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理紗の住む学生会館を出たところでるうかは一度顔を伏せて溜め息をついた。彼女の話から推測される事実はつまり、彼女こそがあの虹色の領地を治める女王であるということだ。そんな偶然があっていいものかどうか悩むところだが、彼女の様子を見れば悠長にもしていられない。虹色の女王は色のない騎士に命じて治癒術師を粛清する。しかし今、あの国には治癒術に関係なく人間を“天敵”へと変えてしまう危険な黒い蝶がいるという。るうか達が夢の世界で出会った騎士は予想外のその事態にも冷静に対処していたようだったが、この状況が長く続けばやがて女王の立場にも影響が出ることだろう。
何しろかの国の体制はひどく危うい天秤の上に成り立っている。治癒術師を殺す代わりに“天敵”が発生する可能性をゼロにすること。それがかの国を“平穏の国”たらしめている最も重要な原則だ。それが揺らげば国が揺らぐ。色のない騎士に粛清の命令を下す虹色の女王は崩れた平穏を前に一体どのような立場に置かれるのだろうか。気になることはまだある。理紗自身が夢の中での出来事をあまり正確に記憶していないらしいということだ。るうかは夢の世界においても自分が舞場るうかという人間であることをはっきりと認識している。しかし理紗はどうやら違うようだ。彼女は言った。「仮面が顔から剥がれない」と。あれは一体どういう意味なのだろうか。
いずれにしろ、今夜の夢ではその辺りのことも含めてあの騎士に尋ねてみる必要がありそうだった。そしてできることならば虹色の女王が住む城へと赴いて、それが理紗であるかどうかを確認したい。黒い蝶のことも勿論気になるが、るうかにとっては友人の安らかな眠りの方が何倍も大切だった。
そうやって腹をくくったるうかが地下鉄駅へ向けて歩き出したとき、ふわりと優しい花の香りが鼻をくすぐる。何の匂いだろうか。ふとそう考えたるうかの目の前に、いつの間にか黒髪を肩の少し下の辺りまで伸ばした女性が立っていた。
「ごきげんよう」
すまし顔でそんな挨拶をする彼女、浅海佐保里はいつか頼成達の通う大学の構内で会ったときと同じ日本人らしい容貌で、しかしまるで人間離れした雰囲気をまとってそこに立っている。るうかは一瞬息を呑んだが、すぐに眉を引き締めて佐保里を睨んだ。何しろ、彼女はあの黒い蝶に何か関係している可能性が高いのだ。
「久し振りですね」
彼女と最後に会ったのは夢の世界だった。“天敵”を操る彼女との戦闘は苛烈で、るうかにとっては苦い記憶でもある。あの時もし湖澄が助けに来てくれなければ、るうかはもう二度とあの夢の世界へ行くことはできなくなっていただろう。そう、こちらの世界で生まれたるうかはあちらの世界で死んでしまえばもうその夢を見ることはできなくなる。
「そんな怖い顔をしないでください。こちらの世界では私はあなたの味方ですよ」
佐保里はそう言って胡散臭く微笑んだ。どこかで見たような笑顔だと思えば、それは佐羽のそれによく似ている。るうかは細く息を吐き出しながら言う。
「意味が分かりません」
「あなたがこちらの世界で幸せになってくれればそれでいいということです。夢の中の勇者だなんて、普通の女子高生であるあなたには荷が勝ちすぎてはいないですか?」
辛いなら辞めればいいだけのことなんですよ、と佐保里は優しい声で言う。やがてるうかは彼女から漂ってくる仄かな香りの正体に気が付いた。ラベンダーの香りだ。心を落ち着かせるその香りも今のるうかにとっては危険信号としか感じられない。
「どうしてあなたがここにいるんですか」
最大限の警戒心をむき出しにして自分を睨むるうかに、佐保里はさすがに苦笑して困ったように首を傾げる。そしてあろうことか、はっきりとこう言った。
「ずっと後をつけていたんです。あなたを守るために」
「……守る?」
「落石くんのことが学校で噂になったんでしょう? ふふ、あなたの高校には私のお友達が何人かいます。言ってしまえば情報源ですね。落石くんはこの街では有名な下衆野郎ですから、恨みを抱く人間も多いんです。そうなるとあなたの身も少しは危険かと思いまして」
「なんであなたがそんなことを……」
「あなたはこの世界では何の罪もない女の子だから」
にこり、と佐保里は優しい笑顔で告げる。
