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夢から覚めて学校へと向かう。いつものことのはずなのに、今日のるうかは気もそぞろで地下鉄の自動改札機を通る際に定期券を入れ忘れ、朝から改札機の扉によって強かに腿をぶたれる羽目になった。学校に理紗の姿はなく、気付けば静稀から携帯電話にメールが入っていた。どうやら静稀は理紗に付き合って今日の授業を欠席するらしい。今朝は黒板の写真こそないものの教室での噂話は相変わらずで、るうかは誰とも挨拶を交わさないまま自分の席に腰を下ろした。思わずため息が漏れる。
ふと隣の席に目をやると、いつもは所属する野球部の朝練で早く来ているはずの祝の姿もなかった。彼もまた同じ夢を共有している1人だと知ったのはつい昨日のことだったが、るうかとしてはそれだけでも少しばかり心強いものがある。あの世界はるうかが1人で抱えるには重すぎる。
もうじき朝のショートホームルームが始まるという時間になって、突然がつがつという激しい靴音が廊下から響いてきた。何事かとざわめく生徒達の困惑を余所に、音の主は勢いよくるうかの教室の扉を開け放つ。それは薄汚れた白衣をだらりとまとった1人の女性だった。そして少しの間教室の中を見渡して、やがて目的の人物に目を留めてニヤリと笑った。
「よう、るうか。迎えに来たぜ」
「……柚木さん」
艶はあるがあまり手入れされていなさそうな灰色の髪を後ろでひとつにまとめただけで化粧っ気のないその女性、柚木阿也乃は眼鏡の奥にある吊り気味の青い瞳を猫のように細めてるうかだけを見ている。辺りはしんと静まり返り、誰ひとりとしてこの闖入者に声を掛ける者はいない。まるで時が止まってしまったかのように静かになった教室で、るうかは“鈍色の大魔王”と呼ばれる女性を見つめ返しながら問い掛けた。
「落石さんに何かあったんですか」
「どうしてそう思う?」
阿也乃は相変わらずの意地の悪い口調で、笑みを含ませながら言う。
「お前が佐羽を連中に売ったから、か?」
「っ、違います……違い、ますけど!」
「浅海佐保里を止めなかった。お前は佐羽の所業を責めてはいないが、間接的にあれが窮地に陥ることを促進した。浅海佐保里を止めなかったというその実行しなかった行為によってな」
だからその報いを受けるべきだと思わないか? 阿也乃はそう言ってそっとるうかに顔を近付ける。彼女の口からはいつものようにきついミントの香りがする。どうしてこの匂いなのだろう、とるうかは半ば麻痺した頭で考えた。そして阿也乃に導かれるまま、速めの足取りで教室を出る。
そして昇降口を出たところでどうやら今登校してきたらしい祝と出くわした。祝は焦った様子で校内に駆け込もうとしていたが、るうかと阿也乃に気付いて足を止める。その表情はすでにただの男子高校生のものではなかった。
「舞場、どうした?」
鋭く細められた茶色の瞳が斜めに差し込む陽光を受けて緑色に煌めいている。阿也乃はそんな祝を見てくっと喉の奥で笑うと、「ちょっとるうかを借りる」とだけ告げた。祝はなおもるうかを呼び止める。
「おい、舞場! 授業は!?」
「ごめん、桂木くん。今日は私もサボるから」
先生には適当に言っておいて。と無責任な要求を押し付けて、るうかは祝に背を向ける。正門には見覚えのある緑と銀のカラーリングが施された大型のバイクが停まっていた。そしてその上にフルフェイスのヘルメットを被った緑の姿がある。阿也乃は彼とバイクを視線で示すとるうかに「早く行け」と言った。
「あとは緑の指示に従え。ああ、お前には一切危害を加えたりはしないから、それだけは安心していいぜ。あとのことは俺は知らないがな」
そう言い残すと阿也乃はくたびれた白衣の裾を翻して地下鉄駅の方角に向かって去っていった。代わりに緑がバイクの上からるうかに予備のヘルメットを手渡す。るうかはそれを目深に被ると、無言のままシートに跨った。制服のスカートが広がるが、ここでは気にしないことにする。じゃあ行くよ、と緑が言った。
「しっかりと掴まっていてね」
いつも通りの落ち着いて優しい彼の口調が怖かった。るうかは身を硬くしながらはいと声を出して頷き、緑の広い背中から胴にかけてを抱き込むように彼にしがみついた。そしてバイクは急発進し、るうかの通う高校をあっさりと後にしていった。
