序章
あたしはこの国の女王様。この国はとてもとても平和で、全てがうまくいっている。気が付いたときにはそうだったから、あたしはそういうものなんだと思っていた。
だってそうでしょ。これは夢なんでしょ。あたしが夢を見ていて、それもすっごく楽しくて気分のいい最高の夢を見ていて、それが毎日毎晩続いているだけなんでしょ。そう思っていたの。
そう思っていたかったの。
でも本当は、何かが違うような気がしていた。都合がいいのは夢だから? 思い通りにしかならないのは夢だから? あたしがいつも幸せで、誰もあたしに逆らわないのはそれがあたしの夢だから?
じゃあどうして夢の中のあたしはいつも仮面で顔を隠しているんだろう。
どうして夢の中ではみんなあたしのことを違う名前で呼ぶんだろう。
最初は気が付かなかった。仮面も、違う名前も、それが自分の素顔で本当の名前だと思っていた。でも何度も同じ夢を見ているうちに気付いた。それ、あたしじゃない。あたしの顔はどこにいったの? あたしの名前はどこにいったの? あたしは誰?
「虹色の女王、ミアム様。どうかなさいましたか」
綺麗なお城のバルコニーでぼうっと外を見ていたあたしを、全身を真っ黒な甲冑で固めた騎士が見付けて声を掛けてきた。誰よそれ。そう言いたいのをこらえて、いや、こらえなくてもあたしは自然に口を開く。
「庭を眺めていたのよ。今日もイールテニップは平和で美しいわ。それも皆、貴方達がよく働いてくれているおかげね。礼を言うわ」
あたしの唇が紡ぐのは仮面の言葉で、騎士もそれが分かっているかのようにどこか白けた様子で頷く。「勿体ないお言葉です」だなんて格好つけた台詞を張り付けて、兜の面に細く作られたスリットから無機質な目でこっちを見て。
そこであたしはふと気が付いた。あたし、この騎士を知ってるかもしれない。
騎士はお城に何人もいるけど、みんな同じ鎧と兜で顔なんて見えないから見分けようとも思っていなかった。でも今、本当に細い隙間から見た目に見覚えがあった。ああ、でも思い出せない。
「貴方、名前は何と言うのかしら」
仮面の女王が気まぐれに尋ねる。騎士は一瞬だけ驚いて、そのせいで甲冑ががちゃんと鳴った。そして彼はとても言いにくそうに、つまり言いにくいという様子を見せながら、演技ではなさそうにこう言った。
「色のない騎士に、女王様に対して名乗ることのできる名はありません」
あたしはあの騎士が気になっていた。次の夜も、その次の夜も、あの騎士を捜してうろうろとお城の中を歩き回った。仮面の女王が何をしようとお城の人達は咎めたりしない。ここはあたしの夢の中で、全てがあたしの望むまま。あたしは自由。そう思っていた。
お城は広くて、何ヶ月ってここを歩き回っているあたしもまだ知らない場所がたくさんある。探険好きの女王様に、みんなは色々なことを教えてくれる。ここを曲がると庭園に出ますよ。こっちには秘密の中庭があるんですよ。あそこの塔に行くには地下を通るのが早いんですよ。迷路のようなお城であたしは何度も迷子になった。その度に誰かが現れて、あたしを玉座の間かあたしの部屋に連れ帰ってくれた。誰もあたしを見付けられないっていうことは一度もなかった。
ねぇ、もしかしてあたしは見張られているの? 仮面の女王が見てはいけないものがどこかにあるの? あの騎士に会えないのもそのせいなの? ねぇ、ねぇ、ねぇ!
