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午後の授業はあの担任の教師による数学だった。これまで授業をサボったことなどなかったるうかだったが、どうしても彼女と顔を合わせる気にはなれずにそのまま教室へは戻らず、校舎の端の方にある人気のない階段に腰をかけてぼうっと時間を潰すことにする。きっと彼女もそれについて深く追求してくることはないだろう。
るうかはポケットに入れていた携帯電話を取り出して、佐羽にメールを送ろうかと悩む。しかし一体何と送ればいいのだろうか。“あなたのせいで自殺した人のお姉さんから因縁をつけられました”とでも送ればいいのか。それとも“あなたと一緒にいたところを写真に撮られてクラスで浮いてしまいました”とでも? どちらにしても、ありえない。るうかは黙って携帯電話をポケットにしまう。
佐羽のしたことは誰からも許されはしないだろう。彼の事情を知るるうかでさえ、衝撃の過ぎ去った後にはその行為に激しい嫌悪感を覚えた。たとえそれが柚木阿也乃による命令であっても、実際にあの女性教諭の妹を貶め、騙し、犯し、死に至らしめたのは彼自身なのだ。ぽとり、とるうかの抱えた膝に涙の粒が落ちる。
彼女の頭はひどく混乱していた。佐羽のことは嫌いではない。彼がるうかや頼成に見せる優しさや、どこかかまってほしそうにしてくる言動、それに昨日の事件の後にわずかに見せた傷のある表情。それらがるうかの瞼の裏に蘇っては消えていく。彼は最早疑いようもなく外道だが、普通の人間でもあるのだ。そのことがなおさらるうかの心をぐちゃぐちゃに掻き回していく。
「凹んでるのな」
わずかにためらいがちな声が聞こえ、るうかはハッと顔を上げた。見れば彼女の座る階段の下にある踊り場に桂木祝が立っている。授業中、とるうかは呟いた。数学なんて別にいいよ、と赤点を取った彼はにこりともせずに言う。窓から差した晩夏の日差しに、彼の茶色の瞳が緑がかって光る。野球部らしく短く刈られた短い茶色の髪にも光がまとわりついていた。るうかは少しだけ眩しさに目を細めながら彼をじっと見つめる。
「どうしたの」
「呼び出し、何を言われたんだよ? お前は成績だって問題ないし、今朝の写真のことだってお前が被害者なのははっきりしてるだろ。なのになんであの先生はあんな怖い顔でお前を呼び出したんだ」
鋭い緑色の眼光がるうかを射抜くように見据えている。祝が何故それほどまでに真剣な表情でるうかの事情を聞こうとするのか、それがるうかには分からない。だから彼女は素直にそう言った。
「桂木くんには、関係のないことだよ」
「落石佐羽」
ぽつりと、しかしはっきりと彼はその名を口にする。そしてさらにこう続けた。
「黄の魔王、サワネ」
「……え?」
「まぁ、あいつが“こっち”で何をしていようが俺には関係ないし、どうでもいい。でも舞場がそれに巻き込まれるのは、俺は嫌だ。お前、魔王とどういう付き合いだよ」
「ちょっと。ちょっと待って」
るうかは慌てて立ち上がり、階段を駆け下りた。そして祝の目の前に立ってその目を見上げる。
「桂木くん、どうして。もしかして、桂木くんも夢を見ているの……?」
「……黄の魔王の噂はどこにいたって耳に入ってくる。鈍色の大魔王直属の破壊の申し子。“天敵”を相手にするには格段の腕前だろうが、恐ろしがって誰も近付こうとはしない」
祝はるうかを見ながらもどこか遠い目で夢の世界のことを語る。
「有名人だよ、あれは。勿論悪い意味で」
「……でも、落石さんは夢の世界では悪いことなんてしていないよ」
「そうかもしれない。でも、やっぱりあれは魔王だ」
祝がるうかを睨み、突然その両肩に自分の手を置いた。そして彼は光を受けて緑に輝く瞳をいっぱいに見開いてるうかに強い口調で迫る。
「あれから離れろ、舞場。こっちでも、夢でも」
「えっ……」
「赤の勇者、ここのところ随分噂が広まってる。アッシュナーク大神殿で獅子奮迅の活躍を見せた若い女勇者の話はその存在の珍しさもあってかなりの速度で世界中に伝わった。実際にお前の外見まで知っている奴はそう多くないだろうけど、下手をすればこっちの世界でもお前と魔王の関係を知っている奴がいたって不思議じゃない」
俺みたいにな、と付け加えて祝はるうかの肩から手を離した。そして彼は少しだけ目を伏せながら「分かってる」と告げる。
「お前と魔王はただの仲間なんだろう。お前の相手は、青の賢者だ」
「あっ……ええと……」
「何照れてるんだよ。そういう場合じゃねぇだろ」
「桂木くんが変なことを言うからだよ」
「……噂で聞く分には、賢者の方はまともそうだ。でもやっぱり黄の魔王とつるんでいるってことはもう信用ならない。舞場、頼むから面倒なことになる前に奴らから離れろ」
