第四十五話
「桜井さんが?」
「そう」
悠菜は驚いて立ち上がったルシフェルに告げた。
「そう考えるのが妥当です。精神をちょっと操作されたら、桜井さんには防ぐ術がない」
「……」
力無くソファーに腰を下ろしたルシフェルを無視する形で悠菜はイーリスに訊ねた。
「わからないのは、“旅の地図は、しかるべき者に預けてあります”という、しかるべき者って……?」
「我々の関係者と見るべきだろう」
イーリスはコーヒーカップを玩びながら言った。
「これでイヤでも我々は奴らの元へ行かなければならなくなった。公にも、個人的にも」
「?」
悠菜は首を傾げた。
「どういう、ことです?」
「全員にグリムに対する私怨が生まれた―――そういうことだ」
「私怨?」
「ああ。春菜殿下絡みで栗須殿、そして親友であり、九尾の狐の主である桜井美奈子を誘拐することで、ルシフェル。萌子を誘拐されたことで私」
「?イーリスさんが?」
「萌子はエリス達にとって姉同然……その彼女にもしものことがあったら、私は娘達に顔向け出来ない。しかも、こんな間近でさらわれたんだ」
「プライド傷つけられたってこと?」
「ああ―――私も、恐らくは栗須殿も、ルシフェルもな」
栗須とルシフェルは、俯くことでそれを認める。
「間近で主君に遭難された栗須殿、家に戻ることを勧めた結果として桜井美奈子に誘拐されたルシフェル―――わかるだろう?」
「―――うん」
悠菜は、ちらり。と綾乃を見た。
「綾乃ちゃんは?」
「私怨はいろいろ」
「―――とはいえ」
悠菜は途方に暮れたという顔だ。
「あの人の考えなんてわかるヒトいるんでしょうか?」
何故か、全員が悠菜を指さす。
「わかりません」
悠菜は頬をふくらませて抗議の意志を示した時だ。
ピーピーピー
悠菜の―――正しくは水瀬の携帯がなり出した。
「メール?―――あれ?」
携帯を開いた悠菜が驚いたという顔になる。
「えっと……伊東さん、ですね」
「伊東?伊東名誉顧問か?」
イーリスはその名前にイヤでも聞き覚えがあった。
伊東甲子郎。
近衛ではご意見番、物静かな古武士という言葉がしっくり来る貫禄ある人物だが……。
「その名誉顧問の名前が、なんで“ハゲ”なんだ?」
「ハゲてるから」
悠菜は何でもない。という顔でイーリスに答えた。
「貸せ」
目にも止まらない速さで悠菜から携帯を奪い取ったイーリスは、素早い動きでアドレスをチェックし始めた。
「あっ!」
驚く悠菜の目の前で、イーリス達がアドレスに目を通す。
「“ハゲ”、“プロペラ”“年増”……お前、これでわかるのか?」
「もちろん」
「“行かず後家”って―――これ樟葉殿の番号だろうが!」
「そのまんまでしょう?―――それより」
悠菜がイーリスの手から携帯を取り戻した。
「メールですけど、至急の出頭命令です。私とルシフェとイーリスさん」
「?」
●宮城 皇室近衛騎士団騎士団長執務室
1時間後、悠菜達は、執務机越しに樟葉と対面していた。
倒れないのが不思議なくらいやつれている樟葉の背後には、近衛の制服に身を包んだ老人達が座っている。
(ただごとではないな)
その階級章と勲章の数から、老人達が、いわば近衛のお歴々だと悟ったイーリスは、緊張しながら樟葉の言葉を待った。
「……」
ポイッ
苦虫を噛み潰したような顔の樟葉は、悠菜達を一瞥した後、執務机の引き出しから何かを取り出し、机の上に放り投げた。
「桐箱?」
悠菜は首を傾げた。
豪華な水引きのかかった桐箱が机の上に置かれている。
何か慶事でもあったか?
