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るうかはほとんど放心状態で地下鉄に乗り、自宅へと帰った。両親共に仕事に出ているために誰もいないリビングは暗く、るうかはそこを素通りしてすぐに自分の部屋に入る。そして鞄を床に放り投げると着替えもせずにベッドへと身体を投げ出した。
今更ながらに身体が震える。見てはいけない世界を見てしまった。知ってはいけない世界に触れてしまった。そしてそれは確実に佐羽の身に危険が迫っているということを示していた。るうかは幾度かの深呼吸を繰り返して気持ちを落ち着けた後、放り出した鞄を拾って中にあった赤い携帯電話を取り出す。そして登録してある佐羽の番号にすぐさま電話を掛けた。しかしコール音は鳴らず、その番号は使われていないか電源が切られているのではないかというお馴染みのメッセージが聞こえてくるばかりだった。なるほど、それであの男達も佐羽に連絡をつけることができず、るうかに接触してきたということなのだろう。
るうかは携帯電話を手にしたまま、今度は別の番号を呼び出して通話ボタンを押す。今度は3コールで相手が出た。
「もしもしっ、槍昔さんですよね」
『あ、ああ。どうした、るうか。そんなに慌てて』
るうかの声の調子を聞き取った頼成が心配そうに言う。佐羽のことで聞きたいことがある、とるうかが告げると電話の向こうから緊張した気配が伝わってきた。
『何かあったのか。もしかしてあんたの所に何か……』
「槍昔さん、何か知っているんですか? 落石さんに連絡をつけることはできますか?」
『……るうか』
頼成は電話の向こうで一度大きく息を吐いた。それからるうかに対して一体何があったのか説明するようにと要求する。るうかは自分も一度深呼吸をしてから、佐保里のことや彼女と会話をしていた男達のことを話した。頼成は黙ってるうかの話を聞いていたが、やがて小さく溜め息をついて言う。
『あの魔女、さすがにこっちの世界のあんたのことは守ったのか』
「……向こうではそうもいかなかったでしょうね。すみません、黒い蝶のことは聞く暇がなくて」
せっかく佐保里に会ったというのに、そちらについての情報は全く得られなかった。るうかがそのことについて謝ると、頼成はいいやと少しだけ笑う。
『そんな場合じゃなかったんだろ。それより気になるのは佐羽だな。ったく、一体どんな女に手を出したんだ……?』
彼は佐保里と同じ文句を呟きながら、なにかごそごそと動き始める。電話の向こうでパソコンを起動する音がした。
「何か、分かりますか……?」
『大体の見当はつくし、調べりゃある程度のことは分かるだろ。それより、あんたは下手に動かない方がいい。浅海佐保里が自分から引き受けたんなら、そっちはもう彼女に任せておけばいいだろう。佐羽の身柄の方はこっちで何とかする』
「はい……」
お願いします、とるうかは呟くように言った。どのみちこちらの世界のるうかにできることなど何もない。佐羽本人に危険を知らせることができないのなら、せめて頼成にそれを伝えることでしか彼の身を守る方法はないと考えたのだ。それでも、頼成はそんなるうかに礼を言う。
『よく知らせてくれた。怖かっただろ?』
「あ……はい。正直、もうあんな人達には会いたくないです」
そうは言うものの名刺をもらってしまったからにはいつまた妙な縁ができないとも限らない。しかし捨てることもできず、るうかは帰り際に受け取った小さな紙片をそっと財布の中にしまった。
「あと……槍昔さん、もうひとつお話しておきたいことが。虹色の女王のことなんですけど」
るうかが話を切り替えると、再び頼成の方から緊張の気配が伝わってくる。どうやら今の彼は相当敏感になっているようだ。るうかはそのことに多少の違和感を覚えながらも、ひとまずは今日の祝や理紗との会話について彼に伝えた。祝についてはともかく、理紗の方はあまりのんびり構えてもいられないようだ。るうかの話を聞いた頼成はまさかと言いながらも理紗が虹色の女王である可能性を否定しなかった。
『そんな偶然があるっていうのも不自然ではあるがな……とにかく、あの騎士に言ってどうにかイールテニップの城まで行ってみるしかない。そこでうまくすれば女王にも会えるだろ』
「理紗ちゃん本人は夢でのことをあんまりよく覚えていないみたいなんです」
『それも気になる。それでいてそこまで怯えているってことは相当怖い思いをしたんだろうな……黒い蝶のせいで虹色の女王の領域にも“天敵”が出現しているとなれば、放っておいたら事態は余計に悪くなる。何とかしよう』
「はい」
頼成の言葉は力強く、るうかも精一杯の気持ちを込めて頷いた。そしてそこまで話してやっと彼女自身の心も落ち着いてくる。もしも頼成への電話が繋がらなければ、今頃るうかは様々な可能性の恐怖に怯えて震えていたことだろう。るうかはそう考えながら頼成の名を呼んだ。
