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とん、と優しくるうかの身体が床の上に降ろされる。がちゃり、と扉を閉めて鍵を掛ける音がした。ご丁寧にチェーンまで掛けて、それからやっとるうかの目隠しと口を覆っていた手が外される。
「手荒な真似して悪かった」
開口一番、るうかの背後に立つ頼成はそう言って自分の罪を詫びた。るうかは思わず吹き出しそうになりながらも目尻から一筋の涙を零す。やっと会えたという感動と、乱暴に扱われたことへの不服と、それでも途中からその上着や手の感触や匂いに覚えがあることに気付いて安心していた自分への可笑しさが一緒になって、るうかから声や言葉を奪う。
何も言えない。
振り返って頼成の顔を見ることさえできずにるうかはただ俯いて小さく息を吐き出した。膝がわずかに震えている。そしてるうかは誘拐もどきの格好でさらわれてもなおその手から離さなかったビニル袋を背後の頼成に向かって差し出した。
「呑気ですね」
思わずそんな言葉が口をついて出る。何が旅行雑誌だ。何がいちごミルクだ。人がこれだけ必死になって捜している間に何を呑気にコンビニエンスストアで雑誌の立ち読みなどしているのか。しかも雑誌の表には『絶品! 苺スイーツのお店100選!』やら『デートならここ! 秋の名所特集』やらの浮かれた文字が踊っている。頼成は顔の見えないるうかからビニル袋を受け取ると、んん、と何とも言えない頷きを返して寄越した。
「まぁ……とにかく上がって。何もねぇところだけど」
頼成本人の言う通り、そこは何もないアパートらしき1室だった。頼成が下宿している部屋よりさらに狭く、壁などはコンクリートが剥き出しになっている。しかし見ればユニットバスに洗濯乾燥機、簡易キッチンに冷蔵庫と生活に必要なものは一通り揃っているようだった。床には申し訳程度の灰色の絨毯が敷かれ、窓際の壁に押し付けられるようにして小さめのベッドが置かれている。窓には遮光性の高いスクリーンが引かれており、外の様子は見えない。
「こんな所に……隠れていたんですか」
相変わらず頼成の顔を見ないままるうかは言った。まぁそうです、と頼成が答える。るうかは靴を脱いで部屋に上がった。わずかにひんやりとした感触が足の裏から伝わってくる。るうかは部屋の真ん中に立ち、やっと頼成の方を振り返った。
頼成もまた靴を脱ぎ、部屋に上がってくる。そして洗濯機のある小さな部屋からタオルを2枚取ってくると、1枚をるうかに渡した。
「汗、拭いたら?」
「……」
るうかは言われた通りに顔や首筋を伝う汗を拭う。頼成も同じように汗だくの首の辺りを拭いていった。拭き終えて、頼成が2枚のタオルを洗濯機に放り込んで戻ってきて、それからやっと2人は改めて向かい合う。
「まさかあんなところであんたに会うとは思わなかった」
頼成は弱った様子でそう言い、るうかも頷きを返す。るうか自身、まさかあそこで本当に頼成を見付けることができるとは思っていなかったのだ。ただ何の手掛かりもない中に届いた1通の奇妙なメールがるうかを彼の元まで導いてくれた。そこでるうかはふと思い付いて頼成に尋ねる。
「あの、槍昔さん。もしかしてうちのお墓に行きましたか?」
「……」
頼成は一瞬何とも言えない表情を顔に浮かべ、それから気を取り直したようにこくりと頷いた。さらに詳しく話を聞いてみると一昨日の昼間に1人で行ってきたらしい。あの花はやはり頼成が自分の通う大学の敷地から失敬してきたもので、名はケイトウというのだそうだ。
「ほら、あんた言ってたろ……あそこにはあんたの双子の弟がいるんだって。だからこの先、あんたに何かあったとしても守ってやってほしいって、そんなことを頼みに行った」
