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その夜は熱帯夜だった。夏用の布団ですら暑くてかけていられず、るうかは薄手のパジャマひとつでベッドに横たわる。昼間の熱気が残る室内はむわりとして、るうかの頭の中までも熱に冒されそうだった。
夢に落ちれば危険と隣り合わせの世界がるうかを待ち構えている。そうと分かっていて夢を見続けることを選んだのはるうか自身であり、今もその決心に揺らぎはない。
揺らぐのは夢と現実の境目だ。るうかが勇者として戦うことができるのは彼女にとっての夢の世界の中だけであり、現実には彼女には何の力もない。しかし危険は決して夢の中ばかりにあるわけでもない。るうか自身、浅海柚橘葉に狙われる以前にも自転車で事故を起こしている。それも危険と言えば危険だ。そして今日の佐羽である。彼は“一世”である阿也乃の駒としてこの世界に絶望の種を蒔いている。その結果としての287という数字以上に、彼は他人を傷付け、そして恐らく自らも傷付いている。そのことが見えなくなるほどに繰り返し、繰り返し傷付け合ってきたのだろう。彼にとっての夢は向こうの世界よりよほど残酷なのかもしれなかった。
やがて寝苦しい夜にも睡魔が訪れる。ゆるゆると引き込まれていく眠りの海の中で、るうかは誰かの怒鳴る声を聞く。誰かが叫んでいる。怒っている。泣いている。それが誰なのか分からないまま、るうかの意識は現実の世界を離れた。
目を覚ませば隣のベッドで眠っている頼成の姿が見えた。窓から見える空はまだ暗く、るうかは自分がいやに早く目を覚ましたことを知る。いつもであれば誰よりも早く起きて鍛錬をしている頼成がまだ寝息を立てているような時間だ。るうかはもう一度寝ようかと考えて、やめた。
今るうかと頼成、そして佐羽と湖澄の4人が滞在しているのは鈍色の大魔王の領地にある小さな村だった。イナトと呼ばれるその村では近頃奇妙な病が流行り始めたのだという。その情報を大神殿の輝名から得た4人は多忙な彼の代わりに調査に赴いたというわけだった。
るうか達が村に入ったのは昨日の夕刻だった。田舎の夜は早く、すでにどの家も戸締まりを終えていたためにひとまず宿屋に泊まり、朝を待ってから情報収集をすることにした。村にただ1軒ある宿屋は小さな2人部屋が4つあるだけの本当に簡素な宿で、るうか達以外に客もいなかった。4人は2部屋をるうかと頼成、佐羽と湖澄という割り当てで使うことにし、早々に眠りについた。この部屋割りは湖澄が一行に加わって以来ほとんど変わったことがない。かといってるうかと頼成の間にもやはり未だにほとんど何もないのだが。
るうかはベッドの端に腰掛け、眠る頼成の横顔を見つめる。普段は厳しいその眼差しも、閉じてしまえば可愛いものだ。凛々しい眉はどういうわけかわずかにひそめられている。何か良くない夢でも見ているのだろうか。るうかはそうっと立ち上がり、彼の顔を上から覗き込んだ。
ただそれだけで胸にこみ上げてくるものがある。一体いつから自分は彼をこれほど愛しく思うようになったのかと、るうかは自分の頭を抱えたくなった。恋だの愛だの、そんなものは自分とは関係のないものだと思っていたのに。
頼成を守りたいと思う。その身は勿論、思想や願いを守り叶える手助けをしたい。彼が満たされて心から安らぐことのできる居場所になりたい。るうか自身にはまだそれだけの自信はないが、いずれそうなれるようにいつも彼の傍にいたかった。本当はもっともっと彼に触れて、その心を確かめたかった。
向こうの世界では熱帯夜だが、こちらの世界は穏やかだ。それでもるうかの頭は徐々に熱に浮かされ、ぼうっとしてくる。たとえば今その眠る唇にそっと触れたなら、彼は目覚めて彼女を抱き締めてくれるだろうか?
