第五十二話
「敵の手は見え透いています」
悠菜は言う。
「第四層まで、いつ落盤するかわからない作りにして、敵である私達の混乱と警戒を誘う―――それだけなんですよ」
「つまり?」
ルシフェルが訊ねた。
「どういうこと?」
「……ルシフェルちゃん」
悠菜が気の毒そうな目で言った。
「アタマは使わなくちゃダメだよ?」
「ケンカ売ってるの?」
「そうじゃなくて―――私達が主力部隊を第二層に降ろせない理由は?」
「第二層以下で落盤が発生した場合、さらに被害が」
「なら」
「なら?」
「事前に落盤を誘発させたらどうなるの?」
「事前に落盤を……誘発させる?」
「そう」
得意げに頷く悠菜の顔を見ながら、ルシフェルは少しだけ考えて、
ぽんっ。
と手を打った。
「成る程?」
「わかってくれた?」
「つまり、落盤を先に起こすことで、被害を避けると?」
「そういうこと」
「―――で?」
二人のやりとりを聞いていた樟葉が冷たい声で言った。
「お前達、その場所がわかるのか?」
「何のために工兵隊がいるの?樟葉さん」
「……工兵隊!」
悠菜達とは少し離れた場所に立つのは、綾乃だった。
人間達に動きがあるのを見ながら、綾乃は、彼女なりの作戦を考えていたのだ。
先に落盤を誘発させるという悠菜の手は妙案としかいいようがない。
第一層を見る限り、一度落盤させれば、二次的な落盤はありえない作りになっているのがその裏付けだ。
綾乃にとって問題は別にある。
妖魔に見慣れた自分が見たことのないタイプであることから、グリム達のオリジナルであることは明白だ。
妖魔の残骸が無くなっていることから考えれば、人間界に住む昆虫でも妖魔化させたと見て間違いないだろうし、本当にそうなら、量産能力によっては敵の規模は想像を絶することになるだろう。
「マズイですね」
魔法攻撃が有効なら、恐れる必要すらないこと。
だが、魔法を反射する石が使われている以上、魔法攻撃は自殺行為に他ならない。
敵から与えられたハンデは、綾乃でも厳しいものがある。
「せめて……鉄砲でしたっけ?あれが使えればいいのですが」
人間達の使う銃。
殺傷力は高いが、弾丸に限りがある。
補給がきかない状況では、頼りすぎるわけにもいかない。
「う〜ん。どうしたものでしょうか……」
綾乃が腕組みをして考えていると、
ちょいちょい。
袖を引く者がいた。
もたれかかっていた柱の影。
人間達には見えないところにいたのは、
「カノッサ!」
そう。
綾乃の部下、カノッサだった。
「あなた……どうやってここに!?」
「シーッ……声が大きいですよ?」
口元に人差し指を立てたカノッサが言う。
「耳寄りな情報が入りました」
「情報?」
柱の影に入り込んでしゃがんだ綾乃が小声でカノッサに問いかけた。
「何ですか?」
「えへへっ……苦労したんですよ?」と自慢げに笑うカノッサ。
「いいから話しなさい―――その前に」
綾乃は周囲を見回した。
「あなた、どこから入ってきたんです?」
「魔界からの別口が地下にありますよ?」
「魔界から?」
「ええ。工員専用出入り口」
「警戒は?」
「ドワーフが固めてましたけど、搬入される酒樽に紛れれば造作もないことでした」
「さすが帝室情報部のトップエージェントと褒めるべきですか?」
「いえいえ」
カノッサはわざとらしく手を伸ばして辞退を示す。
「お褒めにあずかる程度で済む話では」
「手打ちにされたくなければ続きを」
「はい―――まず、姫様、魔界公安調査庁で異変です」
「魔界公安調査庁で?」
魔界公安調査庁―――
魔界の特別高等警察。捜査能力はCIAやKGBどころの話ではない。
一つの世界の諜報を一手に担う桁外れの組織だ。
「ガールフ一等捜査官……ご存じですね?」
魔界では敏腕捜査官として知られる官僚であると共に、男爵位まで持つ一端の貴族なのだ。
