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「湖澄ぃー!」
「悪かった。続けてくれ」
「続けられるか! 大体、何か用だったんじゃないのかよ」
最悪のタイミングで部屋に入って、さらに無駄に冷静に謝罪を口にして立ち去ろうとした湖澄を頼成は無理矢理部屋に引っ張り込んだ。湖澄は湖澄で一体どういう神経をしているのか、顔色ひとつ変えずに静かな目で頼成を見ている。
「用はあった。が、お前と舞場さんが仲睦まじくしているのを邪魔するほどの緊急性もなかった」
「てめぇのその冷静さは時々佐羽の軽口以上に癇に障るな……」
「だろうな。ところで、本当に用件に入ってもいいのか?」
湖澄はるうかに向かってそう問い掛けた。るうかはすでに身支度を終え、どういうわけかベッドの上に正座をして姿勢を正しながらはいと頷く。考えてみればとても気まずい状況だ。何しろ血の繋がりはないとはいえ友人の兄に恋人とキスしているところを見られたのである。湖澄も見なかったふりでもしてくれればいいものを、わざわざ律義に自分の存在をアピールするかのごとく言葉を放ってから部屋を出ようとした。あれでは無視のしようがない。そして湖澄はやはり何の頓着もない様子で早速自分の話題を切り出す。
「さっき窓の外にいるのを見付けた。どうも、あまり良くないもののようだ」
そう言って彼がコートのポケットから取り出したのは、黒い蝶の死骸だった。るうかは一瞬びくりと震え、頼成は苦い顔をする。
蝶は大きく、翅を広げれば優に20センチメートルを超えそうだ。その翅はまるで切り絵細工のように緻密な紋様を描いており、一見すると禍々しくさえ思える。現実の世界で見るアゲハチョウなどとは全く異なる様相だった。
「良くないもの、っていうのは?」
頼成が蝶を見ながら湖澄に尋ねる。湖澄はわずかの間を置いた後で答える。
「これの翅に付着している鱗粉には変異原としての性質があるようだ」
「……何だって?」
頼成の声が凄味を帯びた。るうかは変異原とは何かと2人に尋ねる。
「向こうの世界では生物の遺伝情報に変化をもたらす作用を持つ物質またはその作用のことを言う。放射線などがそうだ。こちらの世界でも同じ意味で用いることがあるが、この場合は」
「人の細胞を“天敵”のそれに変える作用を持った物質だってことだろ」
湖澄の解説に頼成が結論を添える。るうかは驚き、黒い蝶の死骸を凝視した。よく見ればそれは薄いビニルのような透明の膜に包まれており、鱗粉が散らないように配慮されている。恐らくは湖澄の処置だろう。
「この世界にはそんな蝶がいるんですか」
るうかの質問に、湖澄が首を横に振る。つまりそれは人工的なものだということだった。
その時、部屋の扉がぎぃっと音を立てながら開いて寝ぼけ眼の佐羽がのろのろとした足取りで入ってくる。どうやら隣の部屋のやり取りの物音で目が覚めたらしい。彼は覚束ない様子で、るうかの座るベッドを中心に固まって話している3人をまだ半分閉じた瞳で見て口を開いた。
「あー……いきなりさ」
どすっ。
素早く危険を察知した頼成が佐羽にタックルを仕掛けて床に転がす。転がされた魔王はそのまま床で寝息を立て始めた。
「思ったよりも元気そうだな」
そんな佐羽を見て湖澄が言い、呆れた様子で溜め息をつく。頼成は肩をすくめながらたった今自分で寝かしつけた悪友を揺り起こす。
「おら、起きろ。変異原の特性を持った蝶だってよ。この村の奇病と何か関係ありそうじゃねぇか。さっさと調べに行くぞ」
「……変異原の蝶、ねぇ。そういう陰険なのを作りそうなのは鼠色の大神官だけど、彼の専門は人文科学……バイオテクノロジーもプログラミングも彼1人ではそうそう簡単にはできなさそう……」