ひう、と風が鳴る。緑がるうかを案内したのは街の繁華街の奥にある周囲から取り残されたような高いビルの最上階だった。建物自体はそう古くもないようだが、どうも建設途中で何らかの事情により工事を中断せざるを得なくなったのだろう。打ちっぱなしのコンクリートでできた外壁に辛うじて上下の階を行き来するための階段や梯子が取り付けられただけの灰色の建物は、完全に廃墟だった。下の階は時折若者の溜まり場になっているらしく多くのゴミが散乱していたが、上に行くに従ってそれもなくなっていった。そしてこの最上階には窓枠さえない大きな窓が四方に2つずつと、あとはどういうわけか10本程の鉄パイプが放置されているばかりだった。
緑はバイクを建物の裏に停め、るうかをここまで導いた。そして8つある窓のうちのひとつの前まで行くとるうかに向かって手招きする。るうかは素直に彼の招きに従った。
そこからは隣にあるビルの屋上がよく見えた。こちらの建物よりいくらか低いそのビルは、こちらとは異なり様々なテナントが入る雑居ビルである。屋上には給水用のタンクとポンプを備えた小屋と、空調の排気口がいくつか並んでいる。普段は人が出入りしない場所であるらしく、転落防止用の柵などはない。
しかし今、そこにはいくつかの人影が見えた。黒っぽいスーツに身を包んだ男が4人と、それにラフな格好をした若い男が6人である。そして彼らが待ち受ける屋上にふらりと亜麻色の髪を持つ青年が現れた。
「……!」
思わず声を出しそうになったるうかの口を後ろから緑がそっと、しかし強い力で塞ぐ。そして彼は彼女の耳元で「騒がないで」と囁いた。るうかは塞がれたままの口で呟くように尋ねる。
「柚木さんは、私にこの場面を見せようとしたんですか」
緑は何も答えなかった。2人の見つめる先でビルの屋上に現れた佐羽は待ち構えていた男達に向かって何かを喋っている。声までは聞き取れないが、決して穏やかな話し合いの場面でないことだけは確かだ。そして男達の中から黒いスーツを着た30代と思しき男が1人、佐羽の方へと歩み寄る。
それは昨日るうかを地下鉄駅まで送り届けて彼女に名刺を渡した男、双沖だった。彼は佐羽を見ると素早くその身体に手をかける。スーツから伸びた片手は易々と佐羽の肩を掴んでコンクリートの床に叩きつけた。ごっ、という鈍い音がるうか達の耳にまで微かに届く。それから双沖は仰向けに倒れた佐羽の前髪を引いて頭を上げさせると、そのまま突き下ろすように再び床へと叩きつけた。何度も、何度も。灰色がかったコンクリートに染みができていく。
緑は強い力でるうかの口を塞ぎ、さらにはその身体をぎゅっと抱き締めるようにして拘束していた。だからるうかはその光景から目を逸らすことも、やめてくれと叫ぶこともできずただただ眼下で繰り広げられる凄惨な暴力を見せつけられる。
そのうち双沖が佐羽の身体を蹴って横向けに転がした。そこへ金属バットらしきものを手にした若い男達が群がり、一斉にそれを振り下ろす。佐羽は避けようともしなかった。るうかの見下ろす隣のビルの屋上にはいくつもの血痕ができ、また佐羽の身体はみるみるうちにボロボロになっていった。最早彼が息をしているのかどうかすら危ういと思えるほどだ。るうかの身はぶるぶると震え、瞳からは大粒の涙が零れだす。佐羽は確かに酷いことをしてきた。
痛めつけられ、殺されても文句を言えないだけの罪を犯したと言えるのかもしれない。
しかし、だからといって彼がこんな風に殺されようとしている様子を見せられて平気でいられるはずがない。阿也乃はるうかにも責任の一端があると言った。確かにそうかもしれない。るうかはあの男達を恐れていて、佐保里のことも恐れていた。だから佐羽を庇うようなことはできなかった。
けれども、果たしてそれだけだっただろうか? るうか自身の心の中に、佐羽に対する嫌悪や見限りの心は生まれていなかったのだろうか? きっぱりと否定できないるうかがここにいる。ここにいて、無慈悲な暴力に晒され続ける佐羽を見下ろしている。
「嫌……」
緑に口を塞がれながら、るうかはほとんど音にならない声で呟いた。嫌だ。たとえ佐羽がどれだけの非道を尽くしてきたとしても、彼がこんな風に殺されるのを黙って見ているのは嫌だ。
「落石さん……!」
ぐい、とるうかは身をよじって緑の拘束から逃れようとした。しかし緑はそれを許さず、さらに強い力でるうかを抑え込む。
「駄目だよ、危ない」
「でもこのままじゃ落石さんが死んじゃいます!」
「大丈夫だよ」
るうかを安心させるように、緑はそう言った。しかしその表情は暗く口調も重い。るうかがハッとしたその時、隣のビルの屋上にある建物内部から通じる扉が内側から乱暴に蹴り開けられた。
執筆日2014/02/14




