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異世界での眠りが元の世界へと戻るための扉となる。どちらが夢でどちらが現実であるかはあくまでその夢を見ている個人によって異なる。故に、るうか達は実の所眠りを鍵として2つの世界を行き来しているのだ。
るうかにとっての夢の世界、そのうちの虹色の女王の領地にある小さな町で宿を取った彼女達は、ひとまず身体を休めることにした。彼女達をそこまで案内した騎士もまた同じ宿に部屋を取り、翌日に情報交換をする約束をした。何しろ彼は1人で“天敵”と戦ったのである。あるいは1人ではなかったのかもしれない。ただ彼だけが生き残ったのかもしれないが、るうか達は彼にそれを確かめることをしなかった。彼も“天敵”との戦いについては何も口に出さなかった。
向こうの世界での1日を終えてこちらの世界での1日を始める。るうかにとっては現実である世界の1日は夢の世界のそれと異なりとても規則的だ。起きる時刻を知らせるアラームの音、前日から用意してある高校の制服、毎朝さほど代わり映えのしない朝食。身支度を済ませて出掛ける時刻も毎日それほど変わりはしない。5分程度前後しても問題ないが、15分遅れると遅刻しかねない。その程度の自由だけが許された中で家を出て、いつもの地下鉄のいつもの車両に乗り、そしていつもの駅で降りる。毎日同じ道を同じ程度の速度で歩いて学校へ辿り着けば、いつもそこに置いてある上履きに履き替えていつもの教室へと向かう。
繰り返し、繰り返しだ。
教室の座席も変わらない。るうかはいつもと同じように自分の席に向かおうとして、そしてふといつもとは異なる感覚に気が付いた。
るうかが教室に入った瞬間に辺りの空気が変わったのだ。すでに教室にいたクラスメイト達の視線がるうかに集中している。それらは決して好意的なものではなく、どこからかクスクスという笑い声も聞こえた。そして敏感になったるうかの耳にはできれば聞きたくもないような卑猥な単語、下劣な文句が届く。
るうかの目はすでにその発端となったであろうものを捉えていた。それは教室の全面を覆う深緑色をした黒板に大きく目立つように張られた数枚の写真で、わざわざ拡大プリントをしたのだろう。遠目にもはっきりと分かるほどでかでかと張られている。その労力を何かもっと別の有意義なことに使えなかったのかと溜め息をつきながら、るうかはぼんやりとその写真達を眺める。
一体誰が撮ったものやら、それは昨日の地下街での事件を撮影したものだった。
亜麻色の髪をした優面の男性……佐羽と一緒にアイスクリームを食べているるうかの写真がある。佐羽が明るい髪色をした派手な化粧の女性に引っ叩かれている写真がある。そしてそんな佐羽に心配そうに寄り添っているるうかの写真がある。
るうかと共に歩く佐羽が黒髪の女性に背後から体当たりをされているような写真がある。地下街を出たところにあるアーケードの片隅で仲良く寄り添うように腰を下ろしているように見えるるうかと佐羽の写真がある。幸いなことにというべきか、佐羽の怪我についてはどうやら撮影されていないようだった。
「……るうか」
先に教室にいた静稀がそっとるうかに駆け寄ってくる。
「あれって、夏休み前に会った人だよね。どういうこと?」
「私が聞きたいよ。落石さんとアイスを食べに行ったのは確かだけど、なんでこんな写真が張られてるのかが分からない」
「……あの人、なんだか有名人らしいよ」
「有名人?」
るうかは怪訝な表情で聞き返した。そんなるうかの耳に聞えよがしな噂話が入ってくる。
「あれでしょお、落石佐羽? うちの高校でも孕まされて捨てられたって子いるらしいじゃん?」
「うちもお姉ちゃんから聞いたことあるー。大学で手当たり次第に女漁りして8股かけてたって」
「綺麗な顔してさ、すっごいよね。あたしあの人に捨てられて自殺したって人知ってる!」
「舞場さんってああいうのに引っ掛かるタイプだったんだー、意外ー」
「でもさ、結構そういう感じじゃない? 男なんて眼中にないみたいな顔してさ、やることやってるんだって」
「えー、でもどうせ捨てられるんでしょ。かーわいそ」
