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ふわふわとした眩暈がるうかの目覚めを拒んでいる。朝ですよ、という声に何とか目を開けるとそこには見たことのない看護師の女性がいて、るうかに体温計を手渡してきた。検温をお願いします、と言われてるうかは素直にそれを腋の下に挟む。電子体温計のアラームが鳴るまでの間にやっとるうかの頭もすっきりとしてきた。彼女はいつの間にか夢の世界で眠ってしまい、そうして彼女にとっての現実であるこの世界で目を覚ましたのだ。昨日佐羽の事件を目撃してショックのあまりに倒れたるうかは病院に運ばれて入院したのだという。ということはここはその搬送先の病院に違いない。
看護師は摂氏36.4度という平熱を示した体温計を確認してるうかの体調は気分を聞いた後、もうじき朝食の時間であることを告げて病室から出ていった。部屋にはるうかしかいない。元々ひとつのベッドしか置かれていない個室である。たかが熱中症という建前で運ばれたにしては随分と手厚い処置だが、意識がなかったのだからそれも仕方ないのかも知れない。
それにしてもここは一体どこの病院なのだろうか。病室というものはどこも大体似たような造りをしており、ましてやるうかはこれまで大きな怪我や病気をしたこともないために入院経験がほとんどない。強いて挙げるとすれば先だって浅海柚橘葉に鎮静剤を打たれたために念のため一晩朝倉医院に入院した時くらいのことである。オフホワイトの天井を見上げながら、るうかはその色合いが前回とよく似ていると感じていた。
朝倉医院はるうかが産まれた場所でもある。そしてどうやら頼成や佐羽も何かにつけて世話になっている、つまり“一世”である柚木阿也乃に何か関連のある施設でもあるらしい。不思議な縁を感じながらもるうかはただぼんやりとしていた。何もかもが現実味を失ってしまったかのようだった。
「ガラスみたいな目」
ふっとそんな声がるうかの耳に入る。いつの間にそこにいたのだろう、風変わりな、とても風変わりな若い男性がるうかのベッドのすぐ横に立っていた。白衣を着ているが医療関係者には見えない。長く真っ直ぐな黒髪は踵まで届きそうな程に伸ばされたままで、黒目がちの大きな瞳はまるで空を映したかのような青色をしている。さらに足元は素足にもこもことしたうさぎ型のスリッパという、この残暑厳しい季節には到底考えられないような不可思議なスタイルだ。男性は棒のように真っ直ぐな姿勢でそこに立ったまま、じっとるうかの目を見つめている。
「その目で何かが見えるの」
淡々と、その男性は尋ねた。るうかは質問の意図が分からずにただ黙っていることしかできない。すると男性は再び口を開く。
「怖いものも、嫌なものも、全部鮮明に見えるの」
「……あの、あなたは?」
「2つの世界に現実が見えるの」
「え?」
「でも、人はいつか選ばなくちゃならない」
るうかの言葉など気にも留めていない様子で、男性はやはり淡々と言葉を紡いでいく。
「太陽と月が昼と夜を照らして季節が移ろい機械文明と産業が発展したために人々がシステム化された日常に囚われる世界。月のない代わりに星の明かりが夜を明るくし魔法と代償が制約となって人々に苦渋を強い“天敵”がその命を狙う世界。誰もが夢と現実とを行き来しながらやがて心の中で結論を出す。最後の日に、選ばれた世界だけが残る」
そこまで言うと、男性は1歩るうかに近付き、その顔を真上から覗き込んだ。るうかの視界に大きく2つの目が映る。それはまるで、いつかテレビで見た“宇宙から見た地球”のように輝く青い宝石だった。
「勝者の世界に残れるかどうかは運次第。2つの世界に現実を見ていたら失ってしまう」
「……それは、どういう意味ですか」
「心配」
