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夏休みは終わってしまったが、まだまだ暑い日が続いている。始業式である今日も例外なく厳しい残暑に見舞われ、外は朝から25度を超えていた。最早式など苦痛でしかなく、いつもは話の長い校長もほんの3分程でスピーチを切り上げた。
そしてるうかは教室の自分の机の上にペタリと胸をくっつけるようにしてへばりついていた。机の方が冷たいのでこうしていると身体の熱が逃げていき、心地がいいのである。そんなるうかの隣で茶色の髪を丸刈りにした同級生の少年がつまらなそうに呟いた。
「舞場、透けてる」
「え?」
「赤」
るうかは身を起こし、慌てて制服のブラウスを引っ張った。汗で濡れた白いブラウスは透明度を増し、その内側にある赤色の下着を透かしてしまっていたらしい。慌てるるうかを見て笑った隣の席の同級生はさらに続けてこう言う。
「珍しいじゃん、舞場がそんな派手な色のつけてるの」
「桂木くん、私の下着チェックしてるの……?」
「してねぇよ。でも夏休み前はいくら暑い日でも透けたりしてなかったから、もっと薄い色のつけてたのかなーって。彼氏でもできたの?」
年頃の少年というのはこういうものなのだろうか。るうかは恨めしい思いで彼、桂木祝を見る。とても珍しい名前の彼は同じく滅多にない名前のるうかを何かと気に留めているらしく、こうして隣の席になる前から何回か言葉を交わしたことがあった。それにしてもまさか下着の透け具合の観察までされていたとは。
「男子って……」
「仕方ねぇだろ、見えちまうんだから。見られたくなけりゃもっと目立たないのつけてこいっての」
「私がどんなブラつけようが勝手でしょうが」
「だったら透けたくらいで恥ずかしがるなよ」
「いちいち指摘しなくていいって話だよ」
祝はるうかの言葉にはぁ、と深い溜め息をついた。
「舞場って顔は結構可愛いのにそういうところがいまいち女らしくないっていうか。勿体ないよなぁ」
「別に桂木くんに女らしいと評価してもらわなくったっていいからね」
「やっぱり彼氏できたんだ」
「なんでそうなる」
「理紗が言ってた」
「知ってて言ってたのかっ!」
るうかの友人である松ヶ枝理紗はこの祝とは幼馴染だという。家が近所だとかで、物心つくかつかないかの頃から家族ぐるみで仲良くしていたらしい。それがこうして同じ高校に通うようになり、互いにそれぞれ独自の友人関係を築きながらもこうやって余計な情報を交換し合っているようだった。
「理紗ちゃん、余計なこと言ってそう……何て言ってたの?」
「んー? 舞場が目つきの悪いヤクザみたいなヘタレと付き合い始めて腹が立つって。あんな男は舞場に相応しくないからいつかあたしが成敗してくれるわ! って言ってたぞ」
「……ヤクザみたいなヘタレ……」
言い得て妙といったところかもしれない。るうかの彼氏と言って言えなくもない彼、槍昔頼成は体格が良くて目つきが悪く、一見すると強面な印象がある。しかし実際にはるうかに好きだと告白して以来1ヶ月もの間何も進展のないままで自分が彼氏になったと思い込んでいたという間の抜けた青年でもあった。るうかがそんな頼成を思い出して微妙に表情を歪めていると、祝はさらに追い打ちをかけるように言う。
「もしそいつが舞場に手を出したら殺すって息巻いてたぞ、理紗」
「……それ、確か前にも直接言われたような」
「で、大丈夫? そいつは今のところ理紗に殺されずに済みそう?」
「桂木くん、それは遠回しなセクハラ」
「露骨に聞くよりいいだろ。あと、理紗に直接問い詰められるよりいいだろ」
それはそうかもしれない。理紗のことだから、るうかがいくら誤魔化そうが言葉を濁そうが決して容赦はしてくれないのだろう。そして正直なところを話したところで彼女が納得してくれるかどうかも怪しいものだ。とはいえ、プライベートなことを隣の席の男子に気軽に話すというのも気が引ける。散々悩んだ末、るうかは「とりあえず大丈夫」とだけ答えた。祝は「ははっ」と気の抜けたような笑いを漏らす。
「ヤバいって言われたらどうしようかと思った」
「どうもしなくていいよ……。ていうかそういうこと話題にしないでよ」
「まぁ、舞場ってこれまでそういう話全然聞かなかったからなー。興味はあったんだぞ、俺も理紗も」
「そうなの」
「だって実際お前、この学年の中じゃ結構人気あるんだぞ」
「へぇ」
それは知らなかった。るうかがそう正直に答えると、祝は乾いた笑いで天井を仰ぐ。
「知らぬは本人ばかりなり……。少しでも舞場に興味のありそうな素振りを見せた奴らはみんな、ちっこい女王陛下に睨みつけられてすごすごと引き下がっていったんだよ」
「……それって、理紗ちゃんのこと」
