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佐羽は女性の姿を見ると一瞬だけ真顔になる。そしてすぐににっこりと微笑んで答えた。
「やぁ、瑞穂サン。あれ、今日はお仕事お休み?」
「佐羽、アタシ昨夜メールしたわよね。明日はオフだからどっか連れていってって」
「……そうだっけ。ごめん、確認し忘れてたみたい」
「ふぅん。それでこんなところで高校生とデート? 浮かれちゃって、馬鹿みたい」
「だからごめんって。……それに、デートじゃないよ。彼女は俺の友達の恋人だから」
「どうせ寝取るつもりなんでしょ。よくやるわね」
「瑞穂サン」
佐羽は席から立ち上がると、るうかに向けて小さな声で「ごめんね」と謝った。そして彼はそのまま店の外に出て瑞穂という名の女性に近付く。
「あんまりそういうこと、彼女の前で言わないでくれるかな。純粋な子なんだ」
「だったらますます、アナタみたいな下衆が連れ回していい子じゃないわね」
「ごもっとも」
「アナタってホント最低」
「そう言ってくれるのは瑞穂サンくらいだよ」
「そうなの?」
「うん。みんななかなか俺の本質を見抜いてくれないから。でも瑞穂サンは違ったよね」
にこり、と佐羽が微笑む。それはるうかがこれまで見たことのある彼の笑顔の中でも最も妖艶で、いかにも女性を誑し込むための作り笑顔であるように見えた。しかし瑞穂という女性はその佐羽の笑顔に対して満足そうに口角を上げる。
いつの間にかるうかは2人の様子を凝視していた。そして次の瞬間、瑞穂は佐羽の横っ面を思い切り引っ叩いた。
人通りの多い地下街に一瞬高い破裂音が響く。それはすぐに雑踏に掻き消されたが、勢い余って店の壁に背中をぶつけた佐羽の口からは細く血の糸が流れた。この下衆、と瑞穂が吐き捨てる。
「もういいわ。アナタに何か期待する方が馬鹿だってよく分かったから」
「……そう」
「学生なら大人しく恋愛ごっこをしていればいいのよ。アナタみたいなガキがアタシを誑し込もうなんて10年早いわ」
そう捨て台詞を残し、瑞穂はかつかつとヒールを鳴らしながら人込みの中に紛れていった。るうかは店を出て佐羽の傍に寄る。
「大丈夫ですか」
るうかが差し出したハンカチを押し返し、佐羽は自分の鞄から出したティッシュで無造作に口元の血を拭った。彼は特別不機嫌でも上機嫌でもない表情で虚空を見るようにして、それからるうかに対して笑顔を向ける。
「心配してくれたの? ありがとう」
「今の人は一体……」
「一応、付き合ってたんだけどね。今まさにフラれちゃった」
そこで佐羽が見せたのは、いつも彼が何かを企むときに使うふんわりとして掴みどころのない、それでいてとびきり優しい笑顔だった。るうかは思わず佐羽に対して忠告めいた口調で告げる。
「あの、大丈夫ですか。私みたいな子どもが言うのも何ですけど、あんまり女の人に悪いことをしない方がいいと思いますよ」
「分かってる。これでこれまでにも散々痛い目に遭ってるからね」
「だったらどうして……」
「るうかちゃん、君は知っているでしょう? 俺は“魔王”なんだよ」
佐羽はそう言いながら地下街の雑踏の中へと踏み出す。るうかは慌てて彼の後を追った。
「ついてこない方がいいよ。さっきの彼女、結構気が立っていたみたいだから。もしかしたらまだ何か言ってくるかも」
「私は気にしないですけど、落石さんが嫌なら帰ります」
「嫌じゃないけど、ね。万が一にも君に怪我なんてされたら頼成に合わせる顔がなくなるってだけ」
俺は君のことはとっても真剣に好きだと思っているからね。そう言って佐羽はどこか苦く笑ってみせる。彼の言う「好き」とはこの場合勿論恋愛のそれではないのだろう。仲間として、友人や後輩としての「好き」という感情であればるうかも素直に受け入れることができる。そして勿論るうかも佐羽のことを共に死線を潜り抜けた大切な仲間だと思っている。しかし彼にはまだるうかの知らない顔がありそうで、それを今まさに垣間見たような心地がるうかを少しだけ興奮させていた。
「それが……落石さんの、この世界での魔王としての役目なんですか。女の人と付き合うことが?」
「やけに食いつくね」
「気になってはいたんです。聞く機会がなかっただけで」
それは以前柚木阿也乃から聞いた話だった。佐羽はこれまでにるうかには思いも寄らない程の数の人間を自殺に追いやっているという。それが真実かどうか、るうかに確かめる術はない。本人の口から聞くまでは信じることなどできそうにない。
