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「何回目かな」
緑を待ちながら佐羽がぽつりと呟いた。地下街からエスカレーターを使って地上に上がり、アーケードのある商店街の端に座り込んだ彼はふふ、と無表情のままに笑みを漏らす。
「俺もね、なんでこんなことやっているんだろう……って思う時はあるんだよ。向こうの世界で“天敵”を相手にしている方がよっぽどましだなぁ、って」
るうかは彼の隣に屈み込み、その独り言のような台詞を聞いていた。にひゃくはちじゅうしちにん。そう言って佐羽は静かな瞳でるうかを見詰めた。るうかは弾かれたように彼の顔を見て、そこで失敗を悟る。佐羽は額に脂汗を滲ませながらにっこりと笑った。
「ゆきさんに聞いたよ。聞いたんでしょ? 287人、俺がこれまでにこの世界で殺した人の数」
「……殺した」
「自殺されちゃった、が正解だけどね。でも原因を作ったのは俺。他にも要因はあっただろうけど、決定打を叩きつけたのは俺。そうやって、誰かを絶望の淵に突き落としてきたんだ」
だからこのくらいの報復は甘んじて受けることにしているんだ。そう言う彼の背中に刺さったままの小さなナイフが、彼には物足りないようだった。彼は自分のしてきたことに罪悪感を覚えており、報いを受けることに安心を感じているらしい。るうかは耐えきれなくなり、ハンカチで彼の額の汗を拭った。
「柚木さんの命令でそうしたんですか」
「最初はね。……でも、途中からは分からなくなったよ。慣れちゃうとそれが当たり前になってくる。怖いよね。弱みのありそうな女性に近付いて、口説いて、付き合って、そうしてさ……彼女が死にたくなるくらいに酷いやり方で捨てるんだ。それが俺の……この世界での生き方になっているんだ」
日常になっちゃっているんだよ。そんな恐ろしいことを佐羽はさらりと口にする。るうかは思わず反論した。
「それは生き方って言わないです」
「……ん、そうだね」
「落石さん……」
「ねぇ、責めてよ。るうかちゃん、俺を人でなしって罵ってよ。さっきの子みたいにさ。君に言われたらきっとすごく痛いと思うんだ。そのくらいされないと、俺、ずっとこのままだよ」
佐羽はふわりと笑いながらも哀願するようにるうかを見上げた。鳶色の瞳がうっすらと涙で煌めいている。それはまるで罪人が神に懺悔するような表情で、神でも何でもないるうかには答えを返すことすらできなかった。ただ、どういうわけかそのときの佐羽がまるで頼りない小さな子どものように見えて。
「落石さんが自分で逆らわないと……変わりませんよ」
そう言いながらるうかはそっと佐羽の腕を握る。佐羽はるうかの目を不思議そうに見つめ、それから少しだけ悲しそうに俯いた。
「そうだね。そうなんだけど、俺自身……逆らう気にはならないんだよ」
「死なせたい、わけじゃないんですよね……?」
「……どうかな」
佐羽は上を見た。アーケードの端から覗く空は青く、そこを見ていて分かるほどの速さで雲が流れていく。強くなってきた風は生温いまま商店街を通り抜けていく。ほつれた佐羽の亜麻色の髪がさらりと彼の肩に落ちた。
「多分、俺は何も考えてないんだろうね。それでいて綺麗で可愛くて必死に生きている人を死なせている。酷い話だって自分でも思うよ。でもなんだか現実感はない」
「それは、落石さんがこっちの世界の生まれじゃないからですか」
「るうかちゃんは向こうの世界でもいつも誰かを救おうとしていた」
だから違う。佐羽はそう言って一度細く息を吐き出す。
「どちらの世界で生まれたとか、現実だとか夢だとか、そういう問題じゃないんでしょう。現に頼成はこっちの世界でもすごく普通に……当たり前の若者みたいに暮らしている。そうすることができている。だから頼成は君を幸せにできる」
「落石さん」
るうかは強い声で佐羽を呼んだ。彼を責めたいわけではない。その非道をなじりたいわけでもなければ境遇に同情したいわけでもない。ただ佐羽がこの世界にいる彼自身のことを何とも思っていないように見えることが気になったのだ。まるで実体のない幽霊のように、彼は彼自身の存在をひどく軽んじている。
まるで真夏の太陽に焼かれた空気が揺らめき立ち上る陽炎のように。
「落石さん」
るうかはただ彼の名を呼び、その腕を強く掴んだ。佐羽がるうかを見る。そして彼の手がどこか恐々とした様子でるうかのその手に触れた。
「熱い手だね、るうかちゃん」
「落石さんだって熱いですよ」
