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朝倉医院を出たるうかはこれまで頼成と行ったことのある場所をしらみつぶしに歩いてみることにした。夏も終わりが近く、日の暮れるのも大分早くなっている。薄暗くなってきたために一旦家に戻り、続きは明日と夕食の支度をして何食わぬ顔で家族と共にそれを食べた。
夢の中でたっぷりと休んで翌土曜日、るうかは始発の地下鉄に乗って再び頼成を捜すために街中を回る。いつか行った商店街も、春国大学の食堂や緑地も、頼成の家の周囲も、高校の近くにある喫茶店も。それにこの間の夏休みに花火を見に行った河川敷や、皆で遊びに行った郊外の公園、彼らが男3人で連れ立って行ったというアイスクリーム店までも覗いてみた。しかし頼成の姿はどこにも見当たらない。
最後にるうかがやってきたのは地下鉄の沿線にある広く静かな墓地だった。
無機質な石が整然と並ぶそこを迷いのない足取りで進み、るうかは“舞場家”と彫られた墓石の前に立つ。以前頼成を連れてここに来たことがあった。頼成の出自に関する話を聞いた後で、ならば自分のことも話しておこうと思って連れてきたのである。ここに眠っているのは生まれてすぐにこの世を去ったるうかの双子の弟だ。
そこにも頼成の姿はなかった。ただ、先月のお盆に家族で墓参りに来たときにあげたものとは違うまだ新しい花が墓前に供えられていた。普通墓前に供える花としては菊の類が一般的だが、そこにあるのはそれとはまったく異なる派手で華やかな赤い花だ。小さな花のようなものが丸く毬のように固まっており、その表面はフェルトのように細かい毛で覆われている。あまり見たことのない花だが、一体何だろうか? いや、そういえば先程立ち寄った春国大学の敷地の中でこの花を見た気がする。
結局るうかはその花の名前を思い出すことができなかったが、丸い花房が2つ墓前に並ぶその様子は何やら可愛らしく、見ていると自然と顔が綻んだ。花は右のものが赤、左のものが少しだけオレンジがかっていて、その鮮やかな色彩の取り合わせも良い。るうかは少し考えた後、鞄から赤い携帯電話を取り出してそのカメラのレンズを花へと向けた。
カシャッ、とシャッター音を模した電子音が鳴る。順光で綺麗に撮れた写真に満足しながらるうかがその画像を保存した直後、携帯電話がけたたましい音を立てて震えた。驚いた彼女は思わずそれを取り落としそうになる。
すんでの所でストラップを掴み、るうかは何とか携帯電話を守った。開いたままだった待ち受け画面には“Eメール受信1件”と表示されている。しかし妙なものだ。普段るうかは外出中にメールの着信音が鳴らないように設定を変えているのである。電話はともかくメールは緊急の用事でない場合も多く、いちいち1通ずつ開いて見るほどのものでもない。だというのにどうして今は着信音が鳴ったのだろう? 不思議に思いながらもるうかは自然に携帯電話を操作して届いたメールを開いてみた。
それはさらに奇妙なメールだった。
タイトルは文字化けしているのか見たこともないような記号の羅列になっていて読むことすらできない。本文はなく、どうやら画像が1つ添付されているようだ。そして最もるうかを驚かせたのは、差出人がどういうわけかるうか本人であるという点だった。
「何、これ」
思わず呟いたるうかだが、当然返る答えなどない。ただ秋めいた涼しい風がふわりと吹いて彼女の髪をなびかせる。墓前に供えられた毬のような2輪の花が揺れる。
まさか何かの詐欺や悪戯のメールなのだろうか。そう不信感を抱きつつも、るうかは好奇心に負けて添付ファイルを受信した。ごく軽いその画像は、白い紙に描かれた地図らしきものの写真だった。
「……どこ?」
るうかはじっと地図を睨む。ところどころに平仮名で地名が書かれているのだが、字がぐにゃぐにゃとしていてとても読みにくい。どうやら市内の地図であることは間違いないようだが、果たしてどこなのだろうか。
「何なんだろう、これ」
るうかはもう一度呟く。自分の名前で送られてきた謎のメールに謎の地図。誰かがるうかの携帯電話を勝手に操作したとでもいうのだろうか? まさか、そんなはずはあるまい。るうかに気付かれないうちに鞄から携帯電話を取り出してるうか自身にメールを送り、さらに再びそれを元あった鞄の中に戻すなどできないだろう。そんなことをする理由も目的も分からない。
るうかはそれでも地図を見つめ続ける。彼女自身にも分からない引力のようなものが彼女の瞳をそこに釘付けにしていた。やがて少しずつ、彼女の目と脳が地図に書かれた文字を文字として認識し始める。
「こうようく……きえちよめ……ぽすとある、こえびに……?」
まるで字を覚えたばかりの子どもが書いたようなその文字には強い力が込められているように見えた。最早暗号のようなそれに、しかしるうかはハッと気付いて改めてその文字を読み直す。
「こうようく、さんちょうめ、ぽすとあるこんびに。向陽区3丁目のポストがあるコンビニ!」
頭の中に光が灯ったようだった。何を隠そう、“さ”と“き”、“ん”と“え”の平仮名を混同するのは幼かったるうかの癖だったのだ。どうやらそれは小学校低学年の間も少しの間続いていたらしく、未だに順によってからかいの種にされることがある。
