残していく家族のことはやはり気になる。何より宗方ひなたと出会えたことが、ゆかりにとってはかけがえがない。


(恋敵なのになぁ)


 あえて古風な言い方で言って、自分で苦笑が漏れる。


 水原爽の想い人。それだけで嫉妬が疼く。それなのにその嫉妬を抑えてなお、ひなたを信頼する自分の感情。


 ぐっと手すりをつかんで、夕焼けに溶けそうな見慣れた町並みに目を向ける。


 ひなたはオーバードライブしたゆかりに、電流にさらされながら言ってくれた。ダイジョウブ、と。

 爽は国民国防委員会との立会いの中で、強く宣言をしてくれた。絶対に諦めない、と。


 ゆかりは言葉にならない。自分の行動は実験室との契約を破棄することになるかもしれない。母にも弟にも迷惑はかけたくない。


 でも、でも、でも、でも──。


 ダイジョウブ、と言ってくれたひなただから。諦めないと言ってくれた爽だから。ゆかりは返したいのだ。自分の生た証として。少しでも二人の記憶に残りたいから。実験室に翻弄されるのはゆかり一人でもういいから。羽島みのりには、もう怖い想いも寂しい想いもさせたくないから。


 グルングルンと思考は廻る。


 だから──。

 力が欲しい。ガンだった父を守りたい力、家族を守る力、自分の寿命をのばす力? ゆかりは拳を握る。その手を広げる。差し伸べるように、まっすぐと。


 ゆかりの目には、あの日その手を握ってくれたひなたの体温を感じていた。


 拳を握る。

 力が欲しい。


 ワガママだなぁ、と思う。勝手だと思う。ひな先輩は怒るだろうか? お母さんは、弟は、水原先輩はどんな顔をするだろうか?


 それでも──。

 悔やみたくない。ひなたのようにまっすぐ前へ。それどけを思う。


 力を、力をください。

 みんなを守る力を。私が生きたアカシを。力を、力を。









 スマートフォンをその指で滑らせる。タッチ、フリック、フリック、タッチ。流れるように、よどみなく一瞬で短文を完成させる。そして送信。傍受される事を前提に、爽は一般回線を介してあえて送信をしたのだ。


 【今夜、零時】


 夕陽に溶け込んだ画面の光が何とも無機質で。爽は公園のベンチで小さく息をつく。気の早い街灯がもう点灯している。


 残りの時間は短い。でもその間に極力、準備をする。爽は思考を巡らす。


 翻弄されている、と思う。

 自分のペースに引き寄せられないのを実感する。姉はそんな爽の心情を見透かしたかのように、笑む。


 ──だって、戦場ってそういうモノだよ?


 爽は唾を飲み込んで、姉の顔を見た。姉は笑みを絶やさない。爽はそれを望んだ。ただ一人の少女との平穏を──。


 それが如何に難しいか、分かっているつもりだったが──考えが甘いよ? 姉はニンマリ笑って言う。


 もっとも、それが爽君だけどね。さらに笑んで。

 爽は思考を切り替える。


 今度は別のプログラムを稼働させた。文字だらけの羅列が高速で動いていく。先程のメール送信がハッキングされることを前提とした餌であれば、このプログラムは爽にとっての本題でもある。姉ならば解除もできるだろう。だがそれも途方も無い時間を要するはずだ。彼とデバッガーが作り上げた自信作でもある。いわゆる双方向コミュニケーションツール、チャットと呼ばれるモノだ。画像も映像も音声もデータの添付もできない。そのかわりハッキングもさせない。


【パスワードを要求します】


爽はいくつかの操作を繰り返す。その中には眼底認証、指紋認証も含まれていたが、当然難なくパスをする。


【ログインしました】

developerデベロッパー ログイン中】






sou>>おまたせ


Developer>>餌はもうばらまいたの?


sou>>まぁね。


Developerr>>本気なんだね。


sou>>今更、それ聞く?


Developer>>相手が実験室って聞いたら、普通は考える。


sou>>強制はしない。協力は感謝している。


Developer>>なに、格好つけてるんだか。


sou>>え?


Developerr>>あの子が絡むと、君はまったく冷静じゃないの自覚ある?


sou>>そんなことは


Developer>>ない?