佐羽の座るタイルの上には小さな血溜まりができている。大気と日光に熱されたタイルの上で、赤い血はあっという間に茶色に変色して生きた色をなくす。佐羽がまたわずかに俯いた。左耳のピアスが揺れ、前髪が一房額に落ちる。すっかり精彩を欠いた彼の容貌はまるで全てに希望を失った、死の淵に立つ人間のようだった。るうかはそっと彼の頭に手を置く。よく頼成がるうかにそうするように。
優しくなんてされたくないよ。佐羽は掻き消えそうな声でそう言った。るうかはそれを無視した。
「不思議ですね」
代わりにるうかは呟くように言う。
「柚木さんに教えられたときはとても怖かったんです。でも改めて落石さんの口から聞いたら、全然印象が違いました」
「……それって」
「287人。……落石さん、全員のことを覚えていますか」
佐羽は黙って微笑み、首を横に振った。きっと彼女達はただ佐羽という存在に触れ、翻弄され、そして流されるように死を選んでいったのだろう。佐羽はあくまで彼女達から死を引き出すための触媒だった。彼は287人の死に触れても何も変わらず、それ以上の誰かを不幸にしても、そしてその報復のために自分が傷付けられようともやはり何も変わらないのだった。
佐羽の目に映るこの世界はきっととても実感の薄い、陽炎のようなものなのだろう。彼にとって鮮やかに目に留まるのは頼成やるうか、そして阿也乃や緑といった向こうの世界とも関わりのある面々だけなのかもしれない。
るうかがそこまで考えた時、2人のすぐ近くの車道に見覚えのあるダークシルバーのスポーツセダンが停まった。運転席にいる緑色の髪の青年を確認して、るうかは佐羽に肩を貸して彼を立たせる。運転席から降りてきた緑が後部座席のドアを開け、佐羽をそこにうつ伏せに寝かせた。
「るうかちゃん、ありがとう。後は僕に任せてね」
緑はいやに爽やかにそう言うとさっさとドアを閉めて運転席に戻り、車を発進させた。るうかには礼を言う暇すら与えられなかった。
半ば茫然としたまま地下鉄駅まで降り、改札を抜けてホームへと降りる。ちょうど上りの電車が出たばかりのようで、ホームにはたくさんの人が溢れていた。しかし今のるうかには流れゆく人波がまるで砂のように感じられた。温度を持たないそれらはさらさらと過ぎ去るばかりでるうかに何の影響ももたらさない。
ああ、もしかすると佐羽が感じているこの世界はそれと似たようなものなのだろうか。自分には関係のないものばかりで溢れた幻影のような景色。それが佐羽の目に映るこの世界なのだろうか。だとすればそれはるうかにとっては小さな痛みを伴う事実でもあった。彼女は自分の生まれたこの世界に愛着を持っている。
「……るうかっ!?」
突然、はっきりとした色と質量とを備えた声がるうかを呼んだ。パッと顔を上げたるうかの前にはどういうわけか息を切らせた頼成がいる。今日はゼミのはずじゃ、と言いかけたるうかの肩をむんずと掴み、彼は怒鳴るように尋ねてくる。
「佐羽は!? 緑さんから電話が来て、佐羽が刺されたって……あんたから電話があったって、それで」
「お、落ち着いてください槍昔さん」
汗だくの頼成に両の掌を向けて、るうかはどうどうと彼を宥める。そして佐羽がすでに緑の運転する車に乗って、恐らくは病院に向かっただろうことを告げた。頼成はそれを聞いてやれやれといった様子で頭を振る。
「あの馬鹿……何回目だよ」
「……あの、そんなに何度もこういうことがあったんですか」
恐る恐る尋ねたるうかに、頼成は苦い顔で頷きを返す。「それでもあいつはやめないし、俺が何を言っても聞きやしない。だから、きっとあいつも」とそう言って彼は不意に黙る。
「槍昔さん?」
「……るうか、あいつあんたに何か言ってたか?」
頼成は真剣な瞳でるうかを見詰めていた。ホームのアナウンスがじきに下りの電車が到着することを告げる。再び混雑し始めたホームの端で、るうかはじっと佐羽との会話を思い出した。
「私に罵ってほしいって言っていました。でも柚木さんに逆らう気はないって。この世界が現実だとか夢だとかは関係ないって。あとは……槍昔さんは私を幸せにできるって」
「……俺が?」
ふっと頼成の表情が曇った。そこに電車が滑り込み、停まる。人の波が2人の脇をすり抜けて並ぶ箱の中に吸い込まれていく。そうして電車が2人を置き去りにホームを去り、取り残された空間で頼成は小さく笑った。
「佐羽の奴も、もう少し俺達の気持ちってやつを分かっちゃくれないもんかね。こっちがどれだけ心配しているのか……毎度毎度、駆け付ける俺の身にもなってみろっての」
「毎回駆け付けているんですね」
「当たり前だろ」
そう言い切って、頼成は鋭い瞳を細めながら苦く笑う。
「あいつは俺にとって間違いなく一番の悪友で相棒だからな」
その言葉にるうかは本当に微かな嫉妬と羨望を覚えた。だから、そこに秘められた頼成の心の奥底までは読み取ることができなかった。
執筆日2014/01/09