「私の役目は行動に制限のある“一世”の代わりにこの世界の希望を守ることです。無辜の少女が馬鹿な男に振り回されて不幸な目に遭うことを見過ごすわけにはいかないですよ」
「つまり、落石さんとは正反対っていうことですか」
「理解が早くて助かります。そういうことなんです」
佐保里が頷くと彼女の黒髪がするりとその肩に流れる。るうかの髪はまとまりのよくない癖毛で、そんな些細なことですらいちいち癇に障った。るうかは改めて自分が佐保里を敵視していることを確認する。
「それで、だからってどうしてあなたが私を守るだなんて話になるんですか」
るうかはそう言いながら再び駅の方角へと歩き出した。佐羽の一件による危険があるかはともかく、日が暮れる前に家に帰って夕食の準備をしなければならない。佐保里はるうかの歩調に合わせて歩きながらまんざらでもない様子で答える。
「私はあなたのことが嫌いではないんですよ。向こうの世界では勇者ということで邪魔な存在ではありますけど、あなたのことそのものは嫌いじゃないんです」
「はぁ、そうですか」
「ところで、あなたは落石くんのことは好きですか?」
え? とるうかは歩きながら佐保里に聞き返す。
「なんですか、いきなり」
「ちょっとした興味です。ちなみに、私は大嫌いです」
「……私は、嫌いじゃないです」
るうかが答えると佐保里はやっぱりという顔をしつつも理解できない様子で首を傾げた。
「不思議です。どうしてあんな男を嫌いじゃないなんて言えるんですか?」
「あんな男って……」
「彼、大学に入ってすぐの頃に私のことも口説いてきたんですよ。まぁあの時は私も彼のことを探るためにわざと誘いに乗ったんですけどね。彼はこの世界でそんなことばかりしています。これまであなたはそれをほとんど知らなかったんでしょうけど、今回のことで少しは分かったでしょう? それでも、彼を嫌悪せずにいられるんですか」
佐保里の声は少しだけ笑っていて、そして少しだけ真剣だった。るうかの横に並んで歩きながら。彼女は横目でじっとるうかの表情を観察している。るうかの真意がどこにあるかを見極めようとしている。だからるうかは心からの言葉を探し、そして答えた。
「落石さんがこの世界でしていることは許されないことだと思います。でも、やっぱり私は落石さんが嫌いじゃないです。槍昔さんとはまた違う意味で好きです」
「……罪を憎んで人を憎まず、ですか?」
「そういうのともまた違う気がします」
佐羽がどれだけの非道をしていても、るうかにとっての彼はあの繊細で仲間思いの彼なのだ。それは彼がるうかや頼成だけに見せる特別な姿なのかもしれない。それは彼の本性ではないのかもしれない。彼の本質は外道であるのかもしれない。しかし、それでも。
「私にとっての落石さんは、私がいつも見ている落石さんなんです」
彼はいつも微笑んでいるが、どこか不安定で脆い。破壊の力を嬉々として振るいながら、笑顔の裏で虚しさに喘いでいるように見えることがある。その寂しさを、るうかや頼成にだけ垣間見せることがある。
「あなたの目は、常にあなただけの目なんですね」
少しだけ腑に落ちたという様子で佐保里が頷いた。なるほど、と彼女は小さな声で呟く。少し薄くなったラベンダーの香りがまたるうかの鼻をくすぐった。
「彼はこの世界においては毒でしかないのに、この世界に生まれたあなたが彼を肯定するのはとても不思議ですね」
「……どっちの世界で生まれたとか、どっちの世界にとってどういう存在だとか、私にはあんまりよく分かりません」
「そういうものかもしれないですね。こういったことにこだわっているのは、この遊戯の指し手かそれに近い者だけなんでしょう。あなたは重要な駒ですけど、やっぱりただの駒でしかない」
佐保里はふふっと笑ってるうかを見やった。その表情は意外な程に柔らかい。
「向こうの世界ではそうもいかないですけど、こうやってあなたとゆっくりお話ができるのは嬉しいです。私にはない考え方をするあなたの言葉をもっと聞きたいですね」
「……浅海さん」
「佐保里でいいですよ。私もるうかさんと呼ばせてもらいますから」
るうかは小さく口を尖らせ、不審感を隠しもせずに佐保里を見る。すると彼女はますます楽しそうに微笑んでるうかを見つめ返すのだった。
執筆日2014/02/05