悠菜はそう考えたが、心当たりがない。
「樟葉さん、お見合いでもするんでか?」
「この前、37回目を破断にしてやった」
樟葉は不機嫌そうな顔を崩さない。
「あらら……」
天を仰ぎ見た悠菜に樟葉は訊ねる。
「開けろ」
「?―――いいんですか?」
「好きにしろ」
(何怒ってるんだろう)
悠菜は首を傾げながら水引きを掴んだ。
(生理不順?欲求不満?)
水引きを解き、桐箱を開けた。
「手紙?」
「……春菜殿下宛に送られてきた代物だ」
樟葉はじっ。と悠菜に睨むような視線を送りながら言った。
「しかも郵便料金不足で」
「経費で落ちました?」
「貴様等の給与から天引きにしてやる」
「手紙に?」
悠菜は手紙の下に入っていた紙の包みを開いた。
「―――髪の毛?」
それは綺麗な黒髪。かなり長い。
明らかに女性のソレだ。
「ああ……」
樟葉の額に青筋が走った。
「誰のだと思う?」
「呪詛的なものではありませんね―――萌子ちゃん?」
「DNA鑑定照合はすぐに終了した―――近衛のデータに該当者がいた」
「誰か殺されたんですか?」
「生存は確認している」
「威しじゃ、ないんですか?」
「春菜殿下にとっては」
「殿下にとって?」
「―――いや」
樟葉は、疲れた。といわんばかりに首を振った。
「正しく言えば、悠理……お前に対しての最大級の威しになるだろう」
「まっ、まさか!?」
悠菜は、弟と間違われたことを抗議することも忘れ、髪を凝視した。
「しかし!日菜―――」
「遥香様によって、日菜子殿下の御身の安全は確認済みだ―――遥香様曰く“悪魔だって近づけない”所にいるんだろう?」
「僕も、それ以上のことは知りませんけど……」
悠菜は、無意識に安堵のため息をついた。
日菜子じゃない。
もし、この髪が、日菜子のそれだとしたら、私達水瀬家一族郎党の首でも足りない。
今頃、目の前の樟葉さんだって無事では済まないはずだ。
悠菜は手紙の包みを開いた。
最高級手漉き和紙の肌触りに不思議な心地よさを感じながら、悠菜は達筆な文字の列を読み上げた。
「拝啓 ますますご隆盛の趣、大慶に存じます。拝趨の上ご挨拶申し上ぐべきところ、略儀ながら……なんですか?これ」
悠菜はうんざりした顔で手紙から顔を背けた。
「何か儀式のご案内?」
「いいから最後まで読め」
「……えっと?」
うんざり。という顔の悠菜だったが、次第にその顔色が変わる。
青から赤へ。
「……」
「読み終わったか?」
樟葉を睨み付けながら、悠菜は顔を上げた。
手にした手紙は、悠菜の手の中でしわくちゃだ。
「つまり……人質を帰して欲しかったら、言うとおりにしろ。そういうことですね?」
「ああ。もし、それでも動かなければ―――その髪の人物をどうこうするつもりだと」
「それで?」
悠菜は肝心の所を訊ねた。
「この髪って、誰のですか?」
「……いい加減、気づけ。この鈍感」
「?」
「閣下」
イーリスが口を挟む。
「発言をお許し下さい」
「話せ」
「はっ……確かに、加納萌子が拐かされたのは問題です。しかし、一体」
「背後のお歴々は、加納萌子の誘拐とは別件だ」
「何が……あったんですか?」
「事件とは関係ない」
樟葉は冷たく言い放った。
「お前達には悪いが」
樟葉は一瞬の躊躇を見せた後、
「誘いに乗って、グリム・リーパーと接触を試みてくれ」
「はいっ!?」
悠菜は耳を疑った。
「正気ですか?」
イーリスもさすがにくってかかった。
「玉座を汚され、皇女を襲われ、それでも何故!?」
イーリスには信じられなかった。
近衛。
それは皇室の番犬。
その番犬が、主人を襲う相手と手を結ぶ?