「聞いて楽しい話じゃないし、俺も君にはあんまり話したくないかな」
「そうなんですか」
「君には頼成みたいな誠実な男がよく似合っているよ。彼はヘタレで奥手で変なところで意固地になる馬鹿な奴だけど、本当に君のことを大切に想っているから。どんなことがあっても彼は君を守ろうとするだろうし、君を愛し抜くだろうから。君の安全と幸福を一番に考えて行動してくれる。君は頼成を信じていればいい」
佐羽の声は優しく、彼が頼成に対して抱いている信頼と尊敬とがその声音からも滲んでいる。しかし同時にそこには嫉妬や僻みのようなものも含まれているように、るうかには感じられた。それも彼の言う魔王の役割と関係しているということだろうか。
「落石さんだって、誠実ですよ」
るうかは心からそう言う。しかし佐羽はそんなるうかに対して目を剥いて眉をひそめた。
「馬鹿なこと言わないでよ。るうかちゃん、俺のことそんな風に思っていたの? 大変だよ、そんなんじゃ悪い男に騙されるよ」
「そうですか?」
「そうだよ」
きっぱりと佐羽は言い切った。いっそ怖い程の真剣な表情で、彼は立ち止まってるうかを見据える。俺みたいなのを信用しちゃいけないんだ。そう言った彼の目には頼成とはまた違った類の覚悟が見て取れた。るうかは彼の真意を測りかねて沈黙する。そこへぱたぱたと駆け寄ってくる足音が聞こえた。
地下街の雑踏はますますその密度を増している。夕刻が近くなり、仕事の終わった人々が街に出てき始めているのだ。そんな中で、その足音はほんの些細なものだった。ただ他の人々の足音よりも少しだけ速く、少しだけ強く、少しだけ苛立たしげにるうか達へと近付いてきたというだけで。
佐羽がすっとるうかの視界を塞ぐような位置に移動する。すると、その彼に突然誰かがぶつかってきた。
「んっ……」
衝撃を受けて佐羽が小さく声を漏らす。るうかの目には彼がひどく顔をしかめている様子が映っていた。当たりどころが悪かったのだろうか。とても痛そうだ。
佐羽にぶつかってきた誰かは少しの間そこを動かなかった。そして佐羽はますます顔を歪め、そこで初めてるうかも異変に気付く。
「落石さん!?」
佐羽の足元、赤みがかったパンツの裾からわずかに零れる赤色があった。るうかの声に弾かれるように、佐羽の背にいた相手が逆方向へと駆け出す。それは長い黒髪をした女性だった。すぐに雑踏に紛れてしまった女性を追うことは不可能だと判断し、るうかは慌てて佐羽の背中側に回る。そこには「人でなし」と殴り書きされたメモが果物ナイフのような小さな刃物によって縫い止められていた。そう、佐羽の背中にそれは突き刺さっていたのである。しかもかなり力を入れて捩り込まれたらしく、メモは曲がってシャツもよれ、皮膚と肉とに食い込んでいる。思わず大きな声を出しそうになったるうかの口を佐羽の手が柔らかく押さえた。
「大丈夫……大した怪我じゃない」
「そんな……ひどい怪我ですよ。大体、今の人は……?」
「さあ。心当たりがありすぎて分からないや……るうかちゃん、悪いけど俺の携帯で緑さんを呼んでくれる? 騒ぎになる前に」
そう言いながら佐羽は鞄の中から薄手のジャケットを取り出して血染めのシャツの上から羽織った。そして彼はるうかに自分のスマートフォンを手渡すと、地下街の出口に向かって歩いていく。その後ろに点々と赤い雫が続く。
るうかはもうどうしていいのか分からず、スマートフォンの使い方すらよく分からず、とにかくそれらしいアイコンをタッチして緑の名前を捜した。地下でも問題なく繋がった電話がのんびりとした緑の声を伝えてくる。
『あれ、どうしたの佐羽くん』
「西浜さん、舞場です。落石さんが、刺されて、怪我をして……」
るうかがそこまで言うと緑はすぐに分かったと答えた。そして場所は分かるから待っていて、とだけ言って一方的に通話を切られる。るうかは佐羽の後を追い、スマートフォンを握り締めたまま彼に緑の言葉を伝えた。佐羽はありがとうと言って微笑む。
「助かったよ。あと、君はもう帰って。緑さんが来れば後は大丈夫だから」
「じゃあ、西浜さんが来るまではいます」
「でもね」
「何も聞きません。あの女の人が誰なのかも、どうして落石さんがこんなことをされたのかも」
「……るうかちゃん」
「だから、西浜さんが来るまではいさせてください。とても1人にはしておけないです」
参ったな、と佐羽は笑った。ほんの少しだけ嬉しそうな、そして申し訳なさそうな笑顔だった。
執筆日2014/01/09