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るうかは湖澄と共に村の家々を回ったが、皆自分の身体に起きた変化に怯えるばかりで黒い蝶に関する情報を得ることはなかなかできなかった。るうか達は仕方なく、連れの賢者が薬を持って村を回っているので落ち着いて待つよう人々に告げた。そうやって何軒かを回るうちにやっと黒い蝶について心当たりがあるという人物に出会った。
彼女は軽く70歳は超えているだろう老婆で、それでもかくしゃくとしていた。彼女はきらきらと輝く藍色の目でるうか達を見ながら興奮した様子で語る。
「最初はね、なんだか気持ちの悪い影みたいに見えたの。とうとう死神がお迎えにきたのかなんて思ってね。でもそれも仕方ないかね、って。だってあたしゃ今年で74だし、身体はあちこち痛むし、もうそろそろお迎えさんが来たっておかしくはないだろうってね。でもよく見たらあんた、影どころか虫でさぁ。真っ黒で洒落た蝶々が何十って集まって一塊になっているんだもの。おったまげたよぉ」
「それはいつごろのことでしたか?」
るうかが尋ねると、老婆ははっきり9日前だと答えた。
「ちょうどその日に珍しく旅の賢者っていう人が村に来てね。みんな痛いところや悪いところを診てもらったのさ。この村には薬草ならたくさんあるけど、それじゃあ治せないものもあるからね。気さくな賢者さんで、ほとんどお金も取らずに丁寧に1人1人診てくれたんだよ」
「賢者」
ぽつりと湖澄が呟いて顔をしかめる。彼は一度るうかを見て「どう思う?」と尋ねた。るうかは少し考えた後で老婆に対して質問する。
「おばあさん、その賢者の人はどんな人だったんですか。たとえば歳とか、性別とか」
「若い女の子だったよ。桃色の綺麗な髪に宝石みたいな紫の目をしてね、杖を持っていたよ。なかなかの別嬪さんだったからまぁ村の男連中はどこも痛くないのに賢者さんを一目見ようと下心丸出しで出向いていく始末で、まぁあの日は賑やかだったさ」
「桃色の髪に紫の目の、若い女性……」
るうかの脳裏にすぐさま浮かんだのはあの浅海柚橘葉の妹、佐保里の姿だった。湖澄も同じことを思ったのだろう、どこか納得した様子で小さく頷く。
「それで、その人はその日は村に泊まったんですか?」
るうかが再び尋ねると、老婆は頷いて宿屋の方角を指差した。
「あそこに一晩泊まって、次の朝早くに出ていったよ。神殿のお役目であちこちの町や村を回るのが仕事だって言ってねぇ」
「そうですか……。じゃあ、黒い蝶を見たのはその賢者の人が村にいる間だったんですか?」
「そういえばそういうことになるのかねぇ。あたしが蝶々を見たのは日が暮れて、空が紫になってからだったよ。昼間の騒ぎで薬草畑に手をかけられなかったから、ちょっと見に行ったのさ。そしたら影みたいな蝶々がいてねぇ」
「畑に蝶がいたんですか?」
「そうだね、畑の真ん中に柱みたいに固まって飛んでいたよ」
どうやら事件のあらましが見えてきたようだ。るうかと湖澄は老婆に礼を言ってその場を離れ、畑の間を歩きながら互いの推論を確認していく。
「恐らく、浅海佐保里がこの村を訪れたのは間違いないだろう」
「黒い蝶も佐保里さんの仕業でしょうか」
「それについては確証はないが、可能性は高い。この世界はあくまで治癒術が“天敵”を生み出すという原理の元に成り立っている。それを覆す黒い蝶の存在が広まれば、世間は混乱するだろう。治癒術以外にも人間を“天敵”に変えるものがあるとなれば、神官の祝福も魔王の呪いも意味のないものになる。人々は恐怖から逃れるために縋るべきものを失うことになる」
「鼠色の大神官はそれを狙っているっていうことですか」
「狙いとしては相応だ。“一世”の遊戯は人間がどちらの世界を現実として選び取るかによって勝敗が決まる。こちらの世界は柚木阿也乃が受け持ち、あちらの世界を浅海柚橘葉が受け持っている。互いに両方の世界に領土を持って干渉し合うが、当然のことながら仕向ける行動は正反対になる」
だが、と湖澄は言葉を濁した。
「“一世”達にとってはあくまで遊戯だ。特に柚木阿也乃の性格には人を食ったようなところが見受けられる。ことによると、わざと自分の側が不利になるような仕掛けを打ってくるかもしれない」
るうかはぎょっとして湖澄を見る。湖澄の表情はあくまで真剣で、それゆえにるうかは思わずその意見に反発する。
「どうしてそんなこと。柚木さんだって、負けたくはないんでしょう」
「危機の後には好機が巡ってくるものだ」
湖澄は足を止め、るうかを振り返った。
「自ら危機の種を蒔き、それを首尾よく解決することができればこの世界での人々の不安は払拭される。しかも一度危機を経験した後ではその安堵感はより強いものになる。結果的に人々がこちらの世界を選択する可能性を高めることにも繋がる」
「……回りくどいやり方ですね」
