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「遅くなってすまなかった」
るうかの傷に手を当てながら、湖澄がそう言って本当に申し訳なさそうに顔を歪める。大丈夫です、とるうかは答えた。
「間に合って良かったです。交渉はうまくいったみたいですね」
「相手が輝名だからな。ただ、人数を集めるのに時間がかかった」
「大神殿は相変わらず人手不足ですか」
「それでも、輝名だから集められた。あれは人を率いるための輝きを生まれ持っている」
湖澄はそう言いながら中庭に立つ輝名を見やった。るうか達は今中庭に面して開かれた小さなドアの内側にいた。そこはどうやら兵士や騎士の休憩部屋になっているようで、質素だが頑丈な造りの家具がいくつかあるだけの簡単な場所だった。るうかはそこのベッドを借りて湖澄による治療を受けていたというわけだ。
やがて外が少しだけ静かになる。るうかと湖澄は開いたドアから同時に外の様子を窺った。シャボン玉のような薄い膜が幾重にも重なって中庭全体を包み込んでいる。大神殿の魔術師達が総出で結界を張ったのだ。
色のない騎士も魔術師達も、そして輝名とユイも結界の外に出ていた。ただ1人、佐羽だけが結界の中で“天敵”と向き合っている。そう、今回“天敵”に止めを刺すことができるのは彼だけだ。
「落石さん……」
るうかは心配のあまりに思わず彼の名を呼んでいた。あれだけの数の弱点を持つ“天敵”を倒すにはその全てを破壊するしかないが、それらをひとつひとつ潰していたのではきりがない。だから佐羽の強力な破壊魔法で一息に全てを木端微塵にしてしまう方が現実的だ。しかし今の佐羽は本来の調子ではない。
「大丈夫だ。佐羽ならできる」
湖澄はそう言って優しい目でるうかを見る。るうかも頷いた。
佐羽が杖を掲げ、いつもよりも少しだけ長い呪文を口に乗せる。
「 !」
るうかには聞き取ることのできないその言葉は結界の中に猛烈な大爆発を引き起こした。シャボン玉の内側が真っ赤に染まり、その薄い膜が中から1枚、また1枚と割れていく。その度に神殿の魔導士達が外側からそれを補強する。佐羽が中でどうなっているのかはまるで見えない。るうかは祈る思いで両手を胸の前で組み合わせ、じっと唇を噛み締めてその光景を見つめていた。瞬きをする暇などない。乾く瞳に涙が浮かび、それがまた乾いていく。
やがて、爆発の音が小さく弱くなっていくのと共に結界もぼろぼろと崩壊していった。魔術師達ももう限界だったのだろう。真っ赤だった視界に黒が入り込み、星明かりが中庭の惨憺たる有様を克明に照らし出していた。
小山のようだった“天敵”は血と細切れ肉の山へと変わり果てていた。その端で杖を片手に地面に膝をついている佐羽の全身もまた、汚れた赤に染まりきっていた。輝名が佐羽に駆け寄り、続いてユイが佐羽の身体を抱えてその頬を軽く叩く。反応はないようだ。るうかの横で湖澄が立ち上がると、佐羽に向かって駆け出していった。
佐羽は果たして無事なのだろうか。るうかはそれを確かめたかったが、他にもまだ気になることがあった。女王と祝のことである。ちょうどそのとき、部屋にあるもうひとつの扉がゆっくりと開いた。驚いて身構えたるうかの前で扉からひょっこりと顔を出したのはなんと祝である。彼は「よう」と軽く挨拶をしてから部屋の中を見渡す。
「お前だけか?」
「……うん。桂木くん、理紗ちゃんは?」
るうかが尋ねると祝の後ろから女王がこれまたひょっこりと顔を覗かせた。その顔にはまだ仮面がしっかりとつけられていて、祝が彼女の呪いを解いていないことが分かる。
「“天敵”は……」
「今、落石さん……佐羽さんが倒しました」
「そう……ルウカ、貴女は無事?」
女王に尋ねられ、るうかは少しだけ笑みを浮かべて大きく頷く。見た目は酷いものだが怪我そのものは湖澄の治癒術ですっかり治っている。無事には違いない。すると女王は「良かった」と心から安堵したように息を吐いた。
「でも、これでこの国の秩序はほとんどなくなったも同じだよ。神殿の人達を呼んで手伝ってもらったから……」
「あの派手な神官がそうなのか。けどまぁ、別に今更いいだろ。都の鱗粉もほとんど消えているみたいだし、一安心だ」
るうかの懸念に対して祝はどうということのない口調で答える。どうやら都の方も心配はなさそうだ。
「桂木くん、理紗ちゃんの呪いは……」
「ああ。後はそっちだな。……女王様、いかがですか?」
祝はそう言って女王を見た。いかがかと問われても困るのだろう。女王は少しの間まごついた様子で黙っていたが、やがてるうかの方を見て少しだけ頷いた。
「貴女は、私を助けに来てくれた。ホギからそう聞きました。それはつまり、私を女王ではない元の私に戻す……仮面の呪いを解く、ということなのね?」
「……うん、そうだよ、理紗ちゃん。多分あなたは分からないんだと思うけど、あなたは理紗ちゃんが見ている夢の中の理紗ちゃんなの」
「……」
