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夜の闇に星明かりが差し込み、イールテニップの城の中庭を淡く照らし出す。芝生に残された青緑色の液体は頼成の流した血なのだろうか。自分の首から流れるそれとは色も性質も全く異なるそれを見るともなしに見ながら、るうかはしばらく息をすることすら忘れていた。
そんな彼女の後ろで黒い鎧兜に身を固めた騎士が剣を鞘に納める気配がする。
「説明してもらおうか」
「……」
「……と、言おうと思ったが。どうやらその様子では何も知らなかったようだな、赤の勇者」
だから言っただろう、と騎士は独り言のように呟く。るうかはのろのろと顔を上げて彼の方を振り返った。騎士の兜のスリットから見え隠れする緑がかった瞳がどこか悲しそうに、そして怒りを秘めた色をもってるうかを見つめている。るうかは再び項垂れた。
「ルウカ!」
ドレスの裾を翻し、女王がるうか達の元へと駆けてくる。彼女は項垂れたるうかと彼女の隣に立つ騎士を交互に見て、まず騎士に対してこう言った。
「一体何ということをしたの!? このような可愛らしい少女を傷付けるだなんて、騎士の所業とは思えません!」
「……ミアム様」
「ルウカ、痛いでしょう? 今すぐ手当てをするから……」
そう言って女王は白い手袋をはめた手でるうかの首筋に触れた。るうかはぴりりとした痛みを感じ、同時に黒ずんだ赤色が女王の手袋へと移っていく。騎士はその様子を眺め、ふうと大きく息を吐いた。
「ミアム様、手当てなら勇者一行の中に治癒術の使い手がいます。彼に任せれば傷痕も残らないでしょう」
「治癒術……?」
怪訝そうに女王が聞き返せば、騎士はそうですと何でもないことのように頷く。
「ただし、人を“天敵”に変える可能性のない治癒術の使い手……聖者と呼ばれる者なのだそうです。今の男、ライセイもそうです」
「そんな者がいるの? ああ、でもあの青の聖者は一体どうして黒い蝶を……一体何をしていたのかしら」
女王は不思議そうに首を傾げ、それから一度小さく首を振って言った。
「話は後にしましょう。まずはルウカの傷の手当てよ。……貴方、彼女を傷付けたこと、私は決して許しませんからね」
女王はるうかの背中に手を添えながら厳しい口調で騎士に告げる。騎士は小さく頷き、仰せのままにとだけ答えた。それから女王は自らるうかを連れて湖澄のいる客間までやってくる。
「銀の聖者、いるかしら? いるのならすぐにここを開けなさい、女王の命令です」
扉をノックすることもせずにびしりと言い放った女王にるうかは一瞬だけ自分のよく知る友人の姿を重ねる。そう、理紗はまさにこういう少女だ。そしてすぐに扉が開き、湖澄が眉間にしわを寄せながら顔を出す。彼は女王が直接部屋を訪ねてきたことより先にまずるうかの傷に目を留めた。それから彼女の表情から何かを悟った様子で、何も言わずに2人を部屋の中へと招き入れる。
「何があった」
湖澄はるうかの傷に手を当て、治癒術を使いながら2人に尋ねた。るうかは答えようとしたが、その前に女王が口を開く。
「私とルウカが話していたところに騎士が来て、非道にもルウカを脅したのです。ところがそのとき、城の中庭で青の聖者が黒い蝶を招くように斧槍を掲げたのが見えました。騎士とルウカが追いましたが、青の聖者は転移魔法を使ってその場から姿を消したのです」
「……頼成、が?」
湖澄もまた信じられないといった様子で目を見開く。普段はあまり表情を変化させることのない彼だが、さすがに焦った様子でるうかに確認するように問いかけてくる。
「本当なのか」
「……」
るうかは声もなく頷いて答えた。今口を開けば嗚咽が漏れそうで、それが一体どういった感情からくるものなのかすら判別がつかない。それほど彼女は混乱していた。湖澄はそんなるうかの姿を見ると女王にここにいるようにと告げて一旦部屋を出ていく。そしてすぐに佐羽を連れて部屋へと戻ってきた。湖澄と女王から事情を聞いた佐羽はやはり渋面を作りながらもふぅんとどこか納得した様子で頷く。
「なるほど、そういう意味だったんだね」
「……心当たりがあるのか?」
