18
あまり聞きたくない警告音に、フラスコは顔を上げた。
蒸留した薬液がコポコポと音を立てている。
ディスプレイを見やる。ログを流し見しながら、小さく息をついた。その表情に色はなく、無機質だったが唇が僅かに歪む。見る人が見れば、フラスコは歓喜していると思っただろう。
そう、フラスコはこの現状を楽しんでいた。
【システム『弁護なき裁判団』に重大なエラー発生】
【自動修復します】
【修復できませんでした】
【退避システム始動。『No.E』のリンクを一時的に切断します】
【Enter】
「やれやれ」
フラスコはログを見やりながら、今度は心底微笑む。限りなく水色に近い緋色と接触してから、想定外ばかり起きる。彼女が不確定要素であることは間違いないが、ここまで実験室が翻弄されているのだから、パトロンと言うべき内閣総理大臣になんと言葉にすべきか苦慮するところだ、などと心にもない事を思い、自分で苦笑する。
もっとも、監視プログラムそのものが、トレーが所属していた時代の旧体制時のものだ。
そろそろ、 システム書き換えの時期なのかもしれない。
「まぁ、いい」
フラスコはまるで酔ったような目で、薬液を手を取る。
多少のハンデ、不確定要素があった方が実験としては望ましい。第七研究室を徹底的に破壊した遺伝子特化型サンプルがこんな事で終わる訳が無い。
――アレは悪魔だ。
当時の研究員の一人がそう呻いていた。そうだろうか? あの炎、あの烈火、あの業火、あれを美しいと言わずして何と言うのか。そもそも実験室の研究プロジェクトは悪魔の所業と世間では叩かれるものばかり。今更、どんな悪魔を恐れるというのか?
薬液を調合しながら思索する。
言うなれば、これは稼動試験だ。限りなく水色に近い緋色、是非ともあなたが欲しい。そうフラスコは思う。全ての研究を覆す、唯一無比の存在。それを自分の手で開発できなかった事は、口惜しいが。
フラスコはビーカーが画策しているプランを脳内でシュミレーションする。今回に限りは成功も失敗も無い。かの特化型サンプルを拿捕できれば重畳。できなかっとしても、同時並行する実験を検証できたら言う事はない。廃材を大量に一括処分できればなおの事。
この世は所詮、実験場。限りなく水色に近い緋色、あなたはどう足掻く?
フラスコは静かに笑みを零した。
ひなたは拳を固めた。炎の壁がより強固に踊り狂う。
「やけっぱちにしか見えないですけどねぇ」
シリンジは他人ごとのように言う。
「国民国防員会は実験室が生産した能力者集団でもあります。廃材の少女に干渉したように、特化型サンプル。貴女にも干渉可能ということです。試してみましょう――」
と言う間もなく、ゆかりは能力を開放した。
炎の壁を中心に、四方八方に電流を拡散させて。これにはさすがのシリンジも顔をしかめる。
「……無茶苦茶にも程がある。無差別すぎますよ? 一般市民に高圧電流を最大出力で乱射するなんて、非人道的です。このプロテクタースーツでなかったら、生身のニンゲンは感電です。国民国防委員会は断固として抗議します」
「どの口がそれを言うかなぁ」
炎の壁を突き抜けて、ゆかりが拳に帯電させて打ち込もうとする。否――ひなたも同時だった。ただし、ひなたは何も帯びていない。壁を作る事に能力を集中させて素手で挑んだとは到底思えない。
むしろシリンジは恐怖を覚えた。
「やめさせなさい!」
途端にひなたとゆかりはバランスを崩す。ゆかりの拳は方向をそらし、量産型サンプルを抉る。パラパラとその体が灰になるが、ゆかりはそれには目すら向けず、体制を整える。何かしらの能力でバランスを崩されたのなら、もう一度体制を立て直すだけだ。
だが、ひなたはバランスを崩し――激しい衝撃音とともに床に空洞を作ってしまっていた。鉄骨や基礎が剥き出しになるのが見える。疑似重力操作で拳を重圧を加重。さらにはバランスを保つ為に上肢に筋力局所強化を施したのだ。無意識に行っていたひなた自身も驚き、炎の防御壁はかき消えてしまっていた。
ごくり。
シリンジが飲み込んだ唾の音がやけに耳につく。シリンジの思考を一時停止させるのには充分な時間だった。
空気が震えて、窓ガラスが一斉に割れた。亂入する影に誰もが釘付けになる。
「水原君!」
と彩子が叫ぶ。当の爽はにんまりと笑んだ。
「ひなた、立てる? 発火能力で壁の展開をもう一度。桑島、微弱でいい。電流を図書室全体に流し続けて」
爽が当たり前のように指示を出す。
量産型サンプルが念力弾を放つが、なにかが割れる音がするだけだ。爽の不可視物理防御壁・ファイアーウォールが受け止めたのだ。
そこを間髪入れずひなたの火焔がサンプル達を穿っていく。
「やめさせなさい、やめさるんだ、止めさせ――」
だが今度は、ひなたもゆかりも体制を崩す事はなかった。
どうして? 意味がわからない。
爽が何をしたのか知らないが、正体不明の能力は無効化されたと見ていいのだろうか?