Developerr>>ない訳ないでしょ。図書室の件は如実に物語っているね。彼女の潜在能力を持ってすれば、量産型サンプルの撃退なんて易いでしょ。水原君が共同戦線をはる理由はない。


sou>>ことを大きくしたくなかっただけだから。


developer>>茜ちゃんに一矢報いいる能力のある子を? 本来なら【調整】をする段階なのに?


sou>>それはご両親が!


developer>>シャーレとスピッツ? 彼らはすでに実験室から退き、娘を被験体とすることを止めている。今【調整】できるのは誰だと思ってるの? 君はどんな存在意義をもって、【限りなく水色に近い緋色】の【デバッガー】として稼動しているの?


developer>>散々、茜ちゃんに言われたんだろうけど。水原君、君はひなたを大切にしすぎている。でも君の能力だけじゃ、ひなたを守れない。その自覚はある?


sou>>わかってる。


developer>>わかってない。だから冷静じゃないと言っている。もう【調整】をする時間もない。だから今の戦力で、最大限の火力と安定稼働が必要なの。本来はコレ、水原君の仕事。らしくないにも程があるの少し自覚して。


sou>>そうかな。


developer>>自覚なしだね。ひなたの周囲をうろつく男子は消し炭にしそうな勢いだけど、ココ最近?


sou>>そんなことない。


developer>>まぁ、いいけどね。旧清掃工場の間取り図は茜ちゃんに届けたから、受け取って。それと頼まれたモノは宗方家に届けておいたよ。姑息だけど妥当だし、良いプランだと思う。サービスでおまけもつけておいたから。


sou>>いつも、感謝してる。


developer>>これが私にできる精一杯。あとは健闘を祈る、ひなたをよろしくね。







 無機質な電子音が響くとともに、ダイアログが表示された。


developerデベロッパーがログアウトしました】


 爽自身もログアウトしてスマートフォンをしまう。ぼんやりと夕焼けを見やる。


 布石は置いた。戦略も組み立てた。あとはベストコンディションをひなたとゆかりに保たせること。これしかない。


 今までの経緯を反省しても、勝てない勝負ではなかった。ただ相手が上手だったことと、爽の詰めの甘さが祟ったのだ。それは茜にも言及された。相手は実験室、少々の一手で牙城を崩せるはずかない。


 今の現状を最大限に分析し、それ以上の情報を抽出する。最初から王手しか考えない。その為にはたったひとつの作戦プランだけでは足りない。多重的に多面的に多角的に、戦場を支配することが望まれている。それが【限りなく水色に近い緋色】の【デバッガー】の仕事だ。


 それができなければ──ひなたを実験室に奪われる。何があってもそれだけは受け入れられない。もうイヤなのだ、力が及ばず諦めてしまうのは。


 脳内で棋譜をイメージ。立案が万全でも、実戦は不確定要素が多いことは体験済みだ。それを踏まえて、王手をかける。


 羽島公平の為ではない。誰の為でなく、ただ一人の為に。理由を上げるとしたら、ただそれだけで。

 

 ──難儀な恋路だね。


 姉は茶化すが、言われるまでもない。


 ひなたがどうしたいのか、と爽は問うた。だが実験室と向き合う以上、爽には選択肢は一択しかないのだ。そうでなければ、ひなたを諦めて傍観するしかない。でもその選択肢はない。


(ひなたと共に、実験室に抗う)


 限りなく単純明快なシンプルアンサー。


(らしくない、か)


 デベロッパーに指摘されるまでもなく、浮ついている自覚がある。武者震いとも言えるし、恐怖している自分もいる。でもそれ以上に──ワクワクしているのだ。


 バケモノの片棒担ぐつもりあるの? ひなたはそう言った。勿論、と爽は答えた。迷いはない、躊躇いもない。あの時から実験室に抗うことに何の抵抗のない自分がいる。


 ──ひなたが一緒だから。


 幼い時のひなたの言葉が、爽に勇気をくれる。


 ──爽君がいるから、大丈夫。


 本当は毎日の実験で、不安でしかたなかったはずなのに。愛情を求めた両親は、実験対象としか見てくれなかったのに。たった一人で泣いていたことを爽は知っていた。それなのに結局、爽は何もできなかった。


 あの時の記憶を打ち払う。皮肉にもひなたが、極限能力最上稼働エクストリームドライブをする直前のことだった。


 未だ残る火傷の痕を服の上から擦る。痛みはない。恐怖もない。恐れていない。怖くもない。ただあの時、爽は何もできなかった。ひなたの苦しみを爽は救うことができなかった。力不足、その一言に尽きる。


 夕焼けはひなたの炎を連想させる。あの時、怒りと嘆きの感情に任せて暴れ狂った炎が、今ではなんて優しくも暖かいのか。まるで灯し始めた、誰かに手を差し伸べよう懸命なひなたの勇気のようだと思う。


(──この火は消させない)


 爽の思考は演算を繰り返す。

 時間ぎりぎりまで情報収集を。

 勝率を上げる為に。

 実験室に抗う為に。

 ただ、ひなたの為だけに。







 ひなたはベッドの上で膝を抱え込んで思案する。


【今夜、零時】


 携帯電話に表示された爽からのメールを見やりながら、複雑な面持ちを浮かべた。


 みのりを見る。


 彼女との距離は遠い。当然だ、と思う。お父さんから離されて見ず知らずの人間が突然の保護者になった。自分の家にも帰れず、軟禁された状態で。この有り様で、何を信じれというのか?