あり得ない。
あってはならない!
「上には上の都合がある」
樟葉は言い放つ。
「これは最早、きわめて政治的な問題なのだ」
「……し、しかし」
「水瀬」
イーリスを無視するように、樟葉は言った。
「その袱紗包みの中に地図があるな」
「?……ええ」
桐箱の底。袱紗の包みの中に、数枚の和紙が入っていた。
「グリムと接触するのに必要なあらゆる行為を認める」
「大盤振る舞いですね」
「とやかく考えずに行け―――これは命令だ」
「いやです」
悠菜は手にした袱紗包みを机の上に放り出した。
樟葉の目がつり上がったのでさえ、悠菜を動じさせることが出来ない。
「―――何?」
樟葉が椅子から身を起こした。
「―――貴様」
「おかしいですよ。樟葉さん?」
悠菜は樟葉を逆に睨み付けた。
「普段のあなたじゃない。あなたなら今頃、経過不順を怒鳴っている頃です」
「ああ。貴様等の不手際続きには気が遠くなる思いがする」
「?」
悠菜は、じっ。と樟葉を見つめると、思い切った。という口調で言った。
「あの―――殿下達に何かあったんですか?」
殿下達―――それが麗菜殿下であり、春菜殿下であることは居合わせた者達にはイヤでもわかる。
樟葉がここまでキれる以上、彼女達に何かあったと疑うのはむしろ当然だ。
「貴様等が知る必要なぞない!」
その樟葉は、悠菜を大声で怒鳴りつけるなり、その胸ぐらを掴んだ。
樟葉の目の色が尋常ではない。
「命令に従えばいい!そんなことも―――!!」
「―――よさんか」
樟葉は、背後からの声に振り上げた拳を止めた。
背後に並ぶ椅子。
そこに座る老人の一人の声だ。
「樟葉……疲れているようじゃな」
どこか暖かみのある声に、樟葉は心底申し訳なさそうに俯いた。
「……申し訳ありません」
「ふうっ……どうじゃ?」
先程とは別の老人が言う。
「中将をここまで追いつめたのは、儂等の責任でもある」
「そうじゃな」
「皇室護衛の大任―――よく果たしてくれる樟葉に無理をさせすぎた」
「……」
目の前で唇を噛みしめる樟葉の目に、涙が浮かんだのを、悠菜は見逃さなかった。
「確かに、今回は……ああ、皇室の将来がかかる大事じゃからな」
「?」
悠菜は救いを求めて樟葉を見た。
「水瀬少佐」
大将の階級章をつけた老人が口を開いた。
「はっ」
かなりの人物。
それが悠菜の判断。
年は90を軽く越えているだろうに、その矍鑠とした態度はどうだ?
弟がいう、“くたばりぞこないの親玉”は悠菜にとっては敬意に値する。
「貴官の指摘通り、殿下の問題だ。―――より正しくは、日菜子殿下というより、むしろ春菜殿下のな」
「春菜殿下の?」
「そうじゃ」
大将は頷いた。
「春菜殿下の“お力”が、目覚めた」
「“統べる力”が?おめでたい……んじゃ、ないんですか?」
居並ぶ連中の態度から、それが慶事とはかけ離れていることは、イヤでもわかる。
その悠菜に、大将は意外なことを言った。
「我らはそれを止めたいのじゃ」
「えっ?」
「春菜殿下の“お力”は、すでに日菜子殿下を覚醒段階で上回っておいでだ」
「なっ!?」
皇室史上最強。
それが、日菜子の力への評価であり賛辞。
それを、何の力もないとされる妹が上回る?