どうして、とるうかは声にはせずに心の内で祝に問う。どうしてそのようなことを言うのだろうか。彼がるうか達と同じ夢を共有しているということは分かった。佐羽の噂と今回の一件のせいでより彼を危険視し、友人であるるうかに忠告をしてくれたというのも納得がいく。しかしそこに頼成までが絡んでくるのはどういうわけだろうか。
「桂木くん」
るうかは彼をわずかに睨むようにして見ながら、先程とは逆に祝に対して強い言葉をぶつける。
「なんで桂木くんがそんなことを言うの。桂木くんは向こうの世界で何をしていて、どうして私達のことをそんなによく知ってるの?」
「口出しされたくないって風だな」
「面白くないのは確かだよ。だって、私は向こうの世界では桂木くんに会ったこともない。それなのに向こうの私のことを知られていたってだけでも恥ずかしいのに」
恥ずかしい? その言葉を繰り返して、祝は小さく首を傾げた。
「なんで恥ずかしいんだ。勇者なんて誉れある称号じゃないか。お前はあの世界で、人間を食う“天敵”とまともに渡り合える数少ない存在だ。英雄って呼ばれたっておかしくない」
「……桂木くん?」
「誇れよ、舞場。お前ならきっと1人でもあの世界を渡っていける。危険な連中とつるむ必要なんてない。どこかの町か神殿にでも定住して、近くに現れた“天敵”を倒していれば充分に食っていける。そうすればこれ以上奴らと関わる必要もないし、この世界でもきっと安全になる」
祝の目は真剣そのものだった。そしてるうかは彼の口振りからひとつの可能性に気付く。
「もしかして、桂木くんは……向こうの世界の出身?」
それは本当に賭けのような問い掛けだった。しかし彼は随分と向こうの世界の事情に詳しいようだ。普通なら、こちらの常識に慣れた者であれば、向こうの世界の危険な常識を簡単には受け入れることができないだろう。るうかにしても幾度もの死線を潜り抜けてやっと慣れてきたのだ。そして頼成や佐羽がいたからこそ彼女はあの世界で生き抜いてくることができた。
“天敵”のいる世界は過酷だ。人間を主食とする生物のいないこの世界で生まれ育った者であれば、あの世界で“天敵”と戦って生き抜いていくという過酷な生活を簡単に口にできるとは思えない。だからるうかは祝が向こうの世界の出身である可能性に思い至ったのだ。そしてもしそれが事実であれば、彼はこの世界にルーツを、家族を持たないということになる。頼成や佐羽と同じように、彼にとってはこちらの世界こそが夢であるということになる。
るうかの問い掛けに、祝はしばらくの間黙っていた。そして彼は小さく息を吐き、ふっと窓の外へと視線を転じる。
「そうだよ」
彼は突き放すように言った。いや、その横顔はむしろ寂しそうに見える。
「初めてこの世界の夢を見たのは5歳のときだった。何にも分からなかったガキの俺は何にも分からないままみなしごとして施設に送られて、なんでか分からないけどすぐに養子縁組で桂木の家に引き取られた。そしてたまたま家が隣で同じ年だった理紗と会って、今までずっと両方の世界を行き来してきた。ときどき分からなくなる、どっちが夢なのか。でも理紗と話していると思い出す。俺はこっちの世界の人間じゃない。こっちの常識では生きられない」
過酷な世界を知ってしまえば、そうでない環境でも緊張感から逃れることはできない。祝の言ったことはそういう内容だった。るうかは彼の言葉を黙って聞きながらその胸の内を思う。
「だから、私に落石さん達から離れろって言ったの? 私はこっちの世界で生まれた人間だから」
「勇者は一度“天敵”になったのがクローンとして再生された存在なんだろ。ってことは、向こうで一度死んでることになる。現実の世界で死ねば夢の世界でも死ぬんだから、今ここでお前が生きているならお前にとっての現実はこの世界だ」
すらすらと言ってのけた祝に対してるうかは一度目を閉じ、それから改めて目を開けて彼を見据えた。
「随分、詳しいんだね。向こうの世界の人はみんなそれを知ってるの?」
「……」
祝はるうかの方へと視線を戻して、そして小さく首を横に振る。
「向こうじゃ俺もそれなりの仕事をしているからな。嫌でも詳しくなった」
「それなりの仕事?」
「人には言えない。……ああ、舞場。魔王もそうだけど、俺のことを知った以上は俺にもあんまり近付かないことをおすすめするよ。あと……理紗には俺のこととか、夢の世界のこととか、黙っていてくれよな」
そう言って祝は苦く笑った。るうかは彼の事情など何も分からないものの、その笑顔に頼成や佐羽に似た雰囲気を感じて思わず頷いてしまったのだった。
執筆日2014/01/28