 ひなたが一番嫌っていた状態に、みのりを陥れている。まして、自分もまた実験室に産み出されたサンプルであることに違いない。恐怖の対象でこそあれ、信頼できる相手にはなり得ない。それが普通だ。


 ──バケモノ。


 あの言葉が蘇る。自分がバケモノなのは否定できない事実だ。例え爽が自分を能力含めて受け入れてくれたとしても。


 それなのに、茜は自分にみのりを託すという。


『僕に子どものお守は無理にきまってるでしょ?』


 さらっと笑顔で。


『まぁ、茜ちゃんにはムリよね』


 ズケズケと母が言う。茜が実験室の元研究者トレーというのもにわか信じられないが、その才覚と母とのやり取りで納得するしかなかった。何より今の自分の実力では、茜にすらかなわないのだ。


 みのりは、黙々とひなたの部屋の絵本を読み漁っていた。ひなたにとって実験室の被験対象の頃から、唯一の心の拠り所。それは絵本だった。だから自由に読ませてあげている。所詮は他人でしかないひなたには、それしかしてあげられることがない。


 ──イメージを力に。


 それだけを思う。ひなたは知っている。自分は弱い。自分の能力すらコントロールできない。爽の助けがなければまともに実験室と向き合えない。それなのに抗う自分は愚かなのかもしれない。


 それでもそれでもそれでも──。


 理由ばかり探していることに気付き、苦笑する。


 こんな私でも誰かのチカラになりたい。そう思うことはエゴでしかない。それでもそれでもそれでも、ダレカヲタスケル力にナレタラ、ナレタラ、ナレタラ──。


 かたっ。みのりが動いた。本をひなたに差し出す。


 もう本はいらない、という意味だろうか。だが、こんな生活も今日で終わる。だからあと少しガマンして、と声にするより早く、みのりの言葉の方が紡がれた。


「お姉ちゃんに読んでほしくて」


 ひなたは目をパチクリさせる。その本を受け取る。この絵本はひなたも大好きだった。魔法使いに弟子入りした女の子は、大好きな男の子を喜ばせたくて色々な魔法を使う。でもなかなか喜んでもらうことができず、女の子は途方に暮れる。男の子が大好きだから、その一心だったのに。でも言葉にした「大好き」を男の子は喜んでくれた。


 爽が読んでくれた絵本だった気がする。


 ひなたは受け取って、絵本を読みだす。絵本の文章を読まなくても、暗記している──と思ったが、所々、言葉が出てこずに文章を追いかける。時の経過は、実験対象だった時代をこうも忘れさせるのか。


 静かに時間は流れた。


 読み終わると、恐る恐るみのりは別の本に手をのばす。そして、ひなたを見る。

 ひなたは可笑しくて、笑みがこぼれた。


 無駄な言葉は重ねない。ただ小さく頷いて。みのりの不安を受け止めたい。そう思うひなたは、自己満足の押し付けをしているんだろうか?


 でも、実験室での日々を思い出すと、爽が寄り添ってくれた記憶だけは確かにある。それが心強かったことも、暖かかったことも憶えている。だからなお、彼を焼いた記憶が哀しくひなたを突き刺すが──。


 アタマがイタイ。


 あの時のことを思い出すと、いつもそうだ。記憶は真紅の炎で埋め尽くされる。体が拒否するのはオーバードライブを恐れているのか、誰かを傷つけることを恐れているのか。


 ペンダントを握る。今、一瞬だが爽もペンダントを握ってくれていたことがわかった。感覚通知が間をおかずに送信されてくる。


【ダイジョウブ】


 日本語は難しい。『ダイジョウブ』でも幾重の意味がとれる。でもこの場合の『ダイジョウブ』は一択で信じて良いと思う。爽がいてくれる。だから大丈夫。


 絵本のページをめくる。


 有名ドコロの昔話から、童話、創作。みのりは絵本の世界のトリップすることで、平静さを保とうとしているようで。怖いのは──不安なのは、何よりみのりであるのは間違いない。


 当たり前だ、と思う。

 実験室? サンプル? 能力? 何の冗談だと自分でも思ってしまう。


 でもこれは過酷な現実で、みのりの父はその弱さから実験室のサンプルになることを選択してしまった。結果、廃材として暴走。救える可能性は低い、爽は素直に言う。


 可能性が少しでもあるなら──。


 ほんの少しでも、あるなら。ひなたは拳を無意識に固めて──いつもなら、これで発火してしまう。それを抑えてくれる爽のブレーキ。それを今、全面に感じていた。


 トン、とん。

 ドアをノックする音。


「はい?」


 お母さんにしては、控えめなノックだなと思っていると、恐る恐る入ってきた人の顔を見て、硬直する。


「そ、爽君?」


 え?