「それ以外に誰がいるよ?」
はぁ、とるうかは大きな溜め息をついた。道理でその手の噂が本人であるるうかの耳に届かないわけだ。理紗はどういうわけかるうかをいたく気に入っており、いつの間にやら彼女に近付こうとする虫を追い払う役目までを勝手に引き受けていたらしい。
「理紗ちゃんは私の青春を何だと思っているんだ……」
「まぁ、くだらない連中に言い寄られるよりいいんじゃねぇの? 今の彼氏さんはいい人なんだろ」
「うんまぁ、いい人には違いないね」
「だったらいいじゃん」
祝は軽い調子でそう言うとニッと笑った。窓から入る陽射しが彼の薄茶色の目に当たり、それをわずかに緑がかって見せる。るうかは少しだけ眩しく思いながらその目を見た。
「そうだね」
祝の言う通りだ。量より質、というのも語弊があるが大切なのはどれだけ多くの異性から言い寄られたかではない。どれだけ自分にとって良い人と出会うことができたかどうかだ。そういう意味でいえばるうかにとって頼成は申し分のない、そしてかけがえのない相手だった。
「桂木くん、案外いいこと言うんだね」
「舞場ぁ……お前俺のこと馬鹿だと思ってるだろ」
「別にそういうわけじゃ。あ、でもこの前の数学は赤点だったっけ」
「夏休み前の話を蒸し返すな!! くっそー、言っておくけどな、俺今年はレギュラー獲ったんだぞ」
そう言って祝は身体の前で何かを構えるような仕草をする。るうかは祝が野球部に在籍していることを思い出し、確認のために尋ねる。
「キャッチャー?」
「そう!」
「じゃあ秋の大会出るんだ。頑張ってね」
「おう! 俺のリードでうちの野球部を甲子園に引っ張っていってやる!」
祝は半ば本気の顔つきでそんなことを言う。だからるうかも敢えて何も言わずにおいたが、まぁ彼女達の通う高校が甲子園に出られる可能性はまずないだろう。全市大会の1回戦で勝てるかどうかすら怪しいところだ。祝の気合は充分だが、野球がキャッチャーのリードだけでどうにかなるようなものではないことくらいは詳しくないるうかでも知っている。いつでも脚光を浴びるのはエースピッチャーと4番打者で、キャッチャーは裏方のイメージが強い。しかしたまに見る野球中継ではピッチャーが投げたどんな球をも逸らすことなく捕ってのけるキャッチャーもすごい反射能力だと感心させられるものだ。
「まぁ、暇があったら理紗ちゃんと一緒に見に行くかも」
「ん? うちの試合?」
「うん」
「いいのかよ、暇があったら彼氏とデートなんじゃないの?」
「向こうがそんなに暇じゃないから。大学生だし。薬学部だし」
そう言いながらるうかはこっそりと溜め息をつく。頼成が学業で忙しいのは事実であるし、現実で頻繁に会うことができなくとも夢の世界では毎日顔を合わせているのだから寂しさもない。ただ近頃、どこか彼の様子がおかしいように感じるのだ。まるで石化の危険と隣り合わせの日々を送っていた数ヶ月前のように、彼は時折遠いところを見るような目をする。そしてその後には決まってるうかに甘くなるのだ。まるで彼自身が己の中の何かを埋めるようにしてるうかを求めてくる。
それでいて彼はるうかに何も語ってくれない。夏休み前の誘拐事件以降、るうかの身の周りはとても静かだった。夢の世界では相変わらず時折現れる“天敵”と戦ったりとそれなりに危険なこともあったが、ただの女子高生であるるうかの身には何事もなかった。るうかはあの浅海柚橘葉に目をつけられているはずである。だというのに向こうが何の行動も起こさないのは、“二世”である有磯輝名が彼に何らかの制約を課しているからか、それとも。
るうかはずっとそのことを危惧していた。頼成がるうかの身の安全のために何かを犠牲にしたのではないか、ということを。たとえばそれは彼の生命であったり、信念であったりするのではないかと。
頼成はるうかを守ると言った。彼の心は嬉しく、それが彼にとって大切な誓いであることが分かったからるうかも黙ってそれを受け容れた。しかし本音を言えば彼にはもっと自由であってほしいと思う。るうかのために彼が己を曲げるのであれば、それはるうかにとっても辛いことだった。
きっとるうかは自分でも気付かないうちに、自分で思うよりもずっと頼成のことを愛するようになっていたのだろう。その姿勢、思想を。生き様を。自分にかけてくれる想いを。他者に向ける誠実な眼差しを。夢の世界でるうかは勇者として、その怪力を以て彼を守ることができる。それはるうかにとって誇らしいことだった。
「舞場?」
ふと気が付くと祝が訝しげな顔をしてるうかを見ていた。どうやら隣にいる彼の存在をすっかり忘れて思考に没頭してしまっていたらしい。るうかは誤魔化すように笑うと、家路につくべく席を立った。
執筆日2014/01/09