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結局、るうかは午後の授業をサボった上に帰りのショートホームルームの時間になっても教室に戻らなかった。その方がいいと祝に勧められたのである。そして他の生徒があらかた帰った後に荷物を取りに教室へと戻った。するとそこには静稀が1人、本を読みながらるうかを待っていた。
「あ、おかえり」
彼女は特に表情を変えることもなくごく普通の口調でそんな挨拶をする。待っていてくれたことについてるうかが礼を言うと、気にしないでと彼女は笑った。
「それに、用もあったし」
「何?」
「理紗、今日休んでたでしょ。先生も何も言ってなかったし気になるから帰りに寄っていこうかと思って。るうかも来ない?」
「あ……」
理紗がサボりであることは祝から聞いて知っている。そして恐らく彼女がるうか達には心配を掛けたくないと考えているだろうことも簡単に想像できる。しかし、それでもるうかは静稀の申し出に頷いた。
「うん、行く。心配だもんね」
「よし、じゃあ行こっか」
静稀は本を閉じると、ぽんと膝を叩いて椅子から立ち上がった。
地下鉄を利用するるうかに合わせて静稀は自分の自転車を学校の駐輪場に置き去りにしたまま理紗の家まで行くという。そこまでしなくても、と言ったるうかに対して静稀は少しだけ怖い顔で首を振った。
「駄目。今日のるうかは危ない」
「大袈裟な」
「いいからつべこべ言わないで一緒に地下鉄使お」
理紗の家はるうかが普段利用している路線ではない地下鉄沿線にある。学校からの距離は時間にして約40分といったところだろうか。3人は同じ中学の出身であるが、理紗は高校入学と同時に家を離れて独り暮らしを始めていた。何でも、家族が何かの事情で県外に引っ越さなくてはならなくなったらしい。この街を、というよりるうか達と離れたくなかった理紗は1人でこの街に残ることにしたのだった。
理紗が住んでいるのは朝食夕食と大浴場完備の学生会館で、洗濯機こそ共用だが小綺麗で住み心地の良さそうな物件である。門限などの制約は勿論あるが、理紗はそこを充分に気に入っているようだった。独り暮らしの気安さからか何度かるうか達を部屋に招いてくれたこともあり、るうか達も彼女の家までの道順を記憶している。それでも実際に家まで行くのは約半年ぶりだった。
見覚えのあるクリーム色の壁の建物、その玄関に掲げられた学生会館の名前を確認してるうかと静稀はガラス扉を押し開けて中に入る。そこから先はオートロックの自動ドアになっており、静稀が代表して近くのインターホンから理紗の部屋番号を呼び出した。チャイムが鳴ってしばらくしてから自動ドアが開く。何の応答もなかったが、開けてくれたということは入っていいということなのだろう。るうかと静稀は軽く顔を見合せてから中に入った。
理紗の部屋は2階にある。エレベーターを使うほどでもないので階段で上の階へと上がったるうか達はすぐに理紗の部屋の扉の横に据え付けられたインターホンを鳴らした。
「理紗ちゃん、私。るうか。静稀ちゃんもいるよ。入っていい?」
るうかが呼び掛けるとすぐにがちゃりと音がしてドアが内側から開かれる。そこにはパジャマのままで目の下に隈を作った理紗がぶすっとした顔で立っていた。心なしか目の焦点が合っていない。ひどく疲れたようなその様子にぎょっとしながらも、るうか達はひとまず彼女の部屋に入った。
そして驚く。以前来たときには綺麗に整頓されていた部屋の中は乱れ、飲み終えたペットボトルやコンビニ弁当の空パックが玄関の横に積み上げられてちょっとしたオブジェを形作っていた。彼女好みの可愛らしいぬいぐるみやクッションが並べられていた淡いアイボリーのソファの上には脱ぎ散らかした制服や彼女の私服が無造作に載っている。部屋の突き当たりにある大き目のテレビの前には据え置きのゲーム機が置かれ、画面にはプレイ中のゲーム画像が映し出されていた。
「ゲームしてたの?」
静稀ができるだけ軽めの声で尋ねると、理紗は小さな声で「うん」と頷く。そしてどんよりと曇った目でゲーム機の前の床に座り込んだ。そんな彼女の周囲には何本ものゲームソフトが散乱している。そのジャンルはRPGからアクション、テーブルゲームと様々で、どうやら随分と長い時間をゲームに費やしていたことが見て取れた。今画面に映っているのは少し古いRPGで、確かるうかも中学生の頃にプレイした記憶のあるものだった。どうしたものかと悩んで声を出せずにいたるうかの足元で、理紗がぽつりと呟くように言う。
「ねぇ、勇者ってさ。なんで世界を救ったりするのかな」
「……え?」
ゲームの話だろうか。るうかの記憶が確かならば、今理紗がプレイしているのは異世界からやってきた青年が光の勇者となって世界を救うという物語だったはずだ。しかし理紗の目は画面ではないどこかを見ている。
「あたしの世界を救ってくれる勇者はいないのかな」
「……理紗?」
「るーか、静稀ちゃん、あたし」
そこまで言って、理紗は突然わっと泣き出した。静稀がすぐに彼女の身体を抱き締め、るうかは横から彼女の顔を覗き込む。黒く大きな瞳は充血し、次から次へと溢れる涙がぼたぼたと血色の悪い頬を伝って絨毯へと落ちていく。理紗は嗚咽を漏らしながらるうか達に訴えた。
「あたしっ……怖い夢を、見るの。夢を見るのが、怖いの。だから、寝ないで、ゲームして、寝ないで、寝ないようにして、寝たらまたあの夢を見ちゃう……!」