男性はそう言うと初めて表情らしきものをその顔に浮かべた。わずかに瞳を瞼で隠し、口を曲げる。そこへ外からコンコンとノックの音が聞こえた。るうかが反射的に「はい」と答えるとドアを開けてやはり白衣を着た、今度は40代程度に見える男性が部屋に入ってくる。こちらは白衣の中にいかにも医療者らしい紺色のスクラブと呼ばれる服を着込んでいた。
「気分はどうですか? 色々あって疲れたっしょう。身体的には特に問題ないけれど、もしもうしばらく休んでいたいんだったらもう一晩くらい泊まっていきなさいな」
彼はそう言いながら遠慮なくるうかのベッドへと近付いてくる。そしてるうかはいつの間にかあの長い黒髪の男性の姿が消えていることに気付いた。混乱するるうかに向かって、40代の男性はニッと笑ってみせる。
「ああ、自己紹介がまだだった。俺はここの院長をやっている朝倉です、よろしくー」
「え、あ……」
「舞場るうかちゃん、ね。覚えているよ。16年前、君を取り上げたのも俺なのよ?」
ふっふっふ、と妙な様子で笑いながら朝倉院長はるうかのベッドの前を素通りして明るい窓辺に寄った。なるほど、やはりここは朝倉医院で合っていたらしい。院長の外見の特徴は癖の強い黒髪と、やはり青い瞳を持っている点が印象的である。純粋な日本人ではないのだろうか。朝倉院長は後ろ手に組んだ掌をもぞもぞと動かしながら空の色を窺っている。
「今、うちの幽霊が来てたっしょう?」
「えっ?」
「長い黒髪の、白衣にうさぎスリッパの。まぁあれでも一応うちの職員なんだけどねぇ。みんな朝倉医院の幽霊って呼ぶのよ。神出鬼没で浮世離れしていて話がほとんど噛み合わないから、まぁ仕方ないっちゃあないんだけんども。あれももうちょっと人間とのコミュニケーションってものを覚えてほしいところなんだけどねぇ」
朝倉院長はそうやってひとしきりぼやいてからるうかの元へと戻ってきた。その顎には無精髭が見える。
「あ、そうそう。落石くんも昨夜ここに運ばれてね。何をやらかしたのか分からないけど心停止で大学病院から緊急搬送されてきたのよー。いんやー、参ったわ。柚木は絶対あの子を死なせるなって言うしね」
「えっ……落石さんが、心停止!?」
思わずベッドから身を起こしかけたるうかを片手で制して、朝倉院長は気さくな笑みを浮かべる。
「だあいじょうぶよ、俺、腕だけは一流だから。死なせるなと言われれば死なせやしませんて。というわけでさっき病室覗いたらあの子も起きていたから、気が向いたら顔見せてやってちょうだい。あっちは何せ脚とかあちこち骨折しちゃってるし、迂闊に動いたらまだ危ないからね。でも君のこと随分心配してたのよー。厄介なのに好かれちゃってるねぇ」
「……落石さん、無事、なんですね」
「ん、大丈夫」
「良かった……」
心の底からるうかは安堵の息をついた。それを見ていた朝倉院長の頬が自然と緩み、青色の目が優しく細められる。それはまるで父親が幼い我が子を見つめるような慈愛に満ちた眼差しだった。
「嬉しいなぁ」
朝倉院長はそう言ってるうかに満面の笑顔を向ける。
「16年前に助けた子がこうやって大きくなって、素敵な女の子に成長してくれて。俺もこの仕事をやって長いけど、やっぱりこういう嬉しいことがあるといいね。多分うちの幽霊もそんな感じで君のことが気になってやってきちゃったんでしょう。色々と意味深なことを言っていたろうけど……ま、今はあんまり深く考えないでおいてちょうだい」
「あ……はい」
不思議なものだ。朝倉院長の言葉は柔らかく、棘も圧力も何もないというのにどういうわけかイエス以外の答えを許さない奇妙な力を具えている。深く考えるな、と言われれば先程の男性に言われた言葉もるうかの頭の中から薄れていくような気がした。そして朝倉院長が部屋を出ていくと、るうかはぼんやりとまた天井を見上げて「……何だったっけ?」と呟く。その頭の中にはもう、先程の意味深な言葉は欠片も残っていなかった。