「槍昔、さん……」
薄暗い部屋に差し込むわずかな朝焼けの光が頼成の右頬を照らしていた。るうかはそこにそっと自分の右手を当てる。微かに感じる感触は、昨日伸びた分の髭だろうか。頼成の肌は滑らかだがやや表面が硬い。何度も日に焼けて厚くなった皮膚の感触を楽しむように頬を撫でる内、るうかは急に恥ずかしくなってきた。一体自分は何をしているのだろうか。
我に返ったるうかが頼成の上から離れようとしたとき、力強い腕がるうかの身体を包むように抱きとめた。るうかはそのまま頼成の身体の上に体重を預ける形でのしかかってしまう。
「や、槍昔さん! 起きてたんですか」
「あんたに起こされたんだよ」
いつもよりどこか意地悪そうに笑って、頼成はるうかを抱く手に力を込める。重いですよ、とるうかが言うと頼成は「なめんな」と答えた。
「あんたの1人や2人くらい軽いもんだ。そりゃあ勇者には敵わねぇが、俺だって一応肉体派なんだぞ」
「肉体派の聖者ですか……」
その響きでるうかの頭に思い描かれたのは、妙に筋肉を誇示するようなむきむきとした体躯に神官が着るようなローブをまとった男の姿だった。正直にいうと気味が悪い。
「あんまりいないですよね、肉体派の聖者って」
「まぁ、そうかもな。でも湖澄もあれで相当の使い手だぞ」
それはるうかもここしばらく共に旅をしているのでよく分かっている。湖澄は普段ほとんど魔法を使わず、剣のみで戦うことが多い。そして恐らくその腕前は並の戦士では相手にならない程に鍛えられている。
「それにしても、あんた今日は随分早く起きたんだな。まだ寝てたっていいんだぞ。どうせ佐羽もまだ起きてこないだろうし」
そう言いながら頼成はるうかの身体を自分のベッドに横たえ、自分は彼女のために少し端に寄る。同じベッドの上で、とても近い距離で見つめ合いながらるうかはわずかに眉をひそめた。
「落石さんは……大丈夫なんでしょうか」
「向こうでの怪我はこっちにはそれほど影響ないでしょうよ」
「それもありますけど、それだけじゃなくて」
るうかは背中に頼成の手の温もりを感じながら、わずかに身を丸めるようにして言葉を紡ぐ。
「刺されても全然動揺していないみたいでした。当然だって笑っていました」
「……もう何度目か分からないからな。慣れてるのは本当だろう」
「慣れるものですか。慣れていいものですか」
「慣れなきゃ、ゆきさん直属の魔王なんてやっていられない」
そう言うと頼成はるうかの頭を自分の胸元へと抱き込む。そして囁くような声で言った。
「俺は慣れることができなかった。だから全部佐羽に任せて逃げた」
「……え?」
「世界に絶望の種を蒔く非道をやっていた時期が俺にもあった。ゆきさんには拾ってもらった恩もあったし、あっちの世界で自分が何をすればいいのかも分からなかった。人を騙して、破滅に追い込んで、そうやっているうちに恨みを買って……俺はそれに耐えられなかった」
ぎゅっ、と頼成の腕に力がこもる。それはそうだろう。彼の性は人を救う方に大きく傾いている。破壊を楽しむことのできる佐羽とは異なる彼に、その仕事は荷が重すぎたことだろう。るうかは頼成の胸の中でその厚い胸板にそっと自分の頬を付けた。
「どうして落石さんはそれを続けているんでしょうか」
「最初は自棄だったのかもしれない。俺も、できることならあいつを止めたい」
「槍昔さんでも止められないんですね」
「あいつはゆきさんに随分気に入られているからな。それを手放させるには……どうすればいいのか、俺にも分からない。俺に何ができるのかも」
可愛いものを愛で、壊すのはまさに快感だ。病み付きになる。阿也乃は以前そう言っていた。そして佐羽はもう充分に壊れているとも言っていた。しかし、るうかはそうは思わない。確かに彼は向こうの世界で随分と壊れた生き方をしているが、それはそれ以外にするべきことを知らないからのように思える。頼成が治癒術の鍛錬のために薬学を学ぼうとしたように、彼自身にも何か目的や思想があればきっとそれも変わってくるのだろう。
「私達といるときの落石さんはとても普通の人なのに」
るうかが言うと、頼成も頷く。
「そうだな。多分……俺もだが、あんたがいるとすごく落ち着くんだ。あんたの前で真っ当な人間でいることが大事だと俺も佐羽も思ってる。俺にとってもあいつにとっても、あんたはやっぱり特別なんだよ」
そう言って頼成はるうかの頭のてっぺんに口付け、その髪を柔らかく撫でる。慈しむような触れ方にるうかは思わず身を任せそうになる。愛されていると感じる。それは少しだけ悔しく、そしていやに甘ったるい感覚だった。
「るうか」
頼成も同じように感じたのだろうか。彼はるうかの名を呼びながらその顔をそっと自分の方へと持ち上げる。そして小さな声で「キスしていいか?」と尋ねた。るうかは一瞬沈黙し、それから少しだけ視線を逸らしながら答える。
「それくらい、いちいち聞かなくてもいいです」
「そうか?」
「いつもは聞かないじゃないですか」
「……そうだっけか?」
頼成の声がわずかに揺れた。そしてその動揺を覆い隠すかのように彼の唇がるうかのそれを包み込むように触れる。朝から何をしているのだろうと思わなくもないるうかだったが、現実の世界では今は夜だ。それなら別に何も問題はない。いや、勿論ただの言い訳にすぎないことは充分に理解した上でそうやって恥ずかしさから思考を逸らしているのだが。
がちゃり。
不意に扉が開く音がする。一瞬気付かなかったるうかの耳に届いたのはとても平坦な声音の一言。
「……すまない」
がちゃん。
扉が閉まる音と同時に頼成が跳ね起きてたった今閉められたばかりの扉を蹴り飛ばさんばかりの勢いで押し開けた。
執筆日2014/01/21