魔界の姫として知らないわけがない。
「ええ。……その……いろいろと」
ただ、綾乃はなぜか、その名を聞いた途端、ばつの悪いという顔で視線をそらせた。
「姫様が騒ぎを起こすたび、姫様とっ捕まえに奔走したあの爺さんです」
「ええ……男爵にはいろいろとお世話に……本当に」
「その一等捜査官が殺されました」
「!?」
「頭部を粉砕され、体の数カ所に斬られた痕跡があったと」
「……まさか、シェリスが」
その名を心底汚らわしい。という顔で呟いた綾乃にカノッサは深刻な顔で言った。
「そのシェリスですが」
「殺したはずですが?」
「生きています」
「あれで!?」
「シェリスは仲間と共に、帝室の派遣した捕縛隊―――誰を捕まえるための組織かは言わなくてもわかるでしょう?その中に参加していました」
「参加して……いました?」
意味のわからない綾乃は、カノッサの次の言葉を待った。
「それが……脱走したのです」
「脱走って……馬鹿なことを」
綾乃はカノッサの言葉を否定した。
「あれは私の昔の学友、名門貴族の出、それを」
「ガールフ一等捜査官と最後に接触したのは、彼女です」
「……」
綾乃の表情が凍り付いた。
「これは、一等書記官に取り次いだ養女の証言他から裏付けが……わかりますね?」
「セージュの証言ですか?」
「はい……姫様にとって妹にも等しい扱いを受けてきたあの娘が嘘をつくとでも?」
「……シェリスの目的は?」
「姫様を捕まえる仕事を二カ所から請け負った。双方から報償を得るために。一つが帝室、もう一つが」
「グリムと手を結んだ」
「そうです。シェリスの関係者が一人捕縛され、拷問の末に白状したことです」
「……ご苦労でした」
「ついでに、シェリス達はすでにこの迷宮に侵入した模様」
「魔界公安調査庁と情報部は?」
「現状、静観です」
「―――冷たいですね」
「まぁ、目的が目的ですからねぇ」
カノッサは意味深な微笑みを綾乃に向けた。
「目的って―――」
少し考えた綾乃が青くなった。
「そうです」
顔色から判断したカノッサは頷いた。
「彼女達も姫様の捕縛が目的ですから」
「捕縛を口実に、私を殺そうとする可能性は?」
「大―――そういうべきですね。しかし、その肉体は姫様ではありません。魂だけを捕縛しても任務達成にはなります。場合によっては、捜査官殺害ですらそれで帳消しに」
「思う存分私を殺して、それでお金をもらえる―――そうも聞こえますが?」
「“剣の舞姫”を倒したとなれば、かなりの箔がつきますからねぇ」
うんうん。とカノッサは腕組みしながらさもわかったという顔で何度も頷いた。
「大体、姫様も悪いんですよ?」
「私が?」
「天界の人形に入れ込むあまり、ご自分のパートナーを見つけようともしない挙げ句に、“私は私を倒した方と結婚します”なんて人前で大見得きったんですもの。
捕縛隊なんて、独身で腕に覚えのある厄介な武術家だの剣術家だのワケわかんない連中が鼻息荒くしてましたよ?―――剣術指南役目指してるルイタス子爵とか」
「あんなマントヒヒなんて!」
「だからぁ」
カノッサは諭すような口調で綾乃を見た。
「さっさと天界の人形と関係もっちゃえばいいんですよ。痛いのなんて最初だけですよ?子供作っちゃえばもう天界だろうが何だろうが」
「し、知るもんですか!」
綾乃はムキになって言った。
「わ、私は―――別に!」
「ホント……素直じゃないんだから」
「っ!!」
呆れたようにポツリとカノッサが呟いたが、それを綾乃は睨むだけで済ませた。
「母君―――グロリア陛下が」
「母上もそんなこと言ってるんですか!?」
「へっ?いえいえ」
「じゃあ、何です?」
「姫様をさっさと見つけてこい!と凄まじい剣幕で―――やむを得ず、魔界公安調査庁も天原組とは裏取引して、ここの見取り図とかいろんな情報を引き出したようで。連中がここに侵入してくるのは時間の問題です」
