4
夜半近くなって頼成が宿屋に戻ってきた。彼は村の全ての患者に薬を配ってきたといい、とても穏やかな顔で笑った。これでこの村は元通りだ、そう言って安心したような顔を見せた。
佐羽はそんな頼成の話を半分も聞いていない様子で唐突に虹色の女王の領地に向かうことを提案した。頼成は驚き、焦ったように佐羽を睨む。
「おい、どういうことだよ。何考えてるんだ?」
「緑さんに聞いたら、例の黒い蝶がそっちでも見付かったんだって。この村にはもう蝶はいないみたいだし、追い掛けてみる価値はあるでしょう?」
「だからって、虹色かよ……」
「怖いの?」
大丈夫でしょ、と佐羽は肩をすくめる。
「今の頼成も湖澄も、それにるうかちゃんも。“天敵”を生み出す治癒術の使い手じゃあない。だったら“色のない騎士”も君達を狙いはしないよ」
「保証はない」
苦々しい表情で頼成が言う。るうかは“色のない騎士”とは何かと彼に尋ねた。頼成は少し迷ってから、「治癒術師狩りをしている虹色の女王直属の騎士のことだ」と答えた。
「治癒術師狩り!?」
「虹色の女王の領地では治癒術は“天敵”を生む邪法だっていう考え方が一般的だ。だから色のない騎士は女王の命令で治癒術師や賢者を殺す。騎士とは言うものの、実際のところは暗殺者集団だ」
「……そんな」
「“呪い”や“祝福”で治癒術を使い続ける大魔王領・大神官領との大きな違いはそこだ。だからこの2つの領地と虹色の領地の間にはほとんど交流がないし、当然こっちにいる治癒術師連中は虹色の領地には絶対に近付かない。たまに向こうから治癒術師が逃げてくることがあるんだが……色のない騎士は領地を越えてでも狙った相手を確実に殺す。逃れることができたほんのわずかな治癒術師がこの話を広めたおかげで、虹色の領地はこの世界でほとんど孤立した状態になっている」
頼成は部屋の壁に背中を預けながら難しい顔でそう語った。るうかは頼成の説明した内容を自分の頭の中で整理しようと試みるが、あまりうまくはいかなかった。そんなるうかを見て佐羽が柔らかく微笑みながらこんなことを言う。
「あのね、るうかちゃん。虹色の女王の領地……その中心となる城の名を取ってイールテニップ領とも呼ばれているんだけどね。そこにはもうひとつ、別のあだ名があるんだ」
「別のあだ名……ですか」
「そう。それはね……“平穏の国”」
「……っ」
るうかは言葉を失い、佐羽はますますにっこりと笑って言葉を続ける。つまり女王直属の色のない騎士が治癒術師達を粛清することにより、治癒術による人間の“天敵”化は起こらない。そして殺されることのない大多数の住人にとってそこは“天敵”の脅威に怯える必要のない平穏の国となる。そういう理屈だった。
「呪いは治癒術師本人の石化を代償に患者の“天敵”化を防ぎ、祝福は“天敵”化していく神官を神殿の管理下に置くことで治癒術師と患者の両方を保護する。そして騎士の粛清は治癒術そのものを領土内から排除することで“天敵”の発生を確実に防いでいる。だから虹色の女王の領地では怪我や病気を治すには薬に頼るしかないんだけどね。結局、どの方法も“天敵”っていうこの世界の最大の脅威からいかにして逃れるか……それをそれぞれに追及した結果なんだよ」
佐羽は少しだけ遠くを見る瞳で語り終える。るうかは返す言葉を失い、ただただこの世界の残酷さを噛み締めていた。せっかく治癒術という方法があるというのに、それは常に人間を化け物に変えてしまう危険性と隣り合わせになっている。そしてその危険を取り除くためには何らかの犠牲が付きまとう。
るうかはかつて“天敵”となり果てた治癒術師の“るうか”を思う。
何人もの負傷した戦士や魔術師を助け、覚悟の上で石化した頼成を思う。
そして今初めて知った虹色の女王の領地、平穏の国と呼ばれるそこの暗い実態を思う。
「誰かの犠牲がないと、この世界の治癒術は成り立たないんですか」
やっとのことでるうかが口にしたのはそんな言葉だった。それに答える者はなく、1人頼成がそっとるうかの頭に手を伸ばしかけて、やめる。代わりに湖澄がるうかの肩に手を置いた。
「現状では、そうとも言える。だが俺達のように危険なく治癒術を行使できる“聖者”もいる」
「でも聖者になるには一度石化した治癒術師や賢者が勇者の血で蘇ることが必要ですよね。勇者でさえそんなにたくさんはいないのに、聖者が増えるはずもありません」
「そうだ。だから現状ではやはり治癒術は犠牲の上に成り立つ魔法だと言える」
湖澄は事実以外のことを言わなかった。だからるうかはその言葉について自分で考え、そして結局こう告げる。
「分かりました。今、私がそれをどうこう言っても始まりません。でもその虹色の女王の領地で黒い蝶が見付かったっていうことは、色のない騎士がどれだけ治癒術師を殺したって“天敵”が発生する可能性があるってことですよね?」
そうだ、と頼成が頷いた。彼は厳しい目で他の3人を見回す。
「この村での騒ぎどころじゃ済まないことになる。虹色の領地の平穏を保っていたシステムそのものが意味をなくすようなことになりかねない。緑さんの情報が確かなら、急いで現場に向かって対処する必要があるぞ」
