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第三十八話

 “それ”を理解するのに、美奈子はかなりの努力を強いられた。

 途中、お茶を出してもらい、ご飯を食べ、お風呂まで入った後、復習までして、美奈子はようやく理解が出来た。


「なんでそんな物騒なものをなくすんですか?」

「……あなたを頼ろうとしたことをあやうく後悔するところでした」

 グリムはため息まじりに肩を落とした。

「要するにエミュレーターですよね?」

「エミュ?」

「ソフトのデータを任意の数値に書き換えるプログラムのことです」

「さぁ……私はそっちの知識はないので」

「つまり、じゃなくて」

 美奈子は用意されたティーカップに手を伸ばしつつ言った。

「魂に書かれた運命を書き換えることが出来れば、どんな人でもいいなりに出来る」

「その通り……なんでその程度のことを理解するのにこんなに時間がかかるのです?」

「仕組みですよ」

「仕組み?」

「ええ。運命を書き換えるなんて出来るはずないじゃないですか。それをどうやって?そう思ったら」

「理解できました?」

「魂に運命は書き込まれていないって、あなたが言うからおかしくなったんです!」

 美奈子は飲み干したティーカップを乱暴にソーサーに戻した。

「大体、あなたの説明が下手すぎるから、こんなに時間がかかったんですからね!」

「わ……私のせいですか?」

「当たり前ですよ!ようするに、“それ”を持つ者は魂の見る“胎児の夢”をのぞき見ることが出来るってことでしょう!?それをワケのわからない抽象論で話すし!脱線しまくるし!」

「そうカリカリしないで下さいな。私は学者ですが、他人にモノを教えるのは苦手で……あの、それで」

 グリムは美奈子をなだめながら訊ねた。


「“胎児の夢”って、何ですか?」


「胎児は、母親の胎内にいる間、ずっと夢を見ている。それはただの夢じゃない。自分が送る一生を夢という形で見ている―――そんな感じかな?学説というより奇説とか珍説というべきだけど」


「成る程」

 グリムは腕組みしながら、感心したように言った。

「それは盲点だったなぁ。胎児レベルの魂なんてロクに研究したことなかったからなぁ」

「研究に戻るって言うなら、まず私を帰してからにして下さいね?」

「いや。そうはいかないんです―――わかっているでしょう?」

「ええ。水瀬君並のドジがこの世界に存在するっていう驚愕の事実と共に」

 ジトッ。とした視線を放つ美奈子は冷たく言った。

「どうしてオトコって、こうもバカなのかしら!」


 美奈子は差し出されたケーキにフォークを突き立てながら言った。


「どこをどうやったら、そんな大切なモノを落とすなんて信じられないことするんですか!?」


「まぁ、そうおっしゃらず」

 グリムは拝みながら美奈子に言った。

「頼みます!拝みますっ!あれを人間界に落としたことが知れたら私は殺される!」

「一度死んだ方がいいと思うけど……」

 美奈子はため息をついた。

「ハァッ……わかりました」

「お願いします!」

「私という藁にすがるほどなんですから、本当に切迫していることはわかりますし」

「是非!」

「それで?数日前、そのホテルで水瀬君と接触した時、落としたんですね?」




 ●某高級ホテル内レストラン。

 そこで食事をとるのは、妙齢の女性三人。

 遥香、イーリス、栗須だ。

「……そうですの」

 栗須の答えに、遥香は気の毒そうな視線を向けた。

「春菜殿下の病状は一晩で回復されたというのに、あなたは敵を倒すまでは殿下の御前には立つことも出来ない」

「はい」

 栗須は強い意志の宿った目で頷いた。

「それは私自身の覚悟でもあります」

「……しかし、どうやって?」

 イーリスはワイングラスを戻しながら訊ねた。

「敵は神出鬼没、所在どころか目的ですらも定かではない」

「悠理君の支援……それだけが唯一の頼みの綱です」

「あまり握りたくない綱だが……」

 イーリスは、ちらりと横にいる遥香の顔を見て気まずさのあまり下を向いてしまったが、遥香はそれを軽口と聞き流したらしい。顔色一つかえず、ただ笑みを浮かべているだけだ。