「……じゃあ、私をあのコンビニまで連れて行ってくれたのはきっと倖多なんですね。意味分かりますか? 倖多はあなたにこう答えたんです。『自分の彼女くらい自分でしっかり守れ』って」
「参ったな」
そう言うと頼成は手に持ったままだったビニル袋をベッドの上に置き、キッチンからコップを1つ取ってくる。そして冷蔵庫からアイスコーヒーの入ったペットボトルを取り出すと、氷と一緒にコップに入れてるうかに渡した。そして自分はベッドに腰を下ろしていちごミルクのパックを開ける。白とピンクの可愛らしいパッケージに入った甘ったるい飲み物を顔色ひとつ変えずに飲む強面の青年というのがどうにも奇妙で、しかしそれより何より手に持った冷たいコーヒーの感触が心地良くて、るうかは黙って頼成の隣に座るとコップに口をつけた。よく冷えたコーヒーが火照った身体を気持ちよく冷ましていく。頼成は少しの間そんなるうかを見ていたが、やがてずず、と少しだけ音を立てていちごミルクを飲み切った。思わずるうかは言う。
「早いですね」
「そうか?」
「かなり甘いですよ、それ」
「まぁな。って、飲んだことあるの?」
新製品なのに、と呟く頼成の顔の上で黒いフレームの眼鏡が少しだけずれる。おっと、と言いながら彼は眼鏡を外して枕元に置いた。
「眼鏡、変装のつもりですか?」
「いや、俺遠視だから本を読むときは掛けてることが多い。まぁちょっとは変装のつもりもあったけど」
「そうだったんですか」
いちごミルクはともかく、眼鏡を掛けた頼成というのはるうかにとって新しい発見だった。試験の前にるうかに勉強を教えてくれた時には掛けていなかったので、それほど視力が悪いというわけでもないのだろう。ただ、旅行雑誌の細かい文字を読むにはそれが必要だったということか。
あまり会話らしい会話もないまま、るうかはアイスコーヒーを飲み終えた。カラン、と溶け残った氷が軽やかな音を鳴らす。るうかはコップを意味もなく振ってみた。カランカラン、と単純な音が心地良く鳴る。糖分の入っていないコーヒーは苦く、しかしるうかの好みには合っていた。
「槍昔さ……」
呼び掛けようと隣へ顔を向けたるうかは思った以上に近くにあった頼成の顔に驚く。そしてあろうことか、頼成はそのままるうかの頭の後ろを抱え込むようにして抱き寄せるとその唇に彼自身の唇を押し付けてきた。
これまでの彼の様子からは考えられない程に強引なキスだった。るうかは心なしか眩暈を覚える。長く続くキスに呼吸が苦しくなり小さく唇を動かすと、驚いたことに頼成はそこに自分の舌をねじ込んできた。
まさか、と思って目を見開くるうかと頼成の視線が絡み合う。頼成は怖い程に真剣な目でるうかを睨んでいた。怒らせたのだろうか? るうかが彼を捜しに来たことで、そして見付けてしまったことで、彼を怒らせてしまったのだろうか? だからこれほど強引で遠慮のないキスをしてくるのだろうか。それこそ訳が分からない。
頼成の舌がるうかの口の中をぐるりと舐め回す。悪寒のような、違うような不可思議な感覚がるうかの背を駆け抜け、彼女は思わず目を閉じて身を震わせた。頼成がゆっくりと唇を離す。
「にっが……」
「な……な、に、する……です……」
ふらり、とるうかの身体が傾く。手に持ったままのコップが滑り落ちて床に転がり、絨毯にわずかにコーヒーの色の混じった染みを作る。るうかはぐるぐると回る視界にただ頼成の目だけを見つめていた。彼はゆっくりとるうかの身体をベッドに横たえると、その上に覆い被さるようにしてもう一度、今度はごく軽いキスをする。
「悪い」
彼がそう呟いた。それを聞いたのを最後にるうかの意識はその場からふっと離れていった。