「ひなた、今回は交渉がご用件のようだから、国民国防委員会の書記様以外は退場願おうか?」
爽はにやりと笑って――ブーストをかけた。炎が膨れ上がる。ペンダントとプーストで4倍の出力援護を受ける。爽がいる。傍にる。それだけ、ただそれだけでひなたの中の勇気がさらに燃え上がった。
「なんで、なんで、どうして、神経干渉できない? なんで?」
狼狽したその声に聞き覚えがあって。爽はでも首を横に振る。今は現状打破を。だから、ひなたも集中する。
火炎を膨れ上がらせる。防御壁もろとも火炎の竜巻に練り上げて。爽がいる。だから後方の守りは全て、相棒に託す。
「な、な、な――」
黒スーツがシリンジを守るように立つが、それこそひなたの思うツボだった。集約してくれたおかげで、的が捉えやすい。
ひなたは声に意志をこめる。
「全部、燃えて!」
相手の命を奪う行為、それも分かっている。いや自分は何も理解していないのだろうか? グルグルと回る思考を今は打ち払う。羽島をみのりの元に帰してあげたい。何より爽やゆかりにも指一本触れさせない。涼太や彩子は勿論の事。その想いは明らかにエゴだ。それを自覚した上で、ひなたは能力をぶつけるのだ。
灰になる命を尻目に、ひなたは大きく目を見開いた。乱入する影が、シリンジの前に立つ。
「No.K?」
シリンジも信じられない目で彼を見る。やれやれと髪をかく男が一人。県警・川藤巡査部長が困惑した顔で立っていた。
「本当にやれやれです。僕はNo.Eのエラー確認をしに来ただけと言うのに、なんですかコレは?」
と呆れ顔で言う。
ひなたは爽の顔を見る。さすがの爽も意味を察する事ができず、感覚通知で『わからない』とだけ返す。一方のシリンジは、形勢逆転したと言わんばかりに、勝ち誇った笑顔を浮かべていた。
「廃材の小娘、電流をやめろ! 特化型サンプル、変な事は寄せよ? お前らに最早、選択肢は与えない。この場で全てを終わらせる! 泣いて後悔しろ、我々を愚弄した罪を――」
シリンジは血走った目で、咆哮と哄笑をあげる。ゆかりは電流を止め、ひなたは拳を握りしめるしかできない。せめて、とひなたは思う。せめて金木君と野原さんを守りたい。爽を横目に見る。爽は表情を変えず、ただシリンジの笑みを見やる。そのシリンジの笑みを止めたのは全くの予想外の一言だった。
「そこの貴方、この概要について事情聴取を受けて頂きます。あ、勿論任意ですけどね」
「――は?」
シリンジの表情が凍りつく。
「前途有望な高校生諸君と、ブラックスーツに身を包んだ貴方。そのどちらの言葉を信用すべきかは一目瞭然です。挙げ句はこの図書室の惨状をご覧ください」
と川藤は図書室内を見回す。焼け爛れ火の粉が散り、本は燃え続けている。さらには 床を抉る穴、最早無差別テロとしか言いようがない。
「な、No.K、貴様どういうつもりで――」
「詳細は事情聴取でお聞きしますよ。その上でどうぞ室長に弁明ください。貴方が清廉潔白な一研究者であり、諸悪の権現は純粋無垢な高校生であるとね。シリンジ、貴方は目的を履き違えた。ただそれだけの事です。こんな騒ぎはそもそも必要なかった。そうですよね?」
シリンジの表情が青くなるのも構いなしに、川藤は爽を見やる。
「水原君、僕はもう一つお使いがありましてね、言伝をお願いいたします。実験室研究者ビーカーから、お姉様にです。電子メールを送りましたので、是非開封されたし。以上です。では、是非よろしくお伝え下さいね」
