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翌日、るうかはいつもよりかなり早い時間に登校した。夢の中では相変わらずネグノスの里でゆっくりと身体と心を休めていたために、起きてからの疲労感もほとんどない。3日前と比べると幾分涼しくなった風を感じながら地下鉄駅まで歩き、学校の最寄駅で降りたところでちょうど自転車で登校途中の祝と出くわした。彼はるうかに気付いて自転車の速度を落とす。
「あ、おはよう。今日は朝練ないの?」
「おはよ」
るうかは祝に対してごく普通に声を掛けたが、祝は何やら気まずそうに目を逸らしつつ短い挨拶だけを返す。どうやら先日の夢の中でのことを彼は覚えているようだ。
「ごめん、私無神経だった?」
「別にお前は悪くねぇし、気は遣わなくていい。ただまぁ……俺もそれなりに傷心中ってこと」
「そんなに私のこと好きだったの?」
「直球だな! ……入学した頃から、可愛いなとは思ってたよ」
「そんなに前から?」
「悪い?」
そう言ってやっと祝はるうかの顔を見る。その頬は赤く、朝の陽射しに照らされた茶色の瞳は淡い緑色に透き通っている。
「ううん、ちょっと嬉しい」
るうかは少しだけ微笑みながら素直にそう言った。祝はそんなるうかを見て一瞬天を仰ぐ。
「……理紗がるーかるーかって騒ぐのが分かる……」
「そこは分からなくていいと思う」
祝の幼馴染みでありるうかの友人でもある理紗は無類のるうかファンである。彼女はどういうわけか同性のるうかに対して熱烈な愛のアピールをしてくる。どこまでが本気でどこからが冗談なのか全く見極めることができないため、るうかも時折そっと引くことがあった。ひょっとすると全部が全部本気なのかもしれない。
「あーあ、ホントこうやってるとただの高校生なのにな」
祝はそう言って横目でるうかを見た。覚えているんだね、とるうかが呟くと低い声で「まぁな」と返る。
「理紗はほとんど忘れてるみたいだよ。ま、元々仮面の呪いにかなりやられていたわけだしな……あいつにとっちゃ忘れた方がいい夢だったんだと、俺も思ってる。だから何も言ってない」
「そっか……」
「でも俺は忘れない。あの世界のことも、自分のしてきたことも、理紗の苦しみも、お前の戦いぶりも。黄の魔王も案外悪い奴じゃねぇのかもとか、少し思ったし」
「……うん」
「俺はあの世界を覚えたままで、こっちの世界を生きていくって決めた。忘れちゃいけねぇんだよ」
祝の目は真っ直ぐに前を見据えていた。彼の覚悟は本物だ。るうかはそんな彼に敬意を込めて、大きくうんと頷いたのだった。
学校に着いたるうかは駐輪場に自転車を置きに行った祝と別れて先に教室へ入る。そこにはまだ誰の姿もなく、しんと静まり返った部屋はどこかよそよそしい空気をもってるうかを出迎えていた。欠席したのはたった2日半だというのに、学校という場所はどうにもはぐれ者を拒絶しやすい環境にある。そのうちに祝がやってきて、「まだ誰も来てないか」と呟きながら自分の席に座った。つまり、るうかの隣である。2人はそれぞれに飲み物を手にしながら一息ついた。
「舞場……いちごミルク?」
「え?」
「いや、珍しいと思って。いつもコーヒーか紅茶かってイメージだった」
「……よく見てるね」
「そういうもんなの」
男ってのはな、と言って祝は自分のペットボトル入りスポーツドリンクをぐいと飲み干す。るうかはそれはおそらく祝のような意外とまめな男だけなのではないかと思いながら、甘ったるい紙パックのいちごミルクをストローで少しずつすすった。
「こういうこと言うとまた無神経なんだろうけど。槍昔さんがこういうの好きなの」
「……は? いちごミルク?」
「というか苺パフェとか。甘い物大好きなんだよ」
「あの顔で」
「うん、あの顔で」
祝は何やら神妙な顔をして黒板を睨んだ。るうかはなかなか減らないいちごミルクをすすり続ける。ずずず、とうっかり汚い音が出てしまった。
「甘い……」
「何もそんなとこまで彼氏に合わせなくても」
「分かってる。でも、今朝行きがけにコンビニに寄ったらつい目に付いちゃって」
いつもは弁当を自作してくるるうかだが、今朝は気が急いていたためにその余裕がなかった。だから家を出て地下鉄に乗る前に途中のコンビニエンスストアに寄って昼食用のパンと飲み物を買ったのである。目にも鮮やかなパック入り飲料がずらりと並ぶ冷蔵棚を眺めて糖分ゼロの紅茶に手を伸ばそうとしたそのとき、るうかの視界に白とピンクの可愛らしいパッケージが映り込んだ。
「あの強面聖者が甘党ねー……想像つかねぇ」
祝はまだそんなことを言っているが、るうかはただ苦笑だけを返した。そんなるうかに一瞬だけ祝が鋭い視線を向ける。