そんな馬鹿な。
「言いたいことはわかるな?少佐」
「……皇位継承問題の紛糾を避けたいと?」
「そうじゃ」
大将は大きく頷いた。
「はっきり言うが、春菜殿下では不安が強すぎる。日菜子殿下への皇位継承を確実なものとするため、春菜殿下の“お力”を封じる―――国体の安定を図るには、それしか道はない」
成る程?
悠菜は内心、鼻で笑った。
「フンッ―――そのために、獄族の力が欲しいと」
「獄族は魂の管理に精通していると聞く。少佐……これは殿下達の命運を決めることでもある……政治的に無知な春菜殿下に政を任せることは出来ん」
「殺せと命じたり、殺すなと命じたり……」
悠菜の口からため息が漏れる。
「―――事態は変化するものだ」
大将の口調が厳しくなる。
「春菜殿下の件がなければ、玉座を汚した者として扱うのは当然だ」
つまり、“殺せ”と命じ続ける。
だが―――
「今は、ヤツの協力が必要だ―――殿下の御為に」
「で?」
悠菜は投げやりに言った。
「ヤツへの報酬は?」
「死、一等を減じる」
「正気ですか!?」
たまらずに声を上げたのはルシフェルだ。
「相手は獄族、死を司る存在ですよ!?」
「殺せぬか?ナナリ少佐」
「ご命令でしたら……」
ルシフェルは言葉を飲み込んで、
「最前は尽くします」
「敵の誘いにのれ、そして、徹底的に痛めつけて命乞いさせたら、自分達の所へ連れてこい―――そういうお言葉ですか?閣下」
「イーリス少佐。その通りと判断してくれ……時間的に余裕がない。これ以上の公務中止は余計な憶測しか産まん。春菜殿下のことが外部に漏れることが何より恐ろしい」
「私に異存はありませんが」
イーリスは周囲に視線をむけながら思った。
ルシフェルは命令に従い、参戦するだろう。
栗須殿は、春菜殿下絡みというなら、否応もないはずだ。
問題は―――
「水瀬」
樟葉が悠菜の肩に手を置いた。
「グリムはその手紙で言っている」
「何を?」
「もし、誘いに応じない場合、その髪の人物の命をもらい受けると」
「お葬式、出ましょうか?豪華な花輪、用意しますよ?」
イーリスは、樟葉が悠菜をぶん殴ると思った。
だが、樟葉は動じることなく、悠菜を見つめるだけだ。
「DNA鑑定の話はしたな?」
樟葉は机の上の髪をそっと掴んだ。
「近衛のヒトでしたっけ?二階級特進ですか?」
「よく考えろ」
樟葉は髪を悠菜の前に突きだした。
「これは間違いなく、我々ではなく、お前に対して突きつけられたものだぞ?」
「?」
悠菜は首を傾げた。
近衛で弟の人質になりそうな女の人?
鈴宮さんか?
弟の専属CPO位しか、悠菜には心当たりが、ない。
「元・近衛といえばどうだ?」
髪を掴む樟葉の手に力がこもる。
「?」
首を傾げた悠菜の目が見開かれ、顔色が一気に青を通り越して白くなった。
「ま、まさか……それ」
悠菜は震える指先で髪を指す。
「そうだ」
樟葉は苦い顔で頷く。
「もし、お前が誘いにのらないのなら、次はコイツだと、グリムはそう言っているんだ」
相手は獄族。
死に神。
彼から逃れることは出来ない。
死に神に魅入られた女の髪。
それは、悠理にとって揺るぎない最愛の、絶対的存在の髪。
彼女が危険にさらされるなんて、あってはならないことだ。
絶対に、阻止されて当然のことだ!
悠菜は樟葉に言った。
「すぐに行動に移ります―――グリムをここまで連れてきます。あらゆる損害、犠牲を許可して下さい」
弟分の力強い声に、樟葉は無言で頷く。
かつての部下の髪。
弟分の恋人の髪。
風間祷子の髪を手に―――。