「見取り図とか、情報は持ってきてないんですか?」
「魔界公安調査庁ですよぉ?商売敵から情報手にするのがどれほど」
「さっさと入手して下さい。他には?」
「後?―――ああ。獄界がグリムを見放しました」
「獄界が!?」
「ええ。グロリア陛下から直接、獄帝陛下に親書が送られ、その返書の中にあったとか―――グリム・リーパーなる存在に関して、獄界は一切関知しない」
「死んでも……何されても関係ないと」
「そうです。それを受けて帝室から掃除人が1人、派遣されています」
掃除人。
それを聞いただけで綾乃の顔色が変わったのも無理はない。
魔界の隠語で掃除人とは文字通りの暗殺者のことだ。
決して近づいて欲しい存在ではないのだ。
「詳しくは知りません。ただ、その掃除人が変わっていまして」
「?」
「金はいらない。何もいらない。―――ただ、シェリスの首が欲しいと」
「……セージュが雇ったのですか?」
「グロリア陛下勅命と聞いております。なんでも、進言を受けて即決、帝室の武器庫から必要と思われる装備全部貸し出した挙げ句、経費は全部姫様のお小遣いから天引きすると」
「最後が気になりますが!?」
悲鳴を上げた綾乃に、カノッサはつくづく。という顔でため息をついた。
「本当……アタマに血が上ると無茶苦茶するトコ、親子ですよね?陛下と姫様って」
「やれといわれればやりますけどねぇ」
工兵隊長は、普段から渋い顔をさらに渋くして言った。
「かなり危険ですよ?」
「全員を第一層に避難させればよいのではないか?」
「問題は落盤だけじゃないんで……」
頭をかく工兵隊長に、樟葉達の視線が集まった。
「どういうこと?」
「水瀬のぼっちゃん……ぼっちゃんならわかるんじゃないか?」
「なんで?」
悠菜は意味がわからず、首を傾げた。
「言っちゃ悪いけどねぇ」
工兵隊長は壁を叩きながら言った。
「コイツを仕掛けた奴ぁ、相当に性根がヒネくれた奴ですぜ」
「成る程……ひねくれ具合では馬鹿息子だって負けてはいない」
「ぷうっ!」
納得する樟葉に悠菜は頬をふくらませて抗議した。
「わ、私!」
「それで?」
悠菜を無視したイーリスが訊ねた。
「何が問題なのだ?」
「これですよ」
工兵隊長が取り出したのは、一枚のフィルム。
柱が格子状に走っていて、それぞれの格子の真ん中には丸いモノが映し出されていた。
「壁を簡易X線で撮影したものです。第一層、二層共にこんな感じです」
「壁は―――鉄筋コンクリート製だな」
「少佐、さすがですな―――では、この丸いのは?」
「―――貸せ」
フィルムを工兵隊長から取り上げたイーリスは、フィルムに顔を近づけ、
「だめだな。危険すぎる」
ため息と共にそう言った。
「でしょう?」
工兵隊長はさもありなん。という顔で頷いた。
「何です?」
「爆薬だよ」
工兵隊長はあっさりとそう言ってのけた。
「爆薬?」
「そう―――壁を爆破しようとすると、中の爆薬がどーんって仕組みだ」
「一カ所だけが爆発するなら」
ルシフェルや南雲が首を傾げるが、
「一カ所を下手に爆破すると、他に仕掛けられた爆薬が一斉に起爆する恐れがあると?」
栗須は冷静な態度を崩さない。
「そうですよ。中佐。もし、これをなんとかしようと思えば、ドリルで穴をあけて線を切断すればいいんでしょうけど、中に振動検知のセンサーが組み込まれていたらそれだけでアウトです」
「お手上げってこと?」
「設備が十分なら分析と対処もなんとかするが、まぁ、今は下手なマネが出来ないって事だ―――でも考え方によってはよかったんだぜ?」
「へ?」
「下手に火器ぶっ放して、壁にある爆薬に命中させて見ろ。全滅するところだったんだ」
「あっ」
「な?だから」
「あの……」