「定石を外した手を好むのが柚木阿也乃だ。どちらにしろ、“一世”達は延々と続く遊戯に飽きてきている。今回のことをどちらが仕掛けたにしろ、この村だけの問題では済みそうにないな」
延々と続く遊戯。その言葉に引っ掛かりを覚えたるうかは湖澄にそれを尋ねた。つまり、その遊戯とやらが一体いつから行われているのかということである。湖澄は少し目を細めて記憶を探るような表情を見せた後で答える。
「約150年だ。ちょうど向こうの世界で日河岸市が町として発展し始めた頃から“一世”達の遊戯は始まった。そして長い年月を経て“一世”が互いの世界をより魅力あるものにする、あるいは相手の世界を選ばれないようにするために様々な手段を用いながら、この夢と現実の世界は両立してきた。勿論、俺達“二世”は人間だから寿命が来れば死ぬ。その時はまた新しい“二世”が誕生し、“一世”達の動きを常に観察している」
「……あの、“一世”は……柚木さんや浅海さんは、もしかして150年……」
「……ああ、彼らはそもそも人間ではない。寿命などないに等しいし、そもそも生死という概念すらないのかもしれない。彼らは150年前からずっと同じようにこの遊戯を繰り返してきたんだ」
湖澄の話はるうかに衝撃を与えた。何しろ150年である。人間の一生を2回足した程の年月を延々と存在してきた“一世”達、そして彼らが行う“遊戯”とは一体何なのだろうか。そしてそれだけの年月をかけても決着がつかないのであれば、当然飽きもすることだろう。時が経つにつれてより過激な手段、非情な方法を使い始めても不思議はないのかもしれない。
るうかはいつか見た夢を思い出した。オセロと呼ばれるゲームに似た青緑色の升目のある盤面に並べられた両面が灰色の駒達。たとえ相手の駒に挟まれてひっくり返されたとしても結局色は変わらないまま、互いの陣地は増えもしなければ減りもしない。全く無意味なそのゲームはまるでこの夢と現実の世界で密かに繰り広げられている鈍色の大魔王と鼠色の大神官による遊戯を模しているかのようだった。
「どうして“一世”の2人はそんなことをしているんでしょうか」
るうかが呟くように問いかけた言葉に、湖澄は静かな顔で沈黙だけを返した。
それから2人はしばらく村を回ってから宿屋に戻ったが、夕刻を過ぎているにも関わらず頼成は帰っていなかった。1人留守番をしていた佐羽がるうかと湖澄を出迎え、微かに照れくさそうな笑顔を見せる。
「やあ、ごめんね。すっかり怠けちゃって」
「大丈夫だ。それより、頼成は一度も戻っていないのか?」
湖澄が尋ねると、佐羽はこくりと頷いて首を傾げる。
「そういえば珍しい組み合わせだね。頼成は別行動?」
「この村で流行っている病気っていうのは、身体の一部の“天敵”化だったんです。それで槍昔さんは自分の血から作った薬を持って村を回っているんです」
「……ふぅん、なるほどね」
るうかの説明を聞いた佐羽はわずかに眉尻を下げて複雑な表情を見せる。彼はベッドに腰掛けて足をぶらぶらさせながら、「そういえばさ」と話題を切り替えた。
「ただ待っているのも勿体ないから、ひと眠りしがてら1回向こうの世界に戻って緑さんにちょっと話を聞いてみたんだよ。そうしたら、やっぱり例の黒い蝶を作るには相応の知識と技術が必要だろうって。あと、彼も各地を回っていてどうやら虹色の女王の領地でもその黒い蝶が見付かったらしい」
「虹色の女王の領地で?」
湖澄は佐羽の言葉に反応して顔をしかめたが、るうかはそれよりもまず佐羽を問い詰めた。
「向こうに戻って、って。落石さん、怪我は?」
「ん、一応傷を縫ってもらって一晩入院っていうことになったけど、大したことないよ。大丈夫、病院を抜け出したりはしてないから。緑さんにはスマホで連絡取っただけ」
だからあんまり詳しい話はできていないんだけどね、と佐羽は小さく溜め息をついた。
「頼成が戻ったらそっちの話も聞いて、次は虹色の女王の領地に行ってみようよ。あそこは大神殿の影響が全く及んでいない地域だから、この事態にどう対処するのか分からない。それにあそこは……」
そこまで言って佐羽は言葉を切る。何と言おうか迷ったような間の後、彼はまぁいいやとベッドに身体を投げ出した。
「行けば分かる。湖澄、もしもの時は遠慮なくね」
「あまり物騒なことを言うな」
「命を大事にしないと罰が当たるよ」
「お前がそれを言うのか」
虹色の女王の治める土地。一度だけ話を聞いたことがあったが、るうかはそこが具体的にどのような場所なのかを全く知らない。ただ鈍色の大魔王が治めるこの辺りと鼠色の大神官が治めるアッシュナークの都を中心とした土地と異なり、“一世”の名を冠していない土地であることが少しだけ気になっていた。佐羽の口振りではどうやら何か危険のある土地らしい。一体どのような場所なのかと、るうかは黙って眉間にしわを寄せた。
執筆日2014/01/21