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「るうかさん、あなたも薄々気付いているとは思いますけど、私は“一世”の本当の妹ではないんです」
地下鉄駅までの道程で、佐保里はそんなことを語り始める。るうかは黙ってそれを聞いていた。
「鈍色の大魔王にも似たような眷属がいますね。緑色の魔術師の名で知られている彼も、きっと私と似たようなものなんでしょう。遊戯の指し手として色々な制約のある“一世”の代わりに手を汚すのが私達です。そういう意味では私は落石くんのことをどうこう言えやしないですね」
るうかの歩調に合わせて歩きながら、佐保里は滔々と喋り続ける。るうかが何の反応も返さなくてもお構いなしの様子だ。しかしるうかも思わずその話に耳を傾けている。
「情報収集のためには自分の身体も使います。危険な目に遭うこともあります。けれど“一世”は決して助けてくれたりはしないです。それは彼の職分を逸脱する行為になりますから。だから私はいつも1人で、この世界をより良く……いいえ、より堕落した快楽の泥沼と化すように仕向けてきました」
「……えっ!?」
さすがのるうかもぎょっとして佐保里を見る。佐保里はにやりと笑いながら「意外でした?」と首を傾げてみせる。
「“一世”の遊戯の焦点は“どちらの世界がより多くの人間に選ばれるか”です。良い世界が必ずしも選ばれるわけではないでしょう? 私の“一世”が考える“より多くの人間に選ばれる世界”は怠惰で緩慢としていて、どれだけ惰弱な人間でもそのぬるま湯の中で適当に心地よく暮らしていくことができる……そんな世界です。何の発展も展望もなくていい、ただだらだらと生きていければそれでいい。とても楽な世界です。だから私はこちらの世界で人々に快楽を与えます。楽しくふわふわと生きていけるように、難しい問題なんて忘れて状況に流されながらそれなりに日々を面白可笑しく送っていけるように。楽しい話題を振りまいたり、時に自分の身体を使って快楽の提供をしたり」
佐保里が歩みを進める度にたゆん、とその胸元が揺れる。わざと胸元に視線がいくように作られた服を着て、彼女は道行く男達の視線をその胸に集めて歩いている。るうかはその行為をどうこう言うつもりはなかったが、ただひとつどうしても言いたいことがあった。
「そんなの、何にも楽しくないです」
「そうですか?」
佐保里の切り返しは素早く、るうかは一瞬たじろいだ。楽しくふわふわとした暮らし、それは一体どのようなものだろう。“天敵”に怯えなくてもいい暮らしのことだろうか。テストの結果くらいで一喜一憂して、親しい友達と楽しく寄り道をして帰るような、そんな些細な煌めきのある毎日のことだろうか。そう考えるとそれは決して悪いものではないように思えてくる。そもそも、あの夢の世界を知るまではるうかにとっての日常はこちら側にしかなかったのだ。
「あなただって以前はこう思っていたんじゃないですか? このまま穏やかに日々が過ぎて、うまく大学に入って楽しい学生生活を満喫して、どこかに就職して……それから好きな人と結婚して子どもが生まれて家庭を作って。そんなありふれた幸せを願っていたんじゃないですか?」
るうかは佐保里の言葉を否定できない。勿論、その幸福がたやすく手に入るものでないことは分かっている。大学に入るためにはたくさんの勉強をしなくてはならないし、就職だって簡単なことではない。この国は長らく不景気で、この日河岸市にも職にあぶれた若者が大勢いる。そんな現実を知っていてもやはり夢を抱かずにはいられない。るうかも考えたことがないわけではないのだ。例えばこの先頼成とどんな風に付き合っていくのかだとか、その先に未来へ繋がる選択肢があるのかどうか、だとか。