 その遥香がワイングラスに手を伸ばしながら、世間話のつもりで言った。

「殿下の御容態は安定。現在は宮中にて静養中……日菜子殿下は?」

「……そ、それが」

 栗須は恐ろしく青い顔で周囲を見回した後、やや小声で言った。

「ここ数日、お姿をお隠しになっています」

「?どこかお忍びで?」イーリスと遥香が顔を見合わせた。

「お忍びでしたら、女官か隠密衆が動きます。今回はその動きが全くありません。そして何より……」

 栗須は言葉を詰まらせた様子でしばらく黙った後、ようやく口を開いた。

「最後に女官達が殿下のお姿を見たのは、数日前の深夜、お一人で謁見の間に入られる後ろ姿です」

「?」

「それが……?」

「謁見の間で戦闘、魔導兵団に多数の死者が出たのはねそれから1時間と経っていません」

「まさか!」イーリスは目を見開いた。

「栗須殿は、殿下がその戦闘に巻き込まれたと?」

「……女官達の前に姿を現さない。公務は全て中止。公には体調不良の為と説明されていますが、ここ数日、医師団が動いた様子もなく……」

「しかし、日菜子殿下は宮中におられるのだろう?」

「……誰一人、宮中で殿下をお見かけになったと報じてきた者は、少なくとも、女官達にはいません。日菜子殿下直属の橘ですら所在を把握していません―――この意味がわかりますか?」

「何かあった。そういうことか?」

 イーリスの顔も青くなる。

 当然だ。


 日菜子殿下。


 それは単なるお姫様ではない。

 自分の血を捧げた主君―――絶対的存在なのだ。

 イーリスは魔法騎士。

 その忠誠を捧げた相手。

 死んでも護るべき相手。

 それが日菜子なのだ。

 日菜子に何かあったと聞いて青くならない方が、どうかしている。

 イーリスはそう思うし、否定されたこともない。


 青くなる栗須とイーリス。

 その二人を前に、それ以上に青く―――むしろ白くなったのが遥香だ。

「あ……あの……」

 遥香は震える声で、栗須に訊ねた。

「ま、まさか今、殿下がいらっしゃるのは……」

「!?」

 何か知っているのか!?

 そう思った栗須達が緊張と驚愕が入り交じった顔で遥香を見つめる中、遥香は言った。


「その……産婦人科とかじゃ……ないですよ……ね?」


「ありません!」

 栗須は怒鳴るように言った。

「で、殿下はまだ純潔を」

 そこで栗須は黙った。


 あの時、あの敵……グリムは言った。

 

『高貴な処女の血を、ほんの100cc程度』


 グリムが春菜殿下を襲った理由はつまり、皇族の処女の血を持つから。

 だとしたら?


 待ってください?


 栗須は眉をひそめて考えた。


 皇族の処女の血なら、春菜殿下じゃなくて、麗菜殿下や日菜子殿下でもよかったのでは?


 確かに、日菜子殿下が行方不明になってからの出来事だったが、それが説明になっているとはとても思えない。


 麗菜殿下は―――まぁ、いろいろあるにしても、日菜子殿下までがダメだとしたら?

 その理由は?

 接触を阻止された?

 ―――だったら春菜殿下だって結界防御があった。私の失態がなければ、敵は殿下と接触出来なかったろう。

 じゃあ?


 そこで栗須は一つの仮定に行き着いた。


 日菜子殿下が処女ではなかったとしたら?


 まさか!


 ブンブンッ!

 栗須はその考えを追い払うように首を激しく左右に振った。


 ありえない!


 あってはならない!


 そ……それは確かに、日菜子殿下の悠理君の呼び方が、「水瀬」から「悠理」に変わった。何かにつけて悠理君の情報を今まで以上に欲しがるようになった。

 悠理君と二人っきりの時間を何とかして作ろうと四苦八苦していた。

 あの宮中で敵に襲われた時ですら、人的被害皆無の報告もあった気のゆるみはあったろうけど、殿下は悠理君に会えることで有頂天になっていた。

 “カギを閉めたら部屋を出なさい。必要があったら呼びます”