朝食の後、るうかは先程朝倉院長から言われた通りに佐羽の病室を訪ねた。佐羽は電動ベッドの頭の方を少しだけ持ち上げた状態で寝ており、身体のあちこちや顔にまで包帯やガーゼを当てられた酷い姿をしていたが、るうかの姿を見ると嬉しそうに顔を綻ばせる。
「ああ、良かった。大丈夫? 気分、悪くない?」
それはこちらの台詞である。るうかはそう思いながらも大丈夫だと答える。佐羽の話によると、どうやらるうかは昨夜の夢の世界で林の中で気を失っていたところを輝名によって発見され、城に運ばれたらしい。正確には気を失っていたというよりもぐっすりと眠り込んでいたということだった。るうかは自分があのまま泣き疲れて眠ってしまったのだと気付いて赤面する。まるで子どもではないか。
「その、ご迷惑をお掛けしました……」
「何言ってるの、いいじゃないそれくらい。輝名だって嫌そうにはしていなかったよ」
「はぁ……」
「君が頑張ったことはみんなが知ってる。ちょっと疲れたり甘えたりするくらい全然問題ないよ。だから気にしない、ね?」
佐羽は小首を傾げて優しく微笑むと、もうちょっと近くに来てくれとるうかに催促した。言われた通りにベッドの真横まで近付いたるうかに、佐羽はさらに近付くよう要求する。るうかは少しばかり嫌な予感がしたが、相手が重傷の怪我人であることもあって仕方なく言われた通りにした。
「目を閉じて」
ほとんど鼻先が触れそうな距離でそんなことを言われ、るうかは露骨に顔をしかめる。それでも最後にはゆっくりと瞳を閉じた。いい子だね、と佐羽が言う。そしてるうかは額にそっと触れるような柔らかな口づけを感じた。
「もういいよ」
そんなことを言う佐羽に、るうかは目を開いて少しだけ睨む視線を向ける。身体を彼から離しながらるうかは取り敢えず文句を言った。
「何するんですか」
「俺じゃ代わりにはならないけど、一応労いのキスのつもりだよ」
「代わりって……」
「……きっと、もう頼成は君の前には現れないだろうから」
佐羽は昨夜の輝名と同じことを言い、辛そうに目を伏せた。どうやら彼もるうか達と同じ結論に辿り着いていたらしい。誰よりも頼成のことをよく知る彼のことだ。ひょっとしたら、もう随分前から気が付いていたのかもしれない。そして、黙っていた。頼成のために、そしてるうかのために。
「るうかちゃん」
佐羽は少しだけ不安そうな瞳でるうかを見上げた。
「ねぇ、頼成がいなくても……俺達と一緒にいてくれる? あの世界にいてくれる?」
「はい」
るうかは迷わず頷いた。あの世界にはるうかの信念がある。そして頼成の信念と、それを形作らせたかつての治癒術師“るうか”の遺志がある。るうかには勇者としてまだやるべきことがある。
るうかの答えに佐羽は破顔し、頬のガーゼがそれにつられて動いたためにいててと声を上げた。でも良かった、と佐羽は大きく息を吐き出しながら言う。
「輝名から聞いてはいたんだけどさ。もし君までこっちの世界を選んじゃったらどうしようかと思っていたんだ」
「……夢を見なくなる、ってことですか?」
「うん。本当は俺達はいつだってそれを選べるんだよ。どっちの世界を現実にするか。切り離しの魔法を使える人間は限られているけど、心の中ではいつだって選んでいい。そしてその決断が、最後にゲームの勝敗を決める。そのときには人は自分の選んだ世界にしか残れない」
二者択一ってやつだね、と佐羽は言った。どうやらそれは“一世”の2人が行っているというゲームの話らしい。どちらの世界がより人間にとって魅力的な世界であるか、それを賭けた2人の勝負はその世界を選んだ人間の数で決着するということだ。
「ゲームって、一体いつ終わるんですか」
るうかが尋ねると、佐羽はうーんと唸って肩をすくめた。そしてまたいててと言う。今度は腕の骨折が痛んだらしい。
「それは誰にも分からない。そう、きっと神様にしか分からないんだよ」
彼はそう言ってふんわりと静かに微笑んだのだった。
執筆日2014/03/08