「で、あいつは結局あれから音沙汰なしなの」
「うん」
「……それで、お前はどうなわけ?」
「どうって?」
「納得、できたのかってこと」
祝は真剣な目つきで尋ねてくる。彼なりに随分とるうかのことを心配してくれているらしい。それがクラスメイトとしてなのか、振られこそしたけれども好きになった相手だからという理由でなのかは分からない。分からないなりに、るうかはただ素直に自分の気持ちを言葉にする。
「できなかったよ」
「……」
「できるわけない。私は槍昔さんを捜す」
るうかがそう言い切ると、祝は唖然としてしばらく黙る。それから再び彼が口を開きかけたとき、数人の女子生徒が連れ立って教室に入ってきた。彼女達はるうかを見て何かこそこそと囁き合ったあと、露骨にニヤニヤといやらしい笑みを浮かべながら内輪だけで盛り上がっている。祝はそんなクラスメイト達を一度ぎろりと睨みつけてから、はぁと溜め息をついた。
「強情ー」
「彼氏がどっか行っちゃったからって簡単に諦めて他の人に乗り換えるとか、私そんな尻軽女じゃないから」
「っ、舞場から“尻軽”とかいう単語が出てくるとは思わなかった」
「そう?」
「ああ。結構意外な……つーか大胆だな」
祝は呆れた調子でそう言ったが、その顔にはむしろさっぱりしたような笑みが浮かんでいる。やがてぞろぞろと生徒が揃い始め、教室の中も段々と賑やかになってきた。るうかと佐羽に関する噂話はまだ尾を引いているらしく、あちこちから囁きやくすくすという感じの悪い笑い声が聞こえてくる。るうかはようやっと飲み終えたいちごミルクのパックを潰してゴミ箱に捨て、それから鞄の中身を机の中に移そうと一旦机を確認した。すると中に数枚のメモ帳のようなものが入っていることに気が付く。
“売女”“クソビッチ”“尻軽”“ヤリマン”“便所女”
「……おおう」
思わず声を出したるうかの手元を覗き込み、祝がうげっと呻いた。
「小学生かよ……」
「今時の小学生はこんな言葉知ってるのかな」
「いや、それは知らねぇけど。うわー、うちのクラスってこんな馬鹿ばっかりかよ」
「ばっかりってわけじゃないと思うよ。ただ、落石さんが相当ひどいことをしてきたっていうのは事実みたいだから。仕方ないって言えば仕方ないのかな」
それにしたって舞場には関係ないだろ、と祝は当のるうかよりも不服そうにぶつぶつと文句を垂れている。るうかはそんな祝に苦笑を向けてから改めて席を立ち、再びゴミ箱まで赴いてそれらのメモ帳を丁寧に千切り捨てた。ちょうどそこへ理紗と静稀が一緒に教室へと入ってくる。
「あー! るーかだーっ!!」
叫ぶなり理紗は鞄を床に放り出してるうかへと飛びついた。良かった良かったと繰り返す彼女にるうかは笑顔を向けながらも少しだけ複雑な思いに囚われる。彼女はきっと夢の世界での出来事をほとんど忘れてしまっているのだろう。勿論彼女にとってはその方がいいのだろうが、るうかは彼女があの世界でくれた言葉を決して忘れまいと思っていた。
「私は貴女を信じています。だから貴女も……貴女の大事な人を信じて。いいえ、疑ってもいい。疑ってもいいから、その人の信念を信じて」
仮面の女王でありながら理紗としての意識もわずかながら持っていただろう彼女がそう言ってくれたから、るうかはあの夜の戦いを切り抜けることができた。そしてるうか自身の信じる頼成の信念のために、最善ではなかったものの全力を尽くすことができた。さらに今、頼成が黒であると十中八九明らかになってなおその信念に揺るぎがないだろうことを信じていられる。だからこそ彼を捜すと口にすることができるのだ。
「……理紗ちゃん、ありがとう」
ほとんどしがみつくように抱き締めてくる友人に対してるうかがそう言葉を掛けると、彼女は少しだけきょとんとしてからすぐにニッと笑った。
「それはあたしの台詞だよ。ありがと、るーか」
あたしは信じてるから。あんまり覚えてないんだけど、ずっとすごく嫌な夢を見ていた気がするんだ。ずっとるーかが夢に出てきてくれるのを待ってた。そして、るーかはホントに来てくれた。
「そうしたら嫌な夢を見なくなった。あのね、あたしきっと、何か大事なことを忘れてるんだと思うんだ。そんな気がする。けどね、でもね、これだけは覚えてるから! るーかがあたしを助けてくれたってこと、それだけはちゃんと覚えてるから!」
るうかの身体をぎゅうと抱き締め、理紗は少しだけ涙声になりながらそう言った。教室の喧騒はもうるうかの耳には入らない。ただただ胸がいっぱいで、辛い夢の記憶の中にるうかの存在を覚えていてくれた友人にどう感謝していいかも分からないまま、るうかは理紗の小柄な身体を抱き締め返した。
執筆日2014/03/14