女王はじっとるうかの話を聞いていた。そして小さく頷いてそっとるうかの身体を抱き締める。
「私は……きっとずっと貴女を待っていたのね。本当はずっと怖かったの。ねぇ、今こうして喋っている私は私ではないって、私ずっと気付いていたのよ。だからさっき兜を脱いだホギが、私に名前を教えてくれたときも本当に嬉しかった。光が見えた気がしたの。やっと、この悪夢から解放されるんだって……」
「理紗ちゃん……」
「ありがとう、ルウカ。ここまで来てくれて」
女王の仮面の奥の瞳が濡れていた。るうかは女王の美しいドレスが汚れるのも構わず、彼女の倍の力でその小さな身体を抱き締めた。
それから少し経って、るうか達3人は密かに城を抜け出して都の外れまで来ていた。今の所追っ手の気配はない。祝が女王を連れ出したことにより色のない騎士達は彼を捕縛しようとしていたが、あの“天敵”討伐の騒ぎで結局それどころではなくなったのだろう。今頃は輝名が指示を出して事後処理に当たっているはずだ。
だからもう彼らを邪魔する者はいない。街の外れの小さな林の中で、祝は女王の仮面にかけられた呪いを解いた。白い仮面は真ん中から真っ二つに割れて地面に落ち、その中からは紛れもない理紗の顔が現れる。彼女は少しの間目をぱちくりとさせてるうかと祝の顔を見比べた後、わっとその場に泣き崩れた。
「怖かった……怖かったよお、るーか、祝……!」
「理紗ちゃん……」
るうかは汚れた手袋を外し、しゃがみこんだ理紗の背中をよしよしとさすった。その横では祝がほっと息をついて2人を見下ろしている。その瞳はわずかに涙で濡れていた。
「良かったな、理紗。お前の大好きな王子様が助けに来てくれたんだぞ」
「るーかは王子様なんかじゃないよ。可愛い可愛いお姫様だよ!」
「いや、状況見ろって。どう見ても今はお前の方がお姫様だろ」
「るーかの方が可愛いもん! お姫様はるーかで決まり!」
「……ええと、何の話?」
幼馴染み2人が繰り広げる謎の会話についていけないるうかだったが、その心は満たされていた。それにしても一体どうして理紗がこの国の女王などにされていたのだろうか。ふと湧いたその疑問を口にしてみると、理紗自身もよく分からないと答える。
「あんまり覚えてないんだけど……これって、夢なんだよね?」
「うん」
「じゃあ……割と最近なのかな。気が付いたらずっとあのお城にいる夢を見るようになっていたんだ。最初は良かったんだよ。みんなあたしに優しくしてくれるし、美味しいものを食べて綺麗なドレスを着て、お庭もすっごく綺麗だったし。あ、でもるーかがいないのはつまんなかったなー」
「……確か夏になる前にそんなこと話していたよね。じゃあ夢を見るようになったのはその頃からなんだ?」
「そうだね。でもそのうちにすごく怖くなった。あのね、喋ろうとしてもなんだかうまくいかなくて……多分この仮面のせいだと思うんだけど、なんだか勝手に口が動いたんだよ。そんなことがあったり、黒い鎧の騎士っぽいのが血まみれで……」
そこまで言って、理紗ははっと気付いたように祝を見た。祝はばつの悪そうな顔でさっと視線を逸らす。理紗はばっと立ち上がるとその顔を掴んで自分の方へと向けた。
「お前かぁあ! 祝ぃい!」
「いってっ! 首、首いてぇ!!」
「何なの!? 祝、夢の中で人殺ししてたの!? 何それ、怖いよ! なんでそんなことあたしに黙ってたの!!」
「黙って……っていうかそれお前がこの夢に来るより前からだから。ずっとだから……」
「じゃあずっと祝は夢で人殺ししてたのかっ!」
「そう……って、いてててててて!」
「なんであたしに相談しないんだーっ!」
ぐいぐい、ぐいぐいと理紗は祝の首を絞め殺さんばかりの勢いで掴み、それを前後に振っていた。るうかはやや呆れながらそれを見て、そしてやがてぷっと吹き出す。
「桂木くん、今すぐじゃなくていいと思うけど、そのうち全部理紗ちゃんに説明した方がいいかもね」
「……うぐ。この世界のこともか? 面倒だな……」
「理紗ちゃんなら分かってくれるよ。だって、幼馴染みなんでしょ?」
「だから余計に話しづらいってことも……いや、まぁでもこの調子じゃ話さないわけにもいかない、か」
理紗は相変わらず祝の首を捉えてじっとその顔を睨んでいる。仮面を捨てた2人の間にはもう何の隔たりもない。祝は色のない騎士の役目を捨てて幼馴染みである理紗を助ける道を選んだ。理紗は恐怖ばかりだったこの夢の世界での仮面から解き放たれ、やっと本当の自分に戻ることができた。こちらの世界で生まれた祝が向こうの世界で理紗と出会ったように、理紗もまたこちらの世界で祝と出会ったのだ。そこから改めて始めればいい。
「……とにかく、ありがとな、舞場」
「ありがとう、るーか!」
血染めの服に黒ずんだ肉片を髪にこびりつかせたるうかに対して、2人は何の屈託もなく感謝の言葉を口にした。るうかは思わず泣きそうになりながら、それでも精一杯の笑顔で2人に「ありがとう」と返したのだった。
執筆日2014/03/02