緑の情報は確かだと佐羽は言った。さらに虹色の女王の領地内で黒い蝶が目撃された場所もある程度特定できているのだと言って、彼は4枚のカードを取り出す。それはいつかも使用した、緑作の転移魔法を封じ込めたカードだった。
「善は急げ。とにかく行ってみるしかないよね。ってことで緑さんに無理を言って病棟まで届けてもらっちゃった」
「届けてもらっちゃった……って、お前な。話は分かるが……今からか? もう夜中だぞ」
「だからいいんだよ。頼成は賢者として名が知れているし、湖澄だって3年前までは結構な有名人だった。昼間から堂々と行って色のない騎士に目を付けられるより、夜陰に乗じて領地内に入ってしまった方が安全だと思うけど?」
佐羽の言い草に頼成は強く顔をしかめる。しかし彼の言うことももっともだと感じたのだろう。頼成はくたびれた様子で肩を回しながらも頷いた。
「分かったよ。じゃあとっとと部屋を引き払って出掛けるか」
「ああ、支払いはもう済ませてあるから大丈夫。荷物をまとめたらすぐに出よう」
「……抜かりねぇのな」
「君だって手遅れになる前に手を打ちたいでしょう?」
ふんわりと佐羽が微笑み、頼成はわずかに目元の表情を動かす。それは見ようによっては穏やかな無表情であり、また別の見方をすればわざと感情を押し殺した瞳であるようにも思えた。
緑のカードを使って空間を超える。カードの中にプログラミングされた魔法は頼成や湖澄の使う転移術と異なりややその展開が遅いのだという。頼成によると、やはり原理は彼らの使う術と同じらしい。
「数学の問題を解くときにもひとつひとつちまちま解いていくやり方と、公式に当てはめてさくっと解くやり方があるだろ。あれと似たようなものだ。俺達みたいな賢者は公式を知っているから、短時間で魔法を発動・収束させることができる」
「その点、このカードは全部の解法を事細かに記して実行している。だから遅いっていうわけだね」
佐羽がそう言ったとき、目の前の景色がぐらりと歪んだ。青い光の線が不規則に揺れて何かの紋様のようなものを描き出し、次の瞬間にはもうるうか達は見たことのない景色の中にいた。
そこは夜闇にもはっきりと分かる澄んだ青い水を湛えた大きな湖の畔だった。月のない夜空に浮かぶ星々が波のない水面にきらめく粒を落としている。まるで水の中にも空があるようだった。
「すごい、綺麗……」
思わず言ったるうかの背後でがさりと音がした。すぐさま態勢を整えて身構えた一行の目の前に、近くの茂みから躍り出てきた影が突然斬りかかってくる。黒く塗られた長剣の攻撃を斧槍で防ぎ、頼成が大声で誰何した。
「誰だ、俺達に何の用だ!」
星明りに照らされ、影の姿がはっきりする。それは黒い甲冑を頭から爪先まで隙なく着込んだ騎士だった。顔を覆う兜の細いスリットからこちらを睨む目が鋭い。
「色のない騎士?」
頼成の背後で佐羽が問い掛ける。るうかは自分のカタールを両手に構え、攻撃に備えた。黒い騎士はそんなるうかを見て一瞬だけ小さく首を動かす。
「……逃げろ」
微かな声で騎士が言った。よく見ればその甲冑はすでに赤黒い血でべっとりと汚れており、彼が何らかの戦闘を終えた後であることが見て取れた。
「“天敵”が出たのか」
湖澄が問い掛けると、騎士は黙って頷く。そして再びるうか達に向かって逃げろと言った。
「この国には異変が起きつつある。出るはずのない“天敵”が現れた。お前達は外の人間だろう。何をしに来たのかは知らないが、早々にこの国を出ろ」
「いいのかい? そこにいる頼成と湖澄は元賢者だよ。本来なら君達が襲ってもおかしくない相手だ」
佐羽がわざと挑発するようにそんなことを言ったが、騎士は全く取り合わなかった。それどころか彼は小さく溜め息をついてこう言う。
「本当に悪があるとすれば、それは治癒術をあらゆる病を癒す奇蹟の法か何かと勘違いしてありがたがる人間の性だ。どんな薬にも、どんな治療にも必ず負の作用はある。だから治癒術が“天敵”を生み出すことはある意味では自然の原理であって、そこに悪はない」
しかし、と彼は続けた。
「治癒術を盲信してそれに縋ることは悪になりうる。我ら色のない騎士はその芽を摘むことでこの国の、そして女王陛下の平穏を守ることが使命だ。だというのに、治癒術師などいないはずの場所で“天敵”が現れた。これは由々しき事態だ。外から来た元賢者などに構っている余裕はない」
そう言って彼は黒い剣を鞘に納める。頼成は少しだけ肩をすくめながら騎士を見やった。
「話せる相手で助かった。が、俺達はその由々しき事態に対処するために来たんだ。治癒術がなくてもこれから“天敵”が現れる可能性はまだ消えていないぞ。どうだ、その辺りの情報を共有する気があるなら、とりあえず今夜の宿くらい紹介してもらえないか?」
頼成の申し出に騎士は少しの間の後で「いいだろう」と頷いた。そして彼は小さな声でこう続ける。
「女の子に野宿をさせるのも可哀想だ。近くの町まで案内しよう」
そう言って騎士はくるりと踵を返して湖とは反対の方角へと歩き出す。黒い甲冑に覆われたその背中はどこか重たそうで、そして疲れていた。るうかはその背中が妙に気になり、町に着くまでの間のほとんどの時間を彼の背中を見つめることに費やしていた。
そんなるうかを頼成がどこか虚ろな瞳で眺めていた。
執筆日2014/01/21