るうかはその場ですぐに緑にメールを送った。先程の画像を添付し、向陽区3丁目のポストがあるコンビニエンスストアをリストアップするように依頼する。返事はすぐに来た。るうかはそれを確認すると、墓石に向かって軽く手を合わせてからだっと駆け出す。そんなるうかの背を追うように、1枚の赤色の羽根がひらりと風に吹かれて宙に舞った。
普段は乗ることのない路線の地下鉄を乗り継いで、るうかは目的の向陽区に到着する。緑が調べてくれた店は4軒あった。るうかは駅の事務室へ行き、それらの店の詳しい所在地を尋ねる。駅員は地図を取り出して店までの道程を丁寧に教えてくれた。るうかは駅員にしっかりと頭を下げてから地上に出る。
空が高い。流れる雲が少し、速い。涼しい風が吹き抜けて、るうかの火照った身体を心地良く冷ましていく。彼女は駅員に教えてもらった道順を頼りに添付画像にあったコンビニエンスストアを捜し始めた。
画像の地図には簡単な道路やその他の目印になりそうなものの絵も描かれている。それが正確であるという保証はないが、ひとまず信用して調べてみるしかない。
本当はるうか自身も分かっている。どうしてこのような奇妙なメールを信用してこのような所まで来てしまったのか。それが一体何の地図なのか、るうかには全く見当もつかない。ましてや今するべきことは頼成を捜すことであり、謎のメールの解読などではない。
しかしそれでも、何か見えない力がずっとるうかの背を押し続ける。赤い携帯電話を握った手が誰かに引かれるようにしてるうかを導いていく。
地図に描かれた道路のうち、1本は太く湾曲していた。おそらくこの街をぐるりと1周する環状通と呼ばれる幹線道路だろう。ならばそこに沿った場所にある店を捜せばいい。先程駅員から聞いた話では、この条件に当てはまる店はたった1軒しかなかった。
黒いアスファルトで綺麗に舗装された幹線道路を結構な速度を出した自動車が走り抜けていく。周囲には背の高いオフィスビルがいくつかあり、街路樹などはほとんど見受けられない。るうかの住む住宅街と比べると随分と人工的な匂いのする家並の小さな隙間に、透明な壁の向こうにたくさんの本や日用品・菓子や弁当や飲み物を並べている24時間営業のコンビニエンスストアがあった。
るうかは店を目の前に、少しの間立ち尽くしていた。外に面したガラス窓の向こうで何やら雑誌を手に真剣な顔をしている短い黒髪の青年が見える。彼はがっしりとした身体に少しよれた襟付きの半袖シャツを着て、眼鏡を掛けていた。背は高く、目つきは鋭い。あまり凝視していたら因縁をつけられそうな雰囲気すらある。しかしるうかはただただ彼を見つめ、しばらくの間呼吸をすることさえ忘れていた。
青年が何かを決断した様子で雑誌を手にレジへと向かう。向こうがるうかに気付いた様子はない。るうかは店の出口扉の横にそっと移動し、身を隠した。待ち伏せである。
やがて青年は釣銭を財布に入れながら雑誌と何か飲み物の入ったビニル袋を片手に店を出てくる。そこへるうかは迷うことなく左足を突き出した。
「えいっ」
「うわっ!?」
足をすくわれた青年の手から袋が落ち、中身が零れる。地元の名所を紹介した旅行雑誌と紙パック入りのいちごミルクをアスファルトの上に落とし、青年は反射的に振り返ってるうかを睨んだ。そして、固まる。
しかしそれも一瞬のことだった。彼は落とした荷物をそのままに全速力で駆け出す。るうかは自分でも信じられないような手際の良さでその荷物をビニル袋に詰め直すと、それを持って彼の後を追った。これでもるうかは学年の女子の中では足が速い方なのである。
とはいえ相手は体格のいい若い男性だ。普通に考えてるうかが追い付けるはずがない。だからるうかは叫ぶ。
「槍昔さん!」
名前を呼ばれた青年は一瞬だけ足を緩め、それでもまたすぐに短距離走の選手もかくやという速度で走り出す。るうかは徐々に遠ざかっていく背中に何度も何度も呼び掛けた。喉も嗄れよと叫び続けた。
「槍昔さん! 槍昔さんっ!」
一声呼ぶ度に青年がびくりと肩を震わせる。彼の葛藤が伝わってくるようで、るうかもまた胸が苦しい。それでもここまで来て逃がすわけにはいかないのだ。
「頼成さん!!」
高い空にるうかの声が響き渡った。一瞬の静寂の後、青年がぱたりと足を止める。るうかは息を切らせながら彼に追い付こうと走り続けた。彼はそんなるうかを一瞥すると、ふらりと近くの路地に身体を滑り込ませる。るうかは慌てて彼の後を追って路地に入った。そこに彼の姿はない。
「……らい、せ……さん……」
息も絶え絶えなるうかの目には涙が浮かんでいた。せっかく見付けたのに、と彼女は呟いて俯く。その背後から突然影が差したかと思うと、るうかは大きな手で口を塞がれた。
「!?」
危機感から来る悲鳴が喉の奥にせり上がってくる。しかしこうなった以上、るうかには何もできない。るうかの背後にいる誰かは彼女の頭からすっぽりと大きな布、あるいは上着のようなものを被せてその視界を塞ぐと、彼女の身体を軽々と抱え上げてゆっくりと歩き出した。
執筆日2014/03/14




