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それから間もなく、るうか達は都に降りていた。当然生身では変異原である鱗粉を浴びてしまうことになるため、湖澄の魔法によって全身に保護結界をまとっている。そして女王もまた、城に留まるようにという騎士の注進を無視して強引にるうか達についてきていた。
都の景色は上から見た時とはまた異なる様相を呈している。大気に充満した細かい銀色の鱗粉が上空からの星明かりで煌めき、虹のような色を反射していたのだ。まさしく虹色の王国だね、と佐羽がまた要らないことを言って騎士に睨まれる。
「さすが魔王だな。本当にお前は腹の立つ男だ」
「褒め言葉だと思っておくよ。それで、気付いたことがひとつあるんだけどいいかな?」
「……何だ?」
騎士が怪訝そうに佐羽を見て、佐羽はにこりと笑いながら空気中を舞う鱗粉にそっと手を伸ばした。
「これ、違うよ」
佐羽の短い言葉に、誰もがその意味を測りかねる。ただ1人湖澄だけが苦い顔をして辺りを見渡し、溜め息をついた。
「確かに、違うようだな」
「一体何が違うというの?」
女王が少しばかり焦れた様子で尋ね、湖澄はすぐさま「これは変異原の性質を持つ鱗粉ではない」と端的な答えを返す。女王は唖然として言葉を失った。騎士もまた驚いた様子で湖澄を睨む。
「どういうことだ」
「さあ、そこまでは分からないけど?」
答えたのは佐羽で、彼は騎士にきつく睨まれながらもどこか楽しそうな調子でこれからのことを語っていく。
「ひとまず都に住んでいる人達の安否確認が必要だね。その辺は城の人を動員してやればいい。きっとみんな無事だと思うよ。あと、女王様はやっぱりお城に戻ってもらった方がいいね。あそこは厳重な結界に守られているから、この先何かが起きたとしても時間が稼げる。そして騎士の君は是非俺達と一緒に来てほしい。俺の予想が当たっているなら、これから都は戦場になる」
「……戦場? どういう意味だ。この鱗粉が変異原でないなら、住人の“天敵”化は起こらないはずだろう。一体何と戦うというんだ」
「そりゃあ勿論“天敵”とに決まっているでしょう?」
至極当然といった調子で答えた佐羽に対して誰もが胡乱な視線を向ける中、女王だけがこくりと頷いた。
「分かりました」
「……ん?」
佐羽は少しだけ驚いた表情で彼女を見る。女王はそんな佐羽に対して静かな声で告げる。
「貴方達はここで、都を守るために戦う。そのためには私がいては足手まといになるのでしょう」
「……悪いけど、そういうことになるかな。ごめんね」
「いいえ、はっきり言ってもらった方が分かりやすいので構いません。そして、ルウカもまたここに留まって戦うというのね?」
「うん。彼女は勇者だからね。“天敵”と戦うには欠かせない戦力だ」
「……そう」
女王はわずかに顔を伏せながらそう言うと、るうかの方へと身体を向けた。そして彼女はそっと手を伸ばしてるうかの身体を抱き締める。
「辛いでしょう? でも、私は貴女を信じています。だから貴女も……貴女の大事な人を信じて。いいえ、疑ってもいい。疑ってもいいから、その人の信念を信じて。それなら、戦える?」
囁くような声で、一言一言を噛み締めるように女王は言った。るうかは耳のすぐ近くに聞こえる女王の、いや友人の声にただじっと聞き入り、そして最後に大きくうんと頷いた。それを見て女王の口元が綻ぶ。
「頑張って、ルウカ。でも決して無理はしないで。……死なないで」
「ありがとう、理紗ちゃん」
るうかがそう呼ぶと、女王は少し戸惑ったように、しかしどこか嬉しそうに頷き返した。そして一部始終を見守っていた騎士がひとまず女王を城に送り届けると言って彼女に腕を差し出す。
「エスコートはいいわ」
「そういうわけには参りません。……魔王の予測が正しければ、お1人で戻られるのは危険です」
「なら隣を歩いて。あのね、私……少しだけ分かった気がするの。私が何者なのか」
「……ミアム、様」
「必要なら私を殺しなさい。でも今はそんなことをしている場合ではないでしょう? さあ、急いで」
女王はそう言ってさっさと城の方角へ向かって歩き出す。騎士は何かを言いかけたが、すぐに諦めて彼女の後を追っていった。残されたるうか達は銀色の霧の中でしばし立ち尽くす。やがて湖澄が口を開いた。
「佐羽、もう少し詳しく話を聞かせてもらえるな?」
勿論、と佐羽はふんわりとした笑みを浮かべながら虹色の光をまとった街並みを見渡す。そこは今の所とても静かで、やがて戦場になるなどとは到底信じられない様子だった。しかし銀色の霧に覆われたその光景が異常であることには違いなく、るうかは不安と心細さを隠せないままに佐羽の言葉を待つ。
「とりあえず、この鱗粉は変異原じゃない。それは湖澄も納得しているよね?」