この中で最も階級が低い南雲が遠慮がちに言った。
「魔法騎士隊に魔法障壁を展開してもらって、わざと爆薬を起爆させるっていうのは?」
「無茶だ」
工兵隊長は言下に否定した。
「爆薬が少しでも強力なら、柱の構造材全部吹き飛ばしちまう。ここ全部が崩落するぜ。被害は最悪、迷宮だけに限らん」
「えっ?」
「―――よく考えろ。大尉」
工兵隊長は諭すように腰に手をやった。
「上は病院だ。この迷宮を吹き飛ばすようなマネしたら、病院はどうなる?」
「あっ!」
南雲は目を見開いた。
「わかったか?」
工兵隊長は南雲に告げた。
「俺達は、病院っていう人質をとられた上で戦っているんだ」
「関係者の避難は?」
「出来ない」
樟葉はそれを否定した。
「病院の真下にこんな施設があるなんて告げられるか。被害は病院だけでは済まん」
今回の件を第三種事件として公表。病院から関係者を避難させれば、事態が公になる。
どんな二次的、三次的損害が出るか考えたくすらない。
「敵はそこまでお見通しだろう。見通した上でここに入り口を設定したんだ」
その通りだろう。と思う南雲は無言で頷いた。
「病院には、地下室と物資搬入口、それと職員用駐車場を提供してもらっただけで済まさねばならない。それが病院との取り決めでもある。いいか?南雲大尉。これは戦争であって戦争ではないのだ」
「……うーむ」
「コイツを仕掛けた奴ぁ、相当に性根がヒネくれた奴って言った意味、わかってくれたかい?」
工兵隊長の言葉に、全員が頷いた。
「こりゃどうも―――で?どうします?」
「どうする?馬鹿息子」
「何で私が」
悠菜は不満げに樟葉に抗議した。
「私はマトモなんですよ?」
「お前がマトモなら、これをしかけた奴はもっとマトモだ」
「ぷうっ!」
「膨らんでないで、策を考えろ―――これは頭脳合戦だ」
「樟葉さんなら勝負にならないタイプの戦いのこと?」
「殴るぞ!」
「殴られたくないなら考えろ?」
「違う」
樟葉は周囲に控える部下達を見やった。
「こいつらを無駄死にさせたくなければ―――考えてくれ。そう言っているんだ」
「……」
ぐっ。
悠菜は顔を引き締めて、無言で頷いた。
「方法はあるんです。凄く簡単な」
「何っ!?」
「あーあ。しくじっちゃった」
美奈子は目をつむって椅子の上で反り返った。
「しくじった?」
「うん……ごめん」
「意味がわかりませんよ?美奈子さん」
「四層まで仕掛けた落盤の罠、よくよく考えてみたらあっさりクリア出来るんだよね」
「?」
「たった一個―――要石を爆破することで全体に落盤をもたらす―――これって、敵にとっても利点なのよ」
「利点?」
「そう。つまり、逆に要石さえ押さえちゃえば、罠は恐れる必要はないってこと」
「そう簡単に見つかりますかね」
「見つかるわよ」
「何故です?」
「どうやって石を爆破しているの?」
「魔力反応の強い石?」
「そう―――それが要石だもん。要石が外れることで連鎖的に石積みが崩れる。それが罠なんでしょう?なら、要石さえ押さえちゃえばいい。とはいえ、僕達を殺すつもりで、本気で崩すつもりはないんですけどね」
「何故?」樟葉にはそれがわからない。
「第四層まで主力部隊を移動させた後、そこで一気に崩した方が効果的でしょう?」
「成る程?」
考えてもいかなった。と、樟葉は腕組みをして唸った。
「とりあえず」
シュッ
悠菜は天井のあらぬ方向にナイフを投げつけた。
「全員、“隠密”の魔法で姿を消して捜索。魔法反応が異様に高い石は片っ端から“解呪”―――護符はあるの?」
「魔法騎士、仕事だ。護符を配れ」
「とりあえず警戒して」
真っ黒になったモニターを前に、美奈子が緊張した声で言った。
「敵が本気になったわよ?」
「センサーは赤外線のみですが」
「頼りないわね―――まぁ、いいわ」
