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昼休み、未だ噂話のやまない教室の中で弁当を食べようとしていたるうかのところに担任の教師がやってきた。彼女は少しだけ怖い顔をして、るうかを廊下に連れ出す。そして今朝の写真の件で話があるから今すぐ資料室に来るようにと言い残してさっさと去っていってしまった。
資料室と言えば校舎の3階の階段下にある物置のことである。以前は小さな部活動の部室として使われていたらしいのだが、その部が部員不足により廃部となったために資料室として活用されるようになったそこは、実際の所ほとんど使われていない。どうしてそのような所で話をしなければならないのかと不審に思いながらも担任からの呼び出しとあっては仕方なく、るうかは大人しくまだ箸をつけていない弁当箱を片付けて資料室へと向かった。
ドアをノックするも応答はない。るうかは軋むドアをそっと開け、「失礼します」と小声で言いながら中に入った。そして一瞬びくりと身をすくませる。
窓も何もない、ただ古くなって使われなくなった資料や物品だけが無造作に積まれた部屋の真ん中に女性教諭が仁王立ちしていた。普段からあまり人相の良い教師ではないが、今はまた格別だ。般若も裸足で逃げ出しそうな凶悪な形相を前にるうかは逃げ出したい思いに駆られたが、事が佐羽絡みであることを思い出して事情を察した。
一体あの魔王は誰にどこまで手を出していたのだろう。まさか自分と15以上年の離れたこの女性教諭にまで手出しをしていたとは考えにくいが、彼ならやりかねないと思えなくもない。
るうかは今入ってきたドアを閉めながら、距離をとって教師と対峙する。すると彼女は開口一番にこう言った。
「舞場さん、あなたは落石佐羽の何なの?」
高圧的に、威嚇するように問い掛けてくるその様子は最早教育者とも思えない。ただの女としてそこにいる彼女を見ながら、るうかはどこか疲れた気分で答える。
「友達です。正確に言うなら、私の彼氏の友達が落石さんです」
こう言っておけば面倒はないだろう。そう思って少しは恥ずかしいと思いながらも真実を口にしたるうかに向かって、女性教諭は突然右手を伸ばした。その手はあろうことかるうかの胸倉を掴む。
「何するんですか!」
「友達? ふざけないでよ、あんな男の友達だなんて、見損なった!」
「先生!?」
「舞場さん、あなたはもしかして知らないのかもしれない。でもそれでも、あんな男と仲良く友達なんてやっていることが私にはもう許せないの。分かる? 分からない?」
分かるわけがない。佐羽のしてきたことは断片的には聞いているが、るうかが知っていることなどごく一部に過ぎない。そして答えないるうかに対して女性教諭はますます激昂する。
「分からないならよく聞いて。あの男は、私の妹を誑かしたの。私と同じに教師を目指して大学に通っていた妹に言葉巧みに近付いて、そしてひどい言葉を言って傷付けたの。妹はうちの家計のことを考えてアルバイトまでして、それで頑張って教科書なんかを買って、私が仕事で遅くなったときには晩御飯まで用意してくれていたのよ。そんな子に、あの男は何て言ったと思う?」
「先生、ちょっと待ってくだ」
「『君には教師なんて絶対にできない』って、あの男は妹にそう言ったの。『君は頭が良すぎるし要領もいいから、それができない人間の気持ちが絶対に分からないし分かろうともしない。だから君に教師をやる資格はない』。そう言ってあの男は妹を貶めたの!」
るうかは言葉を挟む余地すら与えられず、ただただ担任の教師の個人的な恨みを聞かされ続ける。
「それで妹はすっかり落ち込んで、大学に行けなくなった。バイトも辞めて、部屋に引きこもるようになった。それでも1人で勉強を続けていたのよ。教師になりたい、お姉ちゃんみたいに働けるようになりたいからって、勉強できない人の気持ちが分からないなら自分でも分からない問題にチャレンジして、そうやって勉強できない人の気持ちも分かるようになりたいって。そんな健気な妹に私はただ自分の体験を話したり、昔使っていた参考書をあげたりすることしかできなかった。そのうちしばらくして妹はまた大学に行き始めて、そしてそこでまた落石佐羽に会ったの」
女性教諭の顔から表情が抜け落ちた。染みを隠すファンデーションの色がいやに浮き上がって見える。目の下の隈が目立たないように明るい色を差していることが見て取れる。気を付けて手入れしているだろう唇は、それでもどうしようもないほどに乾いていた。一瞬にして生気を失った彼女の顔を見てるうかは胸倉を掴まれたまま息を呑む。教師は微かに口を開いた。
「落石佐羽は妹の努力を誉めた。そして自分と付き合ってほしいって言ったらしいの。妹は認められたことが嬉しくて、落石と付き合うことにした。落石は妹が欲しいものを何でも買い与えた。教科書も、アクセサリーも、洋服も。そして単位までも。そうして最後に落石はこう言ったんですって」
『君は一生懸命悩んで努力して立ち直った。でも本当はそんなことをしなくったって教師にはなれるんだよ。資格さえあればいいんだから。ね、こうやって単位すらもお金で買えるんだから、君の努力なんて何にも意味のないものだったんだよ』
君は本当に頭が良くて、愚かだね。馬鹿。佐羽はそう言って女性教諭の妹に高価な指輪と派手な下着を贈ったのだという。「お馬鹿さんにはよく似合うと思うよ」と、そんな言葉と共に。そして返す言葉すら失った彼女の妹に酒を飲ませ、ほとんど無理矢理にその身体を犯し、挙げ句にホテルの部屋に置き去りにしたのだという。彼女の妹はその翌日に大学近くの雑居ビルの屋上から転落して死亡した。
遺書はなく、ただその屋上には燃やされた教科書の束と派手な下着、そして煤で真っ黒になった指輪が残されていたという。全てを語り終えた女性教諭はやっと満足した様子でるうかの首元から手を離した。るうかはそのまま身体中の力が抜け、埃だらけの床に座り込む。
287。その数字の意味を今更ながらに思い知らされる。きっと佐羽はほとんど覚えていないのだろう。しかし確実に、女性教諭の妹はその287人の内の1人だったのだ。
そしてもし覚えていたとしても、佐羽は決してこの女性教諭に謝罪をしたりはしないし、亡くなった彼女の妹に対しても罪悪感などを抱くことはないのだろう。この世界で彼の前を通り過ぎていくのは死者も生者も等しく無意味な存在で、それこそただの盤面の駒にすぎないのだ。
項垂れたるうかを見て女性教諭は小さく溜め息をつく。思いを吐き出していくらか怒りは治まったのだろう。「あなたに言っても仕方がないということは分かっている」とその乾いた唇が言う。
「でも許せなかった。落石佐羽も、落石と仲良さそうに写真に写っていたあなたも。妹は死んだのに、どうしてあなたは生きているの」
「……先生」
「理不尽なことばかり言ってごめんなさいね。でも許せないの。私はあなたを許さない」
教師の目から一粒、二粒と雫が零れ落ちていく。佐羽がもたらした不幸が彼女に癒えない傷を深く刻みつけたのだ。きっとその傷は、昨日佐羽が背中に受けた傷よりも痛く、苦しく、そしてどれだけ長い時間をかけても完全に癒えることはないのだろう。
女性教諭はその場にるうかを残して資料室を出ていった。去り際、彼女は「あの写真は焼却炉に捨てておいたから」とそれだけを言い残した。るうかはスカートについた埃を払う気力すら湧かず、そのかび臭い部屋の中でしばらくの間茫然としていた。
執筆日2014/01/28