むにゃむにゃと寝言のような調子で分析を述べる佐羽に、湖澄は小さく頷いて頼成を見た。
「同感だ。手法としては鈍色の大魔王の方がこの手のものには通じているだろう。だがこの世界でそれを扱う理由を持つのは浅海柚橘葉の方だ」
「それは今考えても分からねぇだろうな。とにかく、その鱗粉で被害が出ているかどうかを確かめるのが先決でしょうよ」
頼成はそう言いながらさっさと身支度を整える。湖澄は一瞬何かを言いたそうに頼成を見たが、結局何も言わずに足元に転がっている佐羽をブーツの爪先でつつく。
「起きろ、佐羽」
「んー。調査はいいけど、それで俺が出ていったら面倒なことにならない? そんな悪魔みたいな蝶、まるで魔王の仕業みたいじゃない」
佐羽は一応身を起こしながらもそんなことを言って渋る様子を見せた。湖澄はわずかに首を傾げ、頼成を見やる。頼成は溜め息をつきながら肩をすくめた。
「一理あるな。面倒になるよりはここで寝ててもらった方がいいかもしれない」
「……どうせ俺は破壊以外に能のない魔王だからね。君達が呪いの効かない聖者になってしまった以上は他に出番もない。だから悪いけどもうひと眠りさせてもらうよ」
そう言いながら佐羽は大きな欠伸をひとつ残して隣の部屋へと戻っていった。隣の部屋の扉が閉まる音を聞いた後、湖澄が厳しく眉をしかめて呟く。
「やっぱり、あれで精神的にはそれなりにダメージを負っているようだな。少し休ませるべきだろう」
「それはそれで、悪い傾向じゃねぇだろ。……じゃ、俺達は村の様子を見に行きますか」
頼成の一言を皮切りに、3人は宿屋の外へと出発した。
夜明けを迎えたばかりの村は思ったよりも賑やかだった。この村では朝摘みの薬草の栽培が盛んだそうで、皆せっせと畑に出て仕事をしている。るうか達はそんな村人の1人に声をかけた。
「仕事中に悪いが、最近この村で妙な病気が流行っているって聞いてきた。何か知っているか?」
挨拶もそこそこに本題を切り出した頼成に、40代程に見える村人の男性はひどく顔をしかめて頷いた。彼の話によると、その病は1週間前辺りから急に村に広まったのだという。しかしどういうわけか彼はその病が具体的にどういうものであるのかを語ろうとはしなかった。
「患者はどの程度の数いるんだ」
湖澄が尋ねると、50人程度という答えが返ってくる。るうかは驚いて辺りを見回した。イナト村は本当に小さな村で、家もまばらに10軒程度しかない。それで患者の数が50人に上るということは、つまり。
「なるほどな。村人のほとんどがその病に罹っているってわけか」
「あんた達は神殿から来たのか」
男が頼成に尋ねた。その目はるうか達を探るように、そしてどこか怯えているようにも見えた。
「それなら神殿に伝えてくれ。村は大丈夫だと」
「大丈夫? どういう意味だ」
「放っておいても問題ないってことだ。幸い、この近くには他に村もない」
そう言うと男は自分の着ていた上着を突然脱いでみせた。そしてるうか達は言葉を失う。
彼の身体、左胸の下辺りに赤くうごめく肉の盛り上がりがあった。それは男の意思とはまるで関係ないように勝手に動き、時折近くの皮膚を引っ掻くようにする。赤い肉の縁に接する皮膚はわずかに黒ずみ、肉の中に取り込まれていっているようにも見えた。男は自分の胸元を見下ろしながら寂しそうに言う。
「なんでこんなことになったのか。あんた達なら分かるんだろう? これはあの、“天敵”と同じものなんだろう」
「間違いないだろう」
答えたのは湖澄だった。彼は厳しい表情をしながらもゆっくりと男に向かって言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「それはあなたの元からある皮膚や筋肉の細胞が異形化して“天敵”になりつつある状態のものだ。このまま放置すればやがて全身に広がり、あなたを完全な“天敵”にしてしまう可能性のある病巣だ」