美奈子はくすり。と笑った。
「ゴーストを第二層へ移す準備は進んでるんでしょう?」
「ええ―――待機中です」
「それと」
美奈子は思い出したように言った。
「“あれ”、早いけど使いましょう」
「“あれ”?ああ」
グリムは第三層にしかけたある装置を思い出した。
美奈子がどうしてもというので、やむを得ず、天原骨董品店経由で仕入れた装置。
作り出されたのは人間界。
規模が大きいのでやむを得ず、第三層には特別室がつくられ、その中に設えられているある装置。
「あんなのが本当に効くのですか?」
「グリムさんって」
美奈子が呆れたように言った。
「本当に科学には弱いんですね」
「私はその分野には興味がないのです」
グリムは憮然とした様子になった。
「空気を汚染させず、毒ガスが作れるなんて、この方法しか知らないんですもの」
美奈子は平然としたものだ。
「時間はかかるかもしれないけど……第一層から第四層、空調を一時閉鎖。すべて第三層特別室へ切り替えて」
魔法騎士達は、全身を隠す“隠密”の魔法で身を隠しながら、天井付近をゆっくりと飛行移動して要石を探し始めた。
その彼らの無線に通信が入る。
「HQより各騎士―――総員、任務を継続しつつ対霊戦闘警戒にシフト。壁や床は視界を遮る障害物と認識せよ」
そう、無線に指示を出したのは悠菜だ。
「対霊戦闘?」
魔法騎士ではない南雲にはその意味がわからない。
「なんだそれは?」
「あのね?……わかんないかなぁ」
悠菜はじれたような顔になった。
「南雲大尉」
イーリスが助け船を出すように言った。
「その下で霊が動いているのは確かだ」
「霊?」
「“死霊”だ」
イーリスは自分の腕をそっと撫で、顔をしかめた。
「―――くそっ。鳥肌が立っている」
「わかるものなのですか?」
敵の殺気なら壁越しでもわかる南雲だが、霊の存在なんて専門外だ。
「わかる」
イーリスは断言した。
「対霊戦闘可能な高位魔法騎士なら―――丁度、大尉が建物を見るだけで、そこに潜む敵の数や強さがわかるようにな」
「心配ありませんよ」
ルシフェルも何でもない。という顔で言った。
「そのための兵器がいるじゃないですか」
全員の視線が、ルシフェルの横にいる男に注がれた。
「……それって、俺のことか?」
博雅だ。
石造りの通路に博雅の笛の音が響く。
魂の汚れが雪がれるような音色は、この世に縛られた無数の魂をそっと包み込む。
無数の魂が救いの音色と共に昇天して行く―――
それでは困る者が、確かに存在していた。
「マイクを切れっ!」
そう叫ぶのはグリムだ。
「早くしろ早くっ!」
美奈子達のいる部屋に突然流れ込んできた楽の音色。
美奈子自身は、「へぇ?」程度だが、周囲はそんなものでは済まなかった。
「う……うううっ!」
「か……かあぁぁぁぁぁっ!」
オペレーター達が一様に苦しみのたうち回りだしたのだ。
「―――えっ?」
それまで、一応は整然と動いていたオペレーター達の混乱ぶりに、美奈子はワケがわからない顔で辺りを見回した。
「切れと言った!」
埒が明かないと判断したグリムは、オペレーター達を突き飛ばし、コンソールを操作して室内に入り込む一切の音を遮断した。
「くそっ!こんな騒ぎになるとは!」
忌々しげにモニターに映し出される博雅を睨みつけるグリム。
そのグリムに何か言おうとした美奈子だったが―――
「ヴ、ヴゴォォォォォッ!」
あちこちで聞こえるそんな叫び声に言葉を失った。
「な……何?」
美奈子が音の発生源を突き止めるのは造作もないことだった。
それは、床でもがくオペレーター達から上がる声。
美奈子の視線は、その中の一体に注がれていた。
お気に入りのアニメキャラみたいな、色白の美貌の青年。
美奈子にとって、彼はそういう存在。
その彼が今は床にうつぶせになって苦しんでいる。
薬物?