 ええ? 

 え?

 なんで──。


「あ、あのさ、夕食ができたって、ひなたのお母さんが──」

「え?」


 何故か、二人とも気まずくなって顔を赤くする。呼吸するのもやっとな有り様に、みのりが吹き出した。


「お姉ちゃん、やっぱり聞いてなかった。おばさんが、みんなで夕食をとるよ、って言ってたよ。さくせんかいぎ? するって」


 さも当然のように言う。


「発案はうちの姉さんだけどね」

「茜さんが?」


 爽が小さく頷いた。と、トタトタと駆け寄ってくる足音に。


「ひな先輩、水原先輩とチューした?」


 ニッと笑って入ってくるゆかりと。


「ボクの爽君に手を出すのは、時期尚早だね。実力が伴ってからじゃないと認めないよ」


 当たり前のように入ってくる茜と。あらら、とクスクス笑んで入ってくる母と。


「……き、緊張感ない……」


 ゲンナリと肩を落とす爽と、現状認識できず目をぱちくりさせるしかないひなたと。


「一応ね、ベストコンディションを保つ為に、夕食を早めに食べてミーティングをするよ? 作戦の最終的な詰めをしよう。その後、仮眠。みのりちゃんを連れていくことを考えてもベストな選択肢だと思う──って、ひなたのお母さんに伝えていたはずだったんだけどね」


 と爽は小さく息をついた。


「ま、ひなたが根を詰めた時は何言っても聞こえてないから」


 母は楽しげに笑う。


「お母さんは反対しないの?」


 ひなたは不安そうに見やる。普通の母親なら──でも母は普通ではない。実験室の元研究者シャーレ。この場に及んで、自分は母に何を期待しようというのか?


 と、母はひなたをじっと見る。


「ひなたは、ひなたがしたいことをすればいいのよ。それって、私が何か言っても変わらないでしょ? それともひなたは誰かに言われたから、そんなに必死になってたの?」


「ち、違う!」


 衝動的に叫んで、否定する──自分に驚く。母はさらにニンマリ笑んだ。


「言葉にしなくても、伝えようとしてくれる人がいることっては、とても幸せなことよ?」


 さらに微笑んで、実験室の元研究者シャーレは部屋を出て行く。

 ひなたの手を握る爽。反対側にはみのりが。みのりの掌に重ねるようにゆかりが。

 茜は苦笑だけ残して、シャーレの後を追う。


 一人じゃない。

 みんながいる。

 みんなを守りたい。


 羽島公平──みのりの父も絶対に救い出す。絶対に。絶対に、絶対に。小さな決意、小さな勇気、小さすぎる反抗でしかない、実験室から見れば。


 それでも、それでもなのだ。

 自分の意志で守りたい。実験室の思い通りにさせない、それが何よりも、燃やし始めたひなたの意志。──をジャマするように、誰かのお腹がぐぅと鳴った。思わず、ひなたは吹き出す。


「お腹すいたぁ」


「桑島? お前か!!」

「ほ、ほら、腹が鳴っては戦はできんって昔の人が──」

「それは、腹が減っては!」

「ひな先輩のお母さんはご飯が美味しいって聞いてたから、お昼ご飯を抜いていたもので、えへへ」

「アホか!」 


 と爽がため息をつくのが可笑しくて楽しくて。


 拳を固める。その手に小さな炎をあえて灯して。自分の能力を確認するように。守る。救い出す、絶対に。絶対に。実験室の好きにはさせない、絶対に。ぜったいに。絶対に。誰も傷つけさせない、絶対に──。

 

 

 

 

 

 

 










 

 

 【緋色】は微睡む。遺伝子情報の海の中で。やけに高揚する【水色】の意志を感じながら。珍しいと思いながら。いい傾向だ、そう呟きながら、また微睡んだ。甘美なまでの破壊衝動を夢見て。全てを燃やし尽くしたい、それだけを夢見て。微睡みながら、遺伝子情報の奥底を漂う。全部、燃やしてあげたい。全部、ぜんぶ。【緋色】は【水色】と同じ表情で微笑んだ。


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