 控え室に入るときも、予め、私達にそう、すごい剣幕で命じていた。


 そこで何があったのか。

 それはお目付役の九条総女官長しか知らない。

 翌日、その女官長が凄まじい剣幕で饗庭団長の元に怒鳴り込んだというが、その理由も当然、知らない。


 そして今、悠理君の母親が“産婦人科”を口にした。


「ま……まさか」

 栗須は呆然として遥香を見た。

「で、でも……は、早すぎるかな、と」

 その声は震えていた。

「そ……そうですよね!」

 オホホホッ!と口元を押さえて笑う遥香につられるように栗須もイーリスも笑うが、完全にその笑い声は乾ききっていた。

 誰もが、水瀬と日菜子の間に何があったか。

 その結論というか、結果の誕生を考えたくなったのだ。


「ま……孫というには、早すぎますよね?まだ殿下はだって……」

「普通なら、今年、高校進学ですし」

 イーリスはボトルからワインをグラスになみなみ注いで一気に飲み干した。

「饗庭団長が何か動いていらっしゃるのは知っていますが……殿下との関係は不明です」

 イーリスはやや酒臭くなった息と共に言った。

「むしろ詳細は隠密衆の方が詳しいと思いますけど」

「あの宿六に聞くだけ無駄な気はしますけどね」

 遥香は料理に手を伸ばしながらきっぱりとそう言った。

 その声は明らかに不機嫌さを隠そうともしていない。


 遥香の正体を知る二人は、絶対的ともいうべき相手の不機嫌さに内心冷や汗を流しながら出方をうかがうしかない。

 何しろ、栗須が由忠にベッドに引き込まれた事件から1日と経過していないのだ。


「そういえば、栗須様?」

 思い出したように遥香は栗須に言った。

「ウチの宿六がとんでもないことをしでかしまして―――申し訳有りませんでした」

「い、いえ!そんな!」

 突然、頭を下げてきた遥香に驚いて、栗須は慌てて両手を左右に振った。

「わ、私本当に!」

 栗須はやや声を大きくして言った。

「わ、私は物理的はまだ純潔は維持しています!あ、あれは本当に未遂のまま!そう!未遂なんです!」

「挿入される前だったと?」

「イーリス様っ!」

 赤面して怒鳴る栗須を前に、遥香はため息をつく。

「ハァッ……由忠さん、やっぱりトシかしらねぇ」

「奥様」

 何故か不思議と落胆する遥香と、それにツッこみを入れるイーリス。

「若い頃はもう元気で元気で、それはもうスゴかったんですけど、前戯に時間をかけすぎるなんて―――ねぇ。イーリスさん。バイ○グラって効くのかしら?」

「い、医務局にでも聞いてください。私には縁がありませんので」

 イーリスは赤面しつつ視線を外し、栗須はその二人を作り笑いを浮かべて見守る。


「まぁ、とりあえず由忠さんには病院で反省してもらっていますし……悠菜ちゃんと綾乃ちゃんにはいろいろ頑張ってもらって―――と」


 遥香はウェイターによって出された料理にナイフを入れようとして、それに気づいた。


「そういえば栗須様?」

「は、はい!?」

「いえ……素敵なブローチをされていらっしゃいますね」

 その視線の先、栗須の胸元には、シャンデリアの照明を受け、鮮やかな緑色に輝く、何かの葉をイメージしたらしいブローチがある。

「これですか?」

 栗須はそっとそのブローチを指さした。

「さっきから気にはなっていたが、なかなか素敵ではないか―――高いのだろう?」

 イーリスもさすが女性というべきか、興味深そうにブローチに視線を送ってくる。

「実はこれ……」

 栗須は苦笑いでそれに答えた。

「戦利品なんです」

「戦利品?」

 イーリスと遥香は、意味がわからず互いに顔を見合ってしまう。

「ええ。あのホテルで敵と交戦した時、断ち切った敵のポケットからこぼれ落ちたのがこれなのです。それをブローチに仕立てました。」

「それって」

 遥香は心配そうに言った。

「それを求めて、あなたは敵に襲われる可能性もあるのでは?」

「はい♪」

 栗須は不敵に笑った。

「返り討ちにして差し上げますけどね?」



 ●病院

 その頃。

 由忠はまだ病院の中にいた。

 ―――入院患者として。


 イーリスに頭を割られ、妻から言語化出来ないほどの地獄を味わわされた由忠は、痛む体を苦心惨憺して動かし、廊下にいた。

 時間はすでに深夜。

「も……漏れるところだった」

 男子トイレの前。

 由忠は安堵のため息と共にぼやいた。

「遥香も遥香だ。なんで夫が入院したというのに見舞いにも来ない?冴子だって主治医だといいながら、看護婦にはナースコールを無視するように言い渡すとは……虐待ではないか」