可哀想なのはどちらだか。るうかは聞こえてくる噂話によって大体の事情を把握し、溜め息をつきながら鞄を机の横に掛けた。
「面倒なことになったのは分かったわ」
「大丈夫? ……放っておいたらエスカレートするんじゃない?」
静稀は心配そうに言うが、るうかはひらひらと手を振りながら「ないない」と答えた。
「写真そのものは事実だけど、私は落石さんとはただの友達だから。落石さんのそういう噂も少しは知ってるし、今更びっくりもしないし」
「気を付けなよ。どうでもいいことで人の足を引っ張りたがる人間って必ずいるんだから」
「うん。静稀ちゃん、しばらく私にあんまり近寄らない方がいいかも。もし何かとばっちりで迷惑掛けちゃったら私、嫌だし」
「それは聞けないね。るかりんは私の大事な友達だから」
ふん、と鼻を鳴らして静稀は堂々と胸を張った。身長の高い静稀が姿勢を正すと実に凛として美しい立ち姿になる。るうかはそんな友人の勇姿に一瞬見とれ、それから小さく笑った。
「じゃあ、私もなるべく大人しくしてるよ。人の噂なんてその内消えるでしょ」
るうかは軽い気持ちでそう言ってその場のやり取りを終える。やがて始業のチャイムが鳴り、担任の教師が教室に入ってきた。そして黒板に張られたままの写真を見てわずかに顔をしかめた後、それを1枚ずつ乱暴に剥がして教卓の上に重ねて置く。それからその女性教諭は何事もなかったかのように朝のショートホームルームを始めた。
そしてまた、いつも通りの授業時間が過ぎていく。1限目はるうかの苦手な英語で、しかも運悪く当てられてしまった彼女は必死で教科書の英文を訳した。何しろ昨夜は佐羽の一件があったためにほとんど予習の時間を取ることができなかったのである。ところどころで小さなミスをしたものの、何とか無事に和訳を終えたるうかは一仕事終えた気分で席に座り直した。たったそれだけの彼女の仕草に、また何人かのひそひそとした会話がなされる。
「うわー、かっこ悪」
「ねぇ、スカート短くなってない?」
なってないわい。るうかは心の内でこっそり呟いた後、堪え切れずに大きく溜め息をついた。すると「大丈夫か?」と隣の席から控え目な声がする。
「なんか面倒臭そうなことになってるけど」
そう言って桂木祝はるうかに同情するように肩をすくめた。るうかは小さく口を尖らせながら、「まぁ正直面倒だね」と答える。
「でも、別にやましいことはないから」
「ならいいけどな」
「ああ、でも理紗ちゃんが知ったら怒り狂いそう……あれ? そう言えば今日理紗ちゃんまだ来てない?」
朝の騒ぎのせいでうっかり気付かずにいたが、本来ならこのような場合に真っ先に飛び出してきそうな彼女の姿がない。祝は机に頬杖をつきながら「あー」と顔をしかめて唸る。
「理紗、今日休み。朝俺んとこにメール来てた」
「桂木くんのところに?」
「昔からさ、あいつ学校サボりたいときは俺んとこに連絡寄越すの。ほら、舞場とか清隆とかには嘘も弱みも言えないっていうのか。格好つけたがりだからな」
「じゃあサボり……? 珍しい。何かあったのかな」
「……さあな」
祝はそう言うとるうかから視線を外して黒板の方を見やった。授業はいつの間にか進んでいて、教科書は次のページへと移っている。るうかは慌てて教科書をめくりながら、姿の見えない友人のことを心配した。サボりだというのなら体調が悪いわけではないのだろう。何かあったならるうか達に相談してくれればいいとも思うのだが、彼女の性格上それも難しいのかも知れない。昨日祝も言っていたように、彼女はどこか女王様のように振る舞いたがる癖がある。自分が輪の中心にあって、話題を振りまき、それで皆が楽しく過ごせれば一番良いと思っている節があるのだ。それは彼女の持って生まれた気質であり、比較的大人しいるうかや静稀にとってはそんな理紗を見ていることが楽しく、また彼女と過ごす日々の刺激も面白いものだった。そんな彼女が欠席するとは、本当に一体どのような事情があるというのだろうか。
朝の写真の件に理紗の欠席と気になることばかりが重なり、結局その日の英語の授業は半分もるうかの耳には入らなかった。
執筆日2014/01/28