あたしはある夜、バルコニーから庭に飛び降りた。自慢じゃないけどあたしの運動神経はどこかでぶっちぎれているんじゃないかっていうくらいに悲惨なもので、生まれてこの方体育は最低の成績しか取ったことがない。でも夢なら大丈夫じゃないかって、そう思ったけどやっぱり甘かった。あたしの身体は柔らかい芝生に叩きつけられて、骨こそ何ともなかったけどしばらく痛みで動けなかった。
でも、それだけの無茶をやった甲斐はあった。バルコニーのすぐ下にあった扉から慌てた様子で出てきたの、あの騎士が。
「ミアム様、どうなされたんですか!?」
演技じゃない慌てっぷりで、そこにあたしは一瞬どこかで見た誰かを重ねる。やっぱり、あたしはこの騎士を知っている。でもあたしはその時騎士の格好を見て悲鳴を上げた。
血が。
真っ赤な血が、その黒い甲冑をてらてらと光らせるくらいにべったりとついていた。騎士はあたしの悲鳴をその手で塞いで、そのまま元来た扉の中へとあたしを引きずり込んだ。そこは薄暗い部屋で、ベッドや棚なんかが揃った生活のできる空間だった。
「申し訳ありません、さぞかし驚かれたことでしょう」
騎士はそう言って本当にすまなそうにあたしに背を向ける。でも無駄だった。赤い血は彼の背中にもたっぷりとこびりついていて、茶色く変わっていくそれがぼろぼろと床に落ちるのが見えた。
「貴方は、怪我をしているの?」
仮面の女王はほとんどあたしの言葉でそう尋ねた。騎士は少しだけあたしの方を振り返って首を振る。
「いいえ。これは全て、敵の血です」
それであたしを安心させたつもり? あなたは人を殺したの? 何も言えないあたしに向かって騎士はゆっくりと頭を垂れた。
「ミアム様、どうか見なかったことにしてください。貴女は何も知らない、見ていない。ここで自分に会ったこともお忘れください。さもないと、自分は」
騎士は腰の鞘から剣を抜く仕草をしてみせた。あたしはどうしようもなく怖くなってその場から逃げ出した。それでいいんです、と後ろから騎士の声が聞こえた気がした。
それから何回目の夢だろう。あたしは女王として仕事をするように言われた。それができて初めてこのイールテニップ城の女王として一人前になれるんだって言われた。玉座に座って待っていたあたしの前に現れたのはまだ若そうな騎士だった。いや、どうやらまだ騎士になっていない見習いみたいだった。
あたしは傍らに置かれた剣を取って、その平らな面を騎士見習いの肩に当てる。
騎士叙任。それがあたしの女王としての仕事だった。そしてあたしの仮面は女王として彼にとても残酷な言葉を施す。
「貴方はこれより正式なる騎士としてこのイールテニップの王国のために働いてください。人を食らう“天敵”を生み出す悪しき者を粛清してください。そうしてこの国の平和をとこしえに守り抜くことを誓ってください」
今騎士になったばかりの彼はあたしを見て、深く頷きながらそれを誓った。この国のために、あたしのために、よく分からない誰かを殺すことを誓った。あたしは仮面の奥で震えた。
誰もあたしの言った言葉の意味を教えてくれない。“天敵”って何? 人を食らうってどういうこと? そしてそれを生み出す者っていうのは何なの? あたしの中で膨らむ疑問はついに抑えきれなくなって、あたしはある日あの部屋に行った。そう、バルコニーの下にある隠し部屋。そしてそこにはやっぱりあの時と同じく血塗れのあの騎士がいた。あたしは彼に向かって叫ぶ。
「貴方は誰!? 貴方達は一体何をしているの? どうして私は何も分からない女王なの!」
「ミアム様」
彼は驚いた様子であたしを見て、それから腰の剣に手を当てた。あたしを殺すの? こういうことに触れてはいけなかったの? ねぇ、夢の中で死んだらどうなるのかな。目を覚ましてそれで何もなかったことにできるの?
「助けて……」
あたしは怖くて怖くて、その場に崩れ落ちてしまった。騎士は慌てて剣から手を離し、あたしの身体を支えてくれる。なんだ、優しいんじゃない。それでもあたしを殺すのがあなたの役目なの?
「仮面の女王である限り、貴女は疑問を持ってはいけない。真実に触れた時、貴女は我々の粛清の対象になる。それはお分かりいただけているでしょう?」
騎士が諭すようにあたしに語り掛ける。それはあたしも薄々分かっていた。でも、それでも怖い。知らないことが怖い。知らないまま、あたしは騎士達に誰かを殺させているの?
「貴方も女王の命令で誰かを殺したの」
「それが色のない騎士の役目」
「どうしてそんなことを」
「この国に“天敵”を生まないため。この国の平穏を守るため。たとえそれが、血塗られた業の上に成り立つ偽りの平和でも、それで貴女が笑って過ごせるのならそれで良かった」
騎士はそこまで言うと兜を取った。あたしは愕然とする。ほんのりと緑がかった茶色の目に、丸刈りの茶髪。知ってる、確かに見たことがある。そう、確か入学した頃にはよく注意されたとか言っていた、その髪の色。生活指導の先生はそんなに厳しいことは言わなかったけど、部活では随分面倒だったみたい。地毛だって言っても信じてもらえなくて、黒染めしてこいって言われたって愚痴っていた。覚えている。覚えているのに、それが誰だったのかが思い出せない。あたしの顔に張り付いた仮面があたしの記憶を邪魔している。
「助けて。分からない。貴方は誰」
あたしは怖くて、思い出せないことが苦しくて、騎士の鎧を力任せに叩き続けた。騎士は黙ってあたしの訴えを聞いていた。その目がとても悲しそうで、あたしはしまいに泣きじゃくった。
ねぇ、あんた一体誰なのよ?
執筆日2014/01/03