「槍昔さん、ありがとうございます」
『……ん?』
「話を聞いてもらって、よかったです」
頼成はそんなるうかの言葉に戸惑ったように色々なことを言った。情報をもらったのはこっちの方だとか、虹色の女王に関しても重要な話だっただとか。それでも最後に何やら観念した様子でふっと笑いながらこんなことを言う。
『電話じゃそのくらいしかあんたにしてやれることがないからな。相当参ってるんだろ?』
「あ……」
るうかは学校での写真の件や担任の女性教諭から聞いた話については頼成に話さなかった。それでも彼にはるうかがこの日1日でどれだけの心労を溜め込んでいたのかが伝わってしまっていたらしい。るうかはそれを恥ずかしく思いながらも、彼がそこまで気に留めてくれたことが嬉しかったので素直に頷いた。
「はい。今日は……色々ありましたから。槍昔さんの声が聞けて本当によかった」
『るうか……』
照れ臭そうにるうかを呼ぶ声が心地良い。恋人、という関係になってしばらく経ったが2人の間にはまだまだ不慣れさと、そして初々しい恋情が通い合い、時にもどかしく触れては離れそうで離れない絶妙な距離でその心を捧げ合っている。夢と現実を行き来しながらの複雑な関係がそうさせているということもあるのだろうが、るうかにしろ頼成にしろ互いにどこまで踏み込んでよいものか測りかねていたのかもしれない。しかしるうか自身は、すでに頼成に対して何のためらいもなく心の全てを伝えてもいい気がしていた。そしてそう思った瞬間、るうかの口からは自然と言葉が漏れる。
「槍昔さん、私はあなたのことが大好きです」
『えっ……な、なんだいきなり』
「急に言いたくなりました」
『そりゃあまた……随分正直っていうか、そこまですっぱり言われるとなんて反応していいのか』
頼成の困惑している顔が目に浮かぶようだ。るうかはそんな頼成に対して少しだけ意地悪な質問をしてみる。
「槍昔さんって、今まで女の子と付き合ったことがないってわけじゃありませんよね?」
『……それを今の彼女に聞かれると結構答えにくいんですが』
「あ、別に嫉妬とかしないから大丈夫です。私、槍昔さんを信じています」
『あん……あんたはどこまできっぱりしてるんだっ!』
慌てながらも頼成はこれまで数人の女性と付き合ったことがあると認めた。それはそうだろう。るうかとしてはそれなのにどうして彼がるうかに対してこれほど初心な反応をするのかと問いたかったのだが、彼女がそれを口に出すより早く頼成は全く別のことを言う。
『けどるうか。俺は今までにあんた以上に尊敬した女はいない。年下だとか、そういうのも関係なく俺はあんたのことを尊敬している。何度も助けられたし、その度にあんたの勇敢さや潔さに負けたような気がしていた。で、そんなあんたに負けたくないとすら思った』
「……尊敬、ですか?」
それはるうかにとっては意外な言葉だったが、頼成は電話の向こうでとても嬉しそうにその言葉を繰り返す。
『そう、尊敬。俺はあんたに憧れているのかもしれない。だから、なのかもな。未だにあんたに触れると変に緊張する。俺みたいなのが簡単に触れていいのかってな』
「そんなこと考えていたんですか」
るうかは呆れたような納得したような不思議な気分で頷いた。そしてそっと、それこそそうっと小さな声で囁きかけるように言う。
「いいと、思います。槍昔さんなら。私は……あなたになら、触れられてもいいと思っています」
それはるうかにとって精一杯の言葉だった。るうかは決して恋愛経験の豊富な方ではない。幼い頃は少女漫画で見るような恋というものに憧れを抱いたこともあったが、高校生になって現実が分かるようになってくると逆に恋愛沙汰には縁遠くなった。祝が言っていたように理紗が周囲の男子を牽制していたせいもあったのかもしれないが、るうか自身が異性にそれほど関心を持っていなかったのだ。それが頼成と出会って改めて恋や愛という感情と向き合うことになり、そしてやっとそんな言葉を頼成に対して告げることができた。
るうかは電話の向こうの相手に気付かれない程度にそっと息を呑む。頼成は少しの間沈黙を保っていた。その間が5秒、10秒と続きるうかが少しだけ不安になった頃、彼はわずかに低い声でとても短い言葉だけをるうかに届ける。
るうかはそれを聞いて静かに赤面し、小さく唇を震わせた。頼成がふっと笑いながら言う。
『じゃ、あとは今夜また、同じ夢で。おやすみ、るうか』
おやすみなさい、と返すことができたのかできなかったのか。それすら曖昧なままにるうかは通話の切れた携帯電話を持ったままぼうっと壁を見つめる。その目尻から一筋、透明な涙が流れた。
『るうか、愛してる』
その一言がどうしてこんなにも切ないのか。
今のるうかにはまだその理由が分からなかった。
執筆日2014/02/05