夢の世界に存在する“天敵”やそれを生み出す仕組み、生み出さないための仕組みの理不尽さを知ってしまった分、こちらの世界の生易しさが胸に沁みることがある。平穏な日々が痛い程愛しくなることがある。
黙ることしかできなくなってしまったるうかを、佐保里は意外な程に優しい瞳で見つめていた。まるで可愛い妹を見るようなその眼差しに気付き、るうかはそっと顔を上げる。穏やかな瞳がるうかを見てふっと細められる。
「そうですね、私にも少しだけ分かる気がしてきました」
「え? ……何が、ですか」
「落石くんや槍昔くんがあなたに惹かれる訳が。あなたはとても純粋で、目の前の問題を澄んだ目で見つめることができている。こんな私の言葉にも素直に耳を傾けてくれている」
辛いでしょう? と佐保里は眉根を寄せながら微笑んだ。彼女はあくまで優しく、優しく言葉を紡ぐ。
「あなたはとても正直で、目に映る全てをそのまま受け容れることができる。だから私や、たとえば鈍色の大魔王の言葉にすら耳を貸してしまう。あなたにとって毒のある言葉を遮断することができないでいる。それでも、あなたはこのまま夢を見続けていられますか?」
「今は、まだ」
るうかはすぐにそう答えた。佐保里が少し驚いたような表情で彼女を見るが、るうかはそんな佐保里に対して敢えて微笑みを返してみせる。
「佐保里さんの言うことも分かります。でも、今の私にとってはどっちの世界も大事です。夢を見るのをやめるなんて、そんな気はさらさらありません」
「……」
佐保里の顔から一瞬だけ全ての表情が抜け落ちた。人形のような目で彼女は前を向き、そしてその柔らかそうで綺麗なピンク色に塗られた唇を薄く開く。
「大事?」
囁くようなその声にも表情はない。しかし、佐保里の頬は少しずつ笑みを浮かべて歪んでいく。
「どんな世界だって、やがては終わってしまうのに」
「……どういう意味ですか」
「言葉通りですよ」
佐保里は元の笑顔を取り戻しながらるうかへと視線を返す。「どれだけ高度な文明もいずれは滅びを迎えます。それは最早歴史の……宇宙の摂理とも言えるでしょう」とそんなことを言いながら彼女は軽い足取りで通りを歩いていく。
「人間の一生なんて歴史の中のほんの一瞬にすぎないのに、それでどうして世界が大事だなんて大それたことを言えるんでしょうね?」
「私は私の過ごしている時間や空間を大事にしているだけです。それが世界だとか、そこまで大きな規模では考えていません」
「もしも全ての人間があなたみたいに自分の生きる場所を素直に慈しむことができるのであれば……」
そこまで言って佐保里はぱた、と足を止める。思わずつられて足を止めたるうかに、佐保里は困ったような笑顔を向けた。
「るうかさん、せっかくのお話の途中ですけどちょっと大変なことになっているみたいですよ」
え、とるうかは辺りを見回した。人気の少ない夕刻の通りに行き交う人々が皆足を止めてるうか達を取り囲んでいる。るうかが気付いてぎょっとすると、佐保里は持っていた小さなハンドバッグにそっと右手を差し入れた。
「ねぇ、るうかさん。やっぱり落石くんと付き合うのは危険だと思いますよ?」
「どういう、意味ですか……?」
るうか達が気付いたことに気付いたのだろう。2人を取り囲んでいる人間達が少しずつ距離を詰めてくる。その格好は様々で、スーツを着たサラリーマン風の男性から学生服の青年、近所を散歩している老人のような格好をした40代程の男などよくよく見れば奇妙な具合にバラバラに、そしてそのことが逆に不思議な統一感を持ってるうか達へと迫ってくる。数えてみれば計6人。プロの方々ですよ、と佐保里が囁いた。
「まったく、落石くんったら。一体どんな女性に手を出してしまったんでしょうね?」
「えっ……あの」
「大丈夫ですよ、るうかさん。今回は私があなたを助けてあげますから」
特別ですけどね、と微笑んで佐保里はハンドバッグに手を差し込んだまま辺りの男達へと視線を巡らせた。
執筆日2014/02/05