「理紗ちゃん……?」
夢、という単語がるうかの心に引っ掛かる。まさか、理紗も向こうの世界のことを夢に見ているというのだろうか。確か春頃に理紗から彼女の夢についての話を聞いたことがあった。そのとき彼女はとても楽しそうな様子で夢の内容を語ったものだったが、今はまた別の夢を見ているということなのか。
「……夢」
理紗の身体を抱きかかえながら、静稀もぽつりとその単語を繰り返す。彼女は3年前、兄である湖澄から“続き物の夢”に関する忠告を受けたことがあったと、以前るうかに話していた。静稀本人はそのような夢を見たことはないらしいが、今の理紗の様子を見てその忠告を思い出したのだろう。そして彼女はるうかへと視線を合わせる。
静稀は何も言わなかった。何かを言いたそうにしながらも何も言えないでいるようだった。だからるうかは自分からそっと理紗へと問い掛ける。
「理紗ちゃん、怖い夢って……毎晩?」
こくり、と理紗は頷く。るうかはさらに質問を続ける。
「それは前の晩に見た夢の続き? 理紗ちゃんは夢の中で眠って、起きたら自分のベッドにいて……っていうことを繰り返しているの?」
「……るーか……?」
どうして分かるの。理紗はそう言ってまたぼたぼたと涙を落とす。るうかはほとんど確信しながらも重ねて彼女に問う。
「前に言っていた、よく楽しい夢を見るっていうのも……もしかして同じ? ずっと繋がっている夢なの?」
「初めは怖くなんてなかった」
静稀に抱き締められながら、とても頼りない様子で理紗は答える。楽しい夢だった。何でも思い通りになる夢だった。だから夢だと思っていたし、それを毎晩見ることのできる自分はすごく得をしていると思っていた。
「でも、でもね。そのうちに気付いたの。夢の中のあたしはあたしじゃないみたい。夢を見ているのはあたしだけど、まるで違う人になったみたい」
仮面が顔から剥がれないの。あたしはあたしが誰だか分からなくなるの。そしてあたしは人殺しになったの。理紗がそう言って、静稀が一瞬身を硬くした。人殺し? と彼女が思わず問い掛ける。
理紗は小さく首を横に振った。あたしがやったんじゃない。
「命令を、したの。よく覚えていない。けど、それは誰かを殺せっていう命令だったの。国の平穏を守るために……それが必要で。血のついた鎧を着た騎士がいて、あたしは……あたしは……」
「理紗ちゃん」
るうかは思わず理紗の肩を掴んでいた。それはつい昨夜聞いたばかりの話だ。女王が騎士に命じて治癒術師を粛清することにより“天敵”の発生を未然に防ぐことで保たれている“平穏の国”。まさか、理紗の夢はあの国に関わっているのだろうか。そして騎士にそれを命じる立場にあるということは、おそらく理紗は。
「……」
るうかはほとんどそれが真実だと気付いていながら、それを理紗本人に確認することはしなかった。確証がない上にここでるうかがその話を切り出すのは唐突すぎるからだ。やがて理紗の涙が落ち着いてきた頃、静稀が小さく溜め息をつきながら言った。
「理紗、今夜は私がここに泊まるよ。学校はともかく、そんなんじゃ倒れちゃう」
「静稀ちゃん……」
「理紗が怖い夢を見ているようだったら起こしてあげるから」
静稀はそう言って優しく理紗の頭を撫でた。理紗はうんと頷きながら静稀の胸に顔を埋める。静稀はそんな理紗を優しくあやすようにしながらるうかをじっと見つめた。
「るうか」
「……え?」
「さっき理紗が言ったこと、聞いてたよね」
「……何のこと……?」
「『あたしの世界を救ってくれる勇者はいないのかな』って、理紗はそう言った」
静稀の強い瞳が揺れていた。彼女は3年前にるうかが湖澄を助けたと未だに信じている。確証など何もないはずなのに、彼女の中ではそれが真実になっているのだ。そして夏休み前にるうか達が湖澄を捜し出したことで彼女は3年ぶりに兄からの連絡を受けることができた。そのことが静稀のるうかへの期待をより確かなものにしてしまったのだろう。
「きっと、るうかはなれる。お願い、理紗の勇者になってやって」
夢の世界のことなど何も知らないはずの静稀にそう言われ、るうかは答えに迷った。勿論、できることであれば理紗を助けたい。彼女を恐ろしい夢から解放できるものならそうしたい。しかしそれは果たして可能なのだろうか? 頼成辺りに尋ねてみれば、あるいはその方法も分かるかもしれないが。
「お願い、るーか……」
いつもとは打って変わってか細い理紗の声がるうかの背を押す。るうかは覚悟を決めて頷いた。
「分かったよ、理紗ちゃん。私が……私が理紗ちゃんのところに行くから。夢の中で、理紗ちゃんを助けるから」
高校生にもなってそのような非現実的な話をしても普通であれば大した慰めにはならないのだろう。しかしるうかと理紗は同じ夢を共有していた。2人は互いにそのことを知り合ってはいないが、それでも彼女達自身がそう認識している以上は、るうかの言葉も真実味を帯びる。理紗はまだ涙の浮かんだ瞳で少しだけ笑うと、そのまま気を失うようにかくりと眠ってしまった。静稀がはぁと溜め息をつく。
「なんか、妙なことになっちゃったねぇ」
「……静稀ちゃん、理紗ちゃんのことお願いね」
「うん、うちは大丈夫。それよりるうかこそ1人で帰れる? 大丈夫?」
「大丈夫だよ、まだそんなに遅い時間でもないし」
秋も近いとはいえ外はまだ明るい。るうかは心配顔の静稀を安心させるように笑って、理紗の部屋を後にした。
執筆日2014/01/28