ガス?
美奈子の頭の中では彼が苦しむ原因が次々と浮かんでは否定されていく。
「ヴ……ヴヴッ……」
美奈子が“原因”を理解できたのは、彼が顔を上げた次の瞬間だ。
「―――ひっ!」
ガタッ!
美奈子は椅子から転げ落ちた。
ガチガチガチガチ
歯の根が合わない。
漏らさないのが精一杯だ。
「な……な……」
それまでの色白の美男子がそこにはいなかった。
瞬時にボロボロになった髪の下の肌はただれ、白い眼窩がのぞいている。
まともな人間の姿じゃない。
最悪なことに、“それ”は美奈子の目の前で動いているのだ。
「美奈子さん?」
ぽんっ。
もがく“それ”の動きにあわせるように何とか後ろに下がろうと後ずさる美奈子の肩が、何かに触れた。
「何をしているんですか?」
その声に、後ろを振り向いた美奈子の目に入ったのは、スーツのズボンと革靴。
見上げると、冷たい視線のグリムがいた。
「どうしたのです?」
「だ……だって」
「彼らが何者か?わかっているでしょう?―――死霊です」
「わ……たしは」
こんなの冗談だ。
私は水瀬君が欲しいだけ。
こんな死霊の仲間なんていらない!
美奈子の心はそう叫ぶ。
「最初からあなたは部下を選ぶ権利なんてありません」
グリムはポケットに手を入れた。
「憎しみが足りないようですね」
「い……いや……」
こんなのイヤだ!
水瀬君にこんなのが知られたら絶対、絶対に嫌われる!
そう叫ぶ美奈子の戦意はすでに消滅していた。
「何」
グリムは楽しげに微笑んで、ポケットからアンプルを取り出した。
「“憎しみの種”の成分を濃縮したものです―――効きますよ?それとも、脳をいじられる方がお望みですか?」
「……き」
恐怖に言葉が出てこない。
「協力した?ええ。ですから、今まで同様の協力を望んでいるんです」
美奈子に馬乗りになったグリムが強引に美奈子の口を掴んだ。
「オペレーター達はすぐに元通りになります―――何。これを飲めば、あなたもすぐに元通りに」
「―――っ!」
顎が割れたんじゃないかと思うほどの力が加わり、美奈子の口の中に、鉄の―――血の味が広がった。
「飲めばいいんです。注射すると後遺症が残るんで」
グリムはアンプルを割った。
「あなたは廃人にするのは惜しい」
何とかグリムから逃れようともがく美奈子だが、彼我の力の差は歴然としている。
「今まで謙ってやった分も含めて、今後はもっと残虐に働いてもらいましょう―――あいつらを皆殺しにする方向で」
アンプルが美奈子の口の中に押し込まれた。
「―――!!」
悲鳴すら上げられない中、美奈子は心の中で叫んだ。
水瀬君!
助けて!
それが無駄だと、一番わかっているのは美奈子自身。
成り行きとはいえ、水瀬の敵となった美奈子自身。
水瀬に刃を向けた美奈子自身。
私は……
私……
ゴメンナサイ。
遠くで誰かがそう言った気がした。
グリムが何を飲ませたかは朧気ながらわかる。
次に、自分が目を覚ました時、別の自分がとって変わる。
そんな自分が何をしでかすか、全くわからない中―――
美奈子の意識は、そこで途絶えた。