次に気が付いたとき、るうかはネグノスの里にいた。夜空に星の煌めく様子が草ぶき屋根の隙間から覗いている。そんな宿泊所で身を起こした彼女は自分がどうしてここにいるのかと一瞬だけ思い悩む。そして頼成の部屋で眠ってしまったことを思い出し、さらにその不自然さにも気が付いた。
なるほど、と彼女は1人で頷く。どういう手段だったのかはよく分からないが、きっと彼女は彼によって眠らされたのだ。ならばその行為には彼なりの理由があって然るべきだろう。そしてるうかは他の者を起こさないようにそっと宿泊所を出た。先日の戦いで左肩に受けた傷がまだ少し痛む。
里の中では一番高い小さな丘の上に行くと、そこにこちらの世界での服装をした頼成が待っていた。彼はやってきたるうかを見てすまなそうに目を伏せた後で口を開く。
「殴っていいぞ」
「そうですね」
やり取りは恐ろしく短かった。るうかは渾身の力を込めて右拳を頼成の顎に叩き込む。そして耐えきれずにその場に膝をついた頼成の顎をぐいと持ち上げ、その唇に力任せのキスをした。
「お返しもついでにしておきました」
「……」
痛みのせいか何のせいか、頼成は茫然としてるうかを見上げている。やがてその瞳に薄く涙が浮かんだ。
「参った……」
「痛かったですか」
「違う。俺は……本当にあんたが好きだ」
頼成の腕がるうかを引き寄せ、優しくその身体を抱き込む。るうかは彼に言いたいことがたくさんあった。しかしそんな風に抱き締められては何も言えなくなってしまう。ただ、それでもどうしてもこれだけは言っておかねばと思って彼女は彼の腕の中で呟く。
「もう会えないんですか」
「……」
「それだけは、嫌です。私だって槍昔さんのことが好きなんです。何をしてもらっても、それで会えなくなるんじゃ意味がありません。寂しくて死んでしまいます」
るうか、と頼成はとても辛そうに彼女の名前を呼んだ。きっと彼も彼女と同じことを思っているのだろう。それでもるうかを守るためにはその方法しかないと考え、決断したのだろう。自分の寂しさや罪悪感の全てをるうかのために耐えているのだろう。どうしてそれをるうかと共有しようとは考えなかったのか。
「私は……知っています。だから、全部抱え込まないでください。会えない寂しさも少しなら我慢します。でも、このままさよならは嫌です」
「だが、あんたは……向こうじゃあくまで普通の女の子だ」
「そうです。私には向こうの世界では何の力もありません。だから……だから一緒にいられないっていうのも、分かる、気がします。でも」
るうかは思い出す。佐羽を救うために暴力団を相手に大きな銃を乱射した頼成の姿を。駆け付けたるうかにさえ警戒して銃口を向けた彼を。それほどの危機感や違法な武器がなければあの世界で戦うことはできないのだろう。そして勿論、るうかにそれはない。
ならばどうすればいいというのだろうか。この寂しさや無力感を抱えて生活することが頼成との辛さの共有になるのだろうか。そうかもしれない。そうかもしれないが、それではきっと互いに辛すぎる。
「……あのさ、るうか」
ふと思い付いたように頼成がるうかの目を見ながら言う。
「もう1回、呼んではくれませんでしょうかね?」
「え?」
「名前」
「は?」
「あんた、俺を呼び止めるのにわざと名前で呼んだでしょう。そういう打算的なのじゃなくて、いい加減名前で呼んでくれって」
なるほど、頼成にしてみればるうかの意図などお見通しだったらしい。しかしるうかはあの時ただただ必死で呼び掛けていただけだ。改めて名前を呼ぶとなると抵抗がある。しかも相手はいくら恋人とはいえ4つも年上なのだ。それでも頼成の真剣な眼差しを見つめるうちにるうかも決心がついた。
「……頼成、さん」
「……さんはなくてもいいんだが」
「そこは許してください」