「頼成が言っていたんだよ。手を汚しているのは俺だけじゃないって。それってつまり……こういうことだったんじゃないの?」
ひらり、と佐羽は自分の両手を振ってみせる。それからその手を天井に向けるようにしながら肩をすくめた。
「色々と納得はいくでしょう? だって頼成ならきっとあの蝶を作れるよ。彼は薬学を学んでいて治癒術にも精通している。然るべき施設があれば変異原の蝶を生み出すことくらいはできそうだ。それに、イナトの村で彼は初めから薬を用意していたんじゃない? 自分の血と治癒術とを練り合わせた、“天敵”化の特効薬。あんなもの、すぐに必要な量を用意できるわけないじゃない」
「お前、初めから頼成を疑っていたな?」
湖澄が詰問する口調で言うと、佐羽はふんわりと微笑んで「まさか」と答える。
「俺が頼成を疑うわけないじゃない。ただ、事実を突き合わせてみればそういう仮説が立てられるっていうだけ。湖澄だって反論できないでしょ?」
佐羽は首を傾げながら問い、湖澄は苦い顔で押し黙る。そこへ軽いノックの音と共に例の色のない騎士が応答を待たずに部屋へと踏み込んできた。彼は開口一番厳しい声音でるうかに問い掛ける。
「赤の勇者、お前は青の聖者が黒い蝶を操るということを知らなかった。それは間違いのないことなんだな?」
「……っ。はい」
るうかがやっとのことで声を絞り出すと、騎士は小さく頷いてさらに問い掛ける。
「なら、この都に今何が起きているかも……分からないな?」
「……え?」
きょとん、とるうかは口を半分開いたまま首を傾げる。それを確認した騎士はるうかの腕をやや乱暴に掴むと、来いと短く言いながら彼女を部屋の外へと連れ出した。佐羽と湖澄、それに女王もまたるうかを追うようにしてついてくる。そして騎士はある場所にるうかを連れてきた。
そこは先程るうかが女王を見付けたバルコニーとは正反対の方角にある広いテラスだった。普段は民衆に向かって女王が顔を見せるために使われているのだろう、その場所は丘の下に広がる都を一望できる素晴らしいところだった。
しかし今、るうか達の眼前に広がるのは銀色の霧のような鱗粉に覆われ、すっかり色を失った恐ろしい景色である。よくよく目を凝らして見れば都の辻のあちこちに黒い蝶が柱のように固まっているのが分かる。そして時折その蝶達が一斉に舞い上がり、辺りに鱗粉を撒き散らしてはぱさりぱさりと地面に落ちていくのだった。
「酷いものだねぇ」
佐羽が他人事のように言って、るうかを含む全員からきつく睨まれる。騎士は剣に手をかけながら佐羽を睨み、「この場で斬り殺されたくなければ無駄に人の神経を逆撫でするようなことを言うな」と釘を刺した。いきなり斬りかからなかっただけまだ冷静さは残っているらしい。佐羽ははいはいと首をすくめ、でも、と騎士を見て言う。
「俺達にこの光景を見せたっていうことは、何とかしろって言いたいんでしょ? ひとつ聞いておきたいんだけど、それは俺達を信用しているから? それとも頼成が犯人で、その仲間である俺達を泳がせて様子を見ようとでもいう腹積もり?」
「誰がお前なんかを信用するか、黄の魔王」
騎士はにべもなく言うと、だがと続けてるうかの方を見やる。
「俺個人としては、赤の勇者は信頼に足ると考えている」
「……へぇ? それはどうして? 彼女は頼成の恋人だよ。本来なら一番信用ならない相手なんじゃないのかな」
「女王様が信頼されているからだ」
騎士は佐羽の方を見ずにそう答えながらあくまでじっとるうかを見つめる。スリット越しに交わされた視線で、るうかは彼が何を求めているのかを悟った。
「……都に行って、あの鱗粉を何とかする……それか、もし“天敵”になった人がいたら……」
「殺していい。都の住人をできる限り多く救ってくれれば、それで」
「できる限り多く、ですか」
「そのための犠牲を否定していてはこの都は滅びかねない。見えるだろう? この銀色の霧の全てが人を“天敵”に変えるのだとすれば猶予などない」
騎士はきっぱりと言い切ったが、るうかはまた別のことを考えていた。それを佐羽がそっと見守るような瞳で眺める。湖澄は何を考えているのか分からない無表情で都の様子を見つめ、女王はそんなるうか達を心配そうに見ていた。
執筆日2014/02/27