「ま、待て――」
と爽が声をかけるより前に、川藤は拳銃を取り出し、天井に向かって撃つ。
たん、と乾いた音。それはまるでオモチャのように薄っぺらい音だった。
「川藤さん、まだ話は――」
爽が言うがもう遅い。弾丸は出ない。代わり銃口から溢れ出る白煙に絶句する。
「監視システムの異常は回復したようですし、僕も忙しいので。宗方さん、水原君、桑島さん、またお会いしましょうね。今度はお茶でもしながらゆっくりと――なんて言ったら警部補みたいですね。まぁ彼は僕であり僕は彼ですから、仕方ないと諦めてやってください。それでは今夜の健闘を祈ります。see you」
煙幕の中で軽やかな川藤の微笑が響く。
ひなたも唖然とするしかない。今度こそ追い詰めると決心をしたのに――何もできなかった。それが悔しい。悔しすぎる。
と、爽が手を優しく握ってくれた。
「ひなた、桑島。まだ何も終わってないからな」
そう呟く声に弱気は微塵も無い。だからひなたはさらに拳を固める。諦めない、絶対に諦めない。
力をこめる。
火焔が、熱風を生む。ひなたは煙を凪ぐように手を振った。ただそれだけで、煙幕はかき消える。シリンジも川藤の姿も無い。無残に傷跡を残した図書室が、これは偽りない現実だと伝える。
ひなたは悔しさに唇を噛み締め――拳を握る。その手に重なる手と手。爽とゆかりが、揺るぎない意志で、窓の外を睨んでいた。
諦めない、終わらない。絶対に諦めない――。
なんでだ――。
何故、能力を使えなかった。握りこぶしを掴みながら思う。こんな事は今までなかった。負荷試験の時だってこんな事はなかったのだ。
『君の能力は使えるよ』
そう担当研究者シリンジはほくそ笑んで言った。自分の能力が他のサンプルに比べて、華が無い事は承知している。戦力としては、量産型サンプルにすら劣る。攻撃的に能力が展開できる訳でも、支援型のように実戦をサポートできる訳でもない。なんて中途半端で、存在を見出だせないのだろう。
シリンジは自分の事を【懐刀】と呼ぶが、何の事はない。油断させて戦意を喪失させる卑怯な暗器でしか無いのだ。
それでも――。
それでも、だ。
自分の存在を証明する手段なのだ、実験室のサンプルでいるという事は。
何て自分は個性が無いんだろう、と思う。
一番にはなれない存在。とりたて目立つ訳ではない存在。集団の中では個に埋没するだけの存在。未来は定型文のように枠の中に当て嵌められただけの存在。夢? なんだろう、それは。自分にとっての夢とは、睡眠の時に見る潜在意識の情報だ。それ以上もそれ以下も無い。
こんな重苦しく、将来が約束されない社会システムの中で歯車になる事を強要される。それは高校生でも社会人でも何ら変わらない。これ程の絶望の中で、自分達は生きている。
何に希望を抱ける? 何を夢見る? 青春を謳歌? 巫山戯るのも大概にして欲しい。数字でランクをつけて、社会の部品として摩耗するだけの人生と堂々と公言すればいい。所詮、使う側と使われる側で回るシステムの中で、自分たちは使い古されて廃棄される存在なのだ。
それは今回の研究者達が画策している実験が全て物語る。
爪を食い込む程に拳を握る。
『大丈夫だよ、心配しなくても』
シリンジは得意気な顔で解説してくれる。君は選ばれた側の人間だ。君が影響を受ける確率はゼロに等しい。だから、何の心配もいらないんだよ、と。
(そうじゃない! そうじゃないんだ!!)