「まぁいいか。じゃあ、もう1回」
「頼成さん」
「……もう1回」
「いつまでやるんですか」
「いいから、頼む」
頼成の目はどこまでも真剣だ。あまり格好のつくやり取りではないにも関わらず、彼はただただるうかの唇から紡がれる己の名前を求めている。だからるうかは精一杯の想いを込めて呼んだ。
「頼成さん……大好きです」
「……ああ」
溜め息のように漏れた頼成の声に全ての答えが詰まっていた。彼は泣きそうな目でるうかを見て、再びその身体を強く強く抱き締める。
「そうだな、あんたに会えないなんて俺も耐えられそうにない。せめて……声くらいは聞かないと生きていけるか危うい」
「今までは本当に毎日……毎晩会っていましたからね」
「同じ夢の中にいればそれでいいって、そう思ってた。でもそんなんじゃやっぱり物足りねぇよな」
ニッ、とどこか人の悪い笑みを浮かべる頼成にるうかも「そうですよ」と頷きを返す。互いにこれほど相手を好きになってしまったのだ。欲望はどんどんと膨らんでいく。貪欲に相手を求めるようになる。それに反することをすれば辛さが募るばかりだ。
分かったよ、と頼成がとても優しい声で言った。
「何とかする。一応、ちょっとは考えてたんだ。が、あんたの身に少しでも危険が迫るのが怖くてできなかった。それでもあんたがそう言うんだったら、そこんところの危険は俺が全力で排除する」
「……くれぐれも、それで頼成さんが怪我なんてしないでくださいね」
「それはちょっと、約束できねぇんだが」
それは仕方のないことなのかもしれない。るうかにとっては平穏な日常であったはずの向こうの世界にも多くの危険がある。それを無傷で潜り抜けるというのも無理のある話なのだろう。
「まぁ、とりあえず今日のところは俺に任せてちょうだい。悪いようにはしない」
「……分かりました」
名残を惜しむように最後に軽いキスを交わして、2人は身体を離す。るうかは後ろ髪を引かれる思いで宿泊所に戻り、再び眠りについた。眠りは思ったよりも早くやってきた。
「……あれ?」
目を覚ましたるうかはそこが見慣れた天井であることに違和感を覚える。自分はどうしてここにいるのだろうかと動揺し、思わずがばりと跳ね起きた。するとぐらぐらと眩暈がしてもう一度ベッドの上に倒れ込む羽目になる。
そこはるうかの自宅の、彼女の部屋だった。頼成の隠れ家で眠ってしまったはずの彼女はどういうわけか自分のベッドで目覚めたのだ。時刻は夕方で、両親はまだ帰っていない。るうかは戸惑いながらもゆっくりと身体を起こし、そして机の上に置かれた2つの携帯電話を見付ける。
ひとつは見慣れた赤い携帯電話で、紛れもなくるうか自身のものだ。そしてもうひとつはわずかに紫がかった黒色をした見たことのないものである。るうかはその見覚えのない携帯電話を手に取り、ぱかりと開いた。
“Eメール受信1件”
そのままメールを開いてみると、そこには頼成からのメッセージが綴られていた。
『色々悪かった
この携帯は身を隠した時の
ために支給された物の1つで
俺が自由に使っていいことに
なってる
今度からこれで電話でも
メールでもしてくれ
会えないのは俺も辛いが
今はこれで我慢してほしい』
色々、という言葉には一体どれだけのことが含まれているのやら。るうかは少しだけ呆れながらも、彼の精一杯の配慮に感謝してそのメールへの返信を送った。
『ありがとうございます
会えない分、たくさんメール
しちゃうかもしれません
面倒くさがらないで返信して
くださいね?』
そうして待つこと数分。頼成からの返事には何やら戦々恐々とした雰囲気が滲んでいた。
『お手柔らかに頼みます』
それを見たるうかは思わず声を立てて笑ったのだった。
END
執筆日2014/03/14