「ああ、確かにこれはイナトの村で見た蝶の鱗粉とは異なる性質のものだ。言ってしまえば、ただの粉だ」
「そ。まぁそれでもこれだけ充満しているものを吸い込みたくはないから結界はそのままにしておいてもらうけどね。それで、じゃあなんで“天敵”が出ると言い切れるか……そこを聞きたいっていうんだよね?」
当たり前である。湖澄もるうかも何も言わずに佐羽を少しだけ睨むように見た。佐羽はますますふわふわとした掴みどころのない笑みを浮かべながら、いっそ楽しそうにさえ見える顔で言う。
「簡単に言えば、黒い蝶がいるから“天敵”が出なくちゃいけない。そうやって辻褄を合わせることが犯人にとっては必要なんだよ。たとえ頼成が何をしていたとしても、この虹色の王国の都に黒い蝶の鱗粉が撒き散らされて“天敵”が発生すればそれが事実になる」
「お前の言い分では、頼成は実際にはこの件にどう関わっているというんだ」
「さあ? 俺もそこまでは知らないよ。でも、るうかちゃんに謝って逃げたんだったら無関係ってわけじゃあないんでしょう」
確かに佐羽の言う通りである。るうかは中庭で見た頼成の様子とその去り際の表情を思い浮かべ、暗い顔で地面に視線を落とした。あの芝生の上に残された頼成の血が意味するものは、一体何なのだろう。
「……考えていても分からないな」
湖澄がどこか投げやりにも聞こえる調子で呟いた。佐羽がおやという顔をしながら彼を見る。
「珍しい、湖澄にしては諦めが早いね」
「誰が諦めるか。とにかく“天敵”が出るなら対処する必要がある。そして万が一にでもこの都の住人に被害が及べば、この国は崩壊する」
え、とるうかは驚きも顕わに湖澄を見上げた。湖澄はすでに説明のためにるうかへと視線を向けていて、そしておもむろに告げる。
「佐羽の話を信用するなら、敵はこの国の秩序そのものを瓦解させることを狙っている。黒い蝶と“天敵”の関係を認識させ、治癒術師を殺すことで“天敵”の発生を抑止していたこの国に別の脅威をもたらせばそこで治癒術師を殺すことの意義が半ば消滅する。そうなればこれまで犠牲の対価として安寧を享受していた人々も、内に溜まった鬱憤を暴発させかねない。たとえば何故自分の親や子やきょうだいや愛しい者がただ治癒術を扱う能力があるというだけの理由で何の罪もない内に殺されなければならなかったのかと」
「……お城の騎士達は、恨まれているんですね」
「そうだ。そしてその騎士に治癒術師の粛清を命じている女王もまた民衆の憎悪の対象となる」
「……!」
ぎくりとして、るうかは佐羽を見る。だから佐羽は何より先に女王を城へと帰したのだ。彼女の身に危険が迫ることを彼はすでに予期していたのだ。
「落石さん……ありがとうございます」
「いえいえ。……敵が誰かは分からないけれど、とにかく俺の読みが当たっていればるうかちゃんの力は本当に不可欠なんだ。頼成もいないことだし、俺もたまには気張らないとね」
「……」
「ああ、そう言えばイナトの村では佐保里が目撃されていたんだっけ? 彼女が黒い蝶を操っていたっていう話だったよね。で、あの村での住民の“天敵”化は頼成が用意していた薬によって防がれた。さて、じゃああの一件とその後すぐに判明した虹色の王国での黒い蝶の目撃情報との間にはどんな因果関係があるでしょうか?」
ぴっ、と人差し指を立てて佐羽はごく軽い調子で語っていく。
「まぁ、偉そうに言ってはみたものの俺にも確証はないんだけどね」
「確証はなくとも、現時点で都が無害の鱗粉に覆われているという妙な事実がある以上は何かが起きると見て間違いない」
湖澄が腰の剣に手を当てながら言い、そういうことだねと佐羽も杖を握り込む。るうかもまた両手に持った赤い刃のカタールに力を込めた。
「長い夜になるよ。差し詰め……虹色王国の夜の舞踏会っていうところかな」
「血生臭い舞踏会もあったものだな」
「いつだってこの世界はそうだよ。でも、それでもいい」
佐羽は虹色の光が舞う空を見上げてにこりと笑った。
「今俺がこうして立っている場所が、俺のいる場所だ。そう思えるならそれでいい」
そう言って彼はるうかを見る。彼の鳶色の瞳は辺りの鱗粉が反射する星明かりに煌めいて、嬉しそうにすら見えた。どうしてこのような状況でそのように笑えるのか、るうかには彼の考えがまるで分からない。それでも現実世界で死にそうな顔をしていた彼がこうして活き活きとしていることは喜ばしいことだと思えた。
だから、るうかも頷く。
「行きましょう。私は理紗ちゃんを助けるために来たんです」
「うん、その意気だよ。赤の勇者の力を見せつけてやろうじゃない」
はい、とるうかは精一杯の思いで頷き、そして佐羽達と共に都を覆う銀色の霧の向こうへと駆け出した。
執筆日2014/02/27