「やっぱりな。村に薬師がいて、そいつの見立てでもそうだったんだ。そう遠くないうちにこの村は“天敵”だけの村になる。そうなれば後は食う物がなくなって終わりだろう。何しろ“天敵”は人間しか食べないんだからな」
「確かに、放置すればそのような事態になる可能性は大きい。だが、今のうちであればその症状は治療可能だ」
「何だって?」
湖澄の言葉に男が顔を上げた。その目が縋るように湖澄と、そして頼成を見る。
「あんた達は治癒術師なのか? でも治癒術でも“天敵”になるのを防ぐことはできないんじゃないのか」
「確かに、治癒術はむしろ“天敵”になることを促進する。だが患部を切除すればそれ以上の細胞の侵食は食い止められる」
かつて湖澄が輝名の左腕を斬り落としたように。湖澄の話を聞き、男はあからさまに落胆した様子で肩を落とした。
「切る、のか。こんなところを切ったら死んでしまうんじゃないのか」
「細胞の異形化がどの程度の深さまで進んでいるかによる。皮膚だけであれば切除も治癒も容易だ。だが、もし内臓器官にまで侵食が進んでいれば生命の維持に支障をきたす恐れもある」
湖澄の語り口は淡々としていて、男は黙ってそれを聞く。彼は今何を思っているのだろうか。
「俺の女房も子どもも同じ病に罹っているんだ。女房は両手が、子どもは右足がおかしくなっている。あいつらの両手や足を斬り落として、そうやって生き延びろっていうのか。それならいっそ全員で“天敵”になって飢え死にする方がましなんじゃないのか」
男はぼそぼそと呟くように言い、再び俯く。そこへ頼成がすっと自分の右手を差し出す。
「そんな残酷なことは言わねぇよ。こいつが言ったのは、一番一般的な対処法だ。やり方は他にもある」
「他に?」
「これだ」
そう言った頼成の右手にはいつの間にか青緑色の液体で満たされたガラスの小瓶が載っていた。彼はその蓋を開けると、粘性のある液体を手にすくって男の胸に塗る。青緑色の液体は赤い肉に吸い込まれるようにして沁み込んでいった。そして変化はすぐに現れる。
うぞうぞとうごめいていた肉の表面がどす黒い色に変わり、ぼろぼろと砕けて地面に落ちていった。後には真新しいピンク色をした皮膚が覗き、それも見る間に周囲の皮膚と変わらない色へと落ち着いていく。
「ほら、これでもう大丈夫だ」
頼成が言うと、男は信じられないという顔で彼を見上げた。
「なんだ!? 一体その薬は何なんだ!? “天敵”になるのを止められるなんて、そんな薬があるのか!?」
「悪いが、その辺の説明はなしで済ませてくれ。それより早くあんたの奥さんと子どもの所に案内してくれるか? 患部が広がらないうちに」
ああ、ああ、と男は呻くように頷いて頼成の手を取り駆け出した。後を追おうとしたるうかを湖澄が引き留める。
「ここはあいつに任せよう」
「でも……あれって、槍昔さんの血なんじゃ……」
石化した治癒術師や賢者は勇者の血によって癒される。そして癒された治癒術師や賢者の血液には異形化した細胞を死滅させ、元の人間の細胞の増殖を活性化させる働きがある。それがあの青緑色の液体の正体であり、かつて“天敵”となった治癒術師“るうか”を復活させたのも同じ液体だった。湖澄はるうかの指摘に頷きながら付け足す。
「恐らく、自分の血液にさらに治癒術の効能を付加したものだろう。身体の一部だけが“天敵”化している患者に対してはまさしく特効薬だ」
「……槍昔さん、いつの間にそんなものを用意していたんでしょうか」
「さあな。……舞場さん、俺達は黒い蝶のことを少し聞き込んでみよう」
湖澄はどこか突き放す調子でそう言って頼成達が向かったのとは別の方角へと歩き出した。
執筆日2014/01/21