やりきれない感情。自分は実験室のサンプルだ。特化型にはなりきれない、攻撃型にもなりきれない、支援型ですらない、そんな特殊型サンプル。それなのに宗方ひなたは、その身を挺して、こんな自分を守ろうとしてくれる。
(そうじゃない、そうじゃ――)
爪が食い込み、血が滲む。
それでも、悔いは消えない。
ひなたは言った。
絶対に傷つけさせない、と。絶対に守ってみせる、と。そんなひなたが眩しくて、強くて、格好良かった。
何やってるんだ、と思う。それなのに自分がした事はと言えば、自分がした事はと言えば、自分がした事はと言えば――。
ちりん。
無機質で妙に高音が耳につく電子音。携帯電話の画面がメールの着信を表示する。力なく、電子メールを開封した。
【誤算はあったが、計画通りに今夜遂行する。絶対に特化型サンプルを屈服させてみせる!】
荒ぶる感情剥き出しのシリンジの文章にも、何ら感情は湧かない。
了解、とだけ返信をする。
ひなたは守ると言ってくれた。
それなのに自分はどうしたいのか――――全く分からなかった。
茜は漫然とパソコンを操作して、電子メールを開く。案の定、乗っ取りを画策したコンピュータウルスを三重に仕込まれていたので、用意していたアンチウイルスプログラムで、容赦無く叩き潰した。
「無駄なことをするのが好きだよね、ビーカー。本当に変わらない」
失笑しながら、茜はメールに目を通す。厳重なウイルス攻撃の割には、内容は希薄で虚構で無機質。苦笑すら出てこない。
【今晩零時、北区・旧清掃工場に羽島娘を連れて来られよ。羽島公平は娘との再開を望んでいる。我々は、羽島公平の意向を汲み、平和交渉を望む。是非、我々の理念を特化型サンプル及び、元実験室研究者トレーがご理解頂く事を望む】
書名に国民国防委員会とある。平和的な交渉と言う割にはウイルスを仕込んだりと、何ら信用に足らないのは新手のジョークかと言いたくなる。そういえば、と頬杖をつきながら思った。シリンジもひなた達を前に交渉が目的と言っていた、か。
コーヒーを飲みながら、漫然と思う。シリンジに交渉をさせようと思う事の方が愚の骨頂だ。彼は名誉欲の塊だ。口調こそ丁寧だが、盗める技術は盗用するし、情報を捏造する事もお手の物だ。
ただし仕事は丁寧なので、サンプルの調整作業においては実験室でも一、二を争う有望な学者と言ってもいい。
否――彼こそ、実験室にしか居場所が無いのだ。彼は自身の名誉欲の為に同僚の研究を盗用し、論文を改竄した。必要とあらば他の研究機関に情報を売りつける事も造作無い。地位も名誉も地に落ちた彼を拾ったのが実験室だ。最早、シリンジの居場所は実験室にしか無い。哀れな、と思う。
が、茜にとっては単なる排除対象でしか無い。同情はするが、共感は無い。邪魔なら排除、排斥するだけ。そこまで思索してふと思う。
ビーカーはシリンジが暴走する事を前提に【限りなく水色に近い緋色】の情報収集を狙ったか。それならあり得る。ビーカーがやりそうな事だ。
だけれど甘い――と笑みが浮かぶ。ひなたや爽にとっては、負荷テストにすらなり得ない。茜が開発した支援型サンプルは彼のような矮小な存在には屈しないし、【限りなく水色に近い緋色】にいたっては、能力の全貌はこんなモノではない。
――だって彼女は全てを灰に帰したのだ。街という単位そのものを。
手つかずのもう一つのコーヒーカップを見ながらさらに思案する。
まだ湯気をたてて、一口も口をつけられていないコーヒーカップを。
遠藤警部補、あるいは遺伝子研究監視型サンプル【弁護なき裁判団】の【No.E】のエラーは未だ解消されていない。
それなのに【No.K】はエラーは異常より回復した、と言う。メインシステムへの覗き見を試みたが、アクセス不可だった。崩せないプログラムではないが、今はそこに労力を注ぐ意味が無いし、多分何も発見できない予感がある。
人間の感情を排して、人間を限りなく真似、人間社会の中で、人間社会から生まれた遺伝子研究サンプルを監視する事を目的として作った遺伝子研究サンプル。
自分の手から離れてから、実験室の中で彼らが適切なメンテナンスを受けたのかどうか。あるいは何らかの改変を受けたのか。どちらにせよ、データ収集が必要なのは間違いない。
しかし【No.E】に言われるとはね。苦笑しか浮かばない。
『茜ちゃん、情報処理室は飲食禁止だろ?』
彼はトレーとは言わなかった。
茜がトレーであることは認識している。
茜がトレーと言う事を拒絶しても、その言い方を変えなかった監視システム達。それは茜に対して呼びかける際は「トレー」と呼ぶように設定していたからだ。それを見越して、あえて思考ルーチンをパンクさせる事を目的に、茜は「トレーと呼ぶな」という命令を出していた。それも意図的に、だ。
ひなたを心配する【No.E】
ひなたを心配する遠藤警部補。かれはいったいどっちなのだろうか?
茜はコーヒーを啜る。
スティックシュガー2本入れてなお、茜の口の中には苦さしか広がらなかった。
次回、限りなく水色に近い緋色
それぞれの思惑、不消化の感情を胸に決戦へ。
陳謝。
ただいま資格更新研修中につき遅筆な上に遅筆で、本当に申し訳ありません。更新の意志はありますので、引き続きお待ちいただけたら。
前回に引き続き、矢口様より案を頂いた能力者の能力を活用しております。ヤツの正体は多分、次回で明らかにできるのではないかと思いますが……。
地味に、能力・能力者・キャラを募集しております。亀展開でようやく能力の一つを描写できたという状況で、矢口さんには大変申し訳なく(笑)
今回もお読み頂き、本当に有難うございました。