「自業自得というのだバカ者」

 その声に振り返ると、そこには白衣を着た冴子がいた。

「何を考えている?自分の部下でもない女を相談があるといって言葉巧みに部屋に連れ込んだだと?」

「ど、どうしてわかった?」

「私はここの医者だぞ?あまつさえ、お前なんだ?あれほど女を燃えさせておいて何も無し?勃たなかったのか?」

「う、うるさいっ!」由忠は怒鳴った。

「お、俺にもいろいろと事情というものが!」

「フンッ―――挿れることも出来ず、未遂でそこまでやられれば無様としか言い様がないな」

 無様。という言葉だけ強調するしゃべり方をした冴子に、由忠は言葉を詰まらせた。

「安心しろ由忠」

 ポンッ。冴子は由忠の頭に手を置いて言った。

「E○は立派な病気だ。保険も効くぞ?」

「俺はそんなトシじゃない!」

 由忠は大人げなさ全開でわめいた。

「その前に看護婦をつまみ食いしたからだ!」

「……どこまで自分の価値を下げれば気が済むんだ?お前」

「う、うるさいと言ったろう」

 由忠の言葉に覇気がなくなったことに気づいた冴子は口元だけ笑みを浮かべた。

「ふふっ……まぁ、数日の入院で済む。骨折がこうも簡単に治る騎士の体に感謝しろ」

「治癒魔法を遥香に封じられなければもう退院している」

「妻がいながらその無節操ぶり……奥様が気の毒だ」

「それにここまでやられる俺を、どうして誰も同情すらしてくれないんだ!?」

「それが当たり前だからだ」

「……なら」

 由忠は冴子の腰に手を回した。

「少しは癒してくれ。女医として」

「クスリでも注射してやろうか?一発で廃人になるような強力なヤツ」

「俺はお前に注射したい」

 冴子は、自分の顔に近づいてくる由忠の顔を、顎を捕まえることで押さえた。

「最近、オヤジ化が激しすぎるぞ?―――第一」

 ちらっ。

 冴子は視線をトイレの方に向けた。

 女子トイレ入り口。

 そこに、誰かがいた。


「子供が見ている。教育上悪すぎる」


「子供?」


 ちらり。由忠が視線を向けた先。

 そこには、自分達を興味津々という顔でのぞき見ている少女の姿があった。


「消灯時間だぞ?何をしている―――武原琥珀」


「す……すみませぇん」

 バツの悪そうな顔でそう言うのは、牛柄のパジャマ姿の少女。

 ―――琥珀。

 暗闇の中、少女は恐る恐るという顔で言った。

「私なんてお気にしないで、続きを是非、どうぞ?」

「―――次の診察、覚悟は出来ていると?」

 担当医の冷たい視線を受けた琥珀は後ずさった。

「ははっ……病室に戻って寝ますね」

 そそくさと逃げ去る琥珀を見送った由忠は、冴子に訊ねた。

「あれ、誰だ?」

「児童福祉法違反で通報されたいのか?」

「俺には15歳の娘がいるぞ?ついでに養女は16を筆頭に三人」

「認知していないのまで含めたら二桁で足りるか?」

「ムゥ……自信がない」

「寄るな。この最低オトコ」

 冴子は、腰に回された手を乱暴に払いのけた。

「大体、お前は守備範囲が広すぎるぞ?」

「ストライクゾーンの広さは自慢だが―――おい、そういうことじゃなくて」

 冴子は、由忠の眼を見て、その本気さを計った。

「うむ―――しゃべれ」

「どうも。……あやうく、何言おうとしていたか忘れそうだった」

「この鳥頭チキンヘッド。トシのせいか?」

「俺はお前より2つ年上なだけだ!」

「十分トシだ。この前の健康診断でついにメタボリックシンドローム警告が出たろう?」

「き……気にしていることを!」

「真面目に話せ」

「一々、話しのコシを折るな!」

 由忠は咳払いの後、言った。

「あれは誰だ?そう聞いたんだ」

「武原琥珀。患者だ」

「病室は?」

「351号室」

「何年前から入院している?」

「私が赴任する前だから―――かれこれ4年以上だ。それがどうした?」

「いや……」

 由忠は首を傾げながら言った。

「妙な子だと思ってな」

「お前に言われたら死にたくなるだろうな」

「まぜっかえすな―――気配がしなかった」

「気配?」

「ああ。―――闇の中から突然現れたような、そんな感じ……俺が気づかなかった事自体、信じられないことだぞ?」

「思い上がりすぎだ。武原琥珀はただの患者だ」

「どこの学校の娘だ?」

「……何?」

「中学生か小学生だろう?学校くらい聞いたことはないのか?」

「……」

 急に黙りこんだ冴子の様子に、苛立ったように由忠は言った。

「それ位のコミニュケーションも患者ととらずによく―――!」

「……待て」

 冴子は何かに思い当たったように廊下を走り出した。

「少し待て」

「って……こっちは歩くだけで精一杯だというのに―――くそっ!」

 由忠は痛む体を酷使して冴子の後を追った。

「これじゃ、明日は筋肉痛だな」



 ハイヒールでも走りなれているのか、冴子の足は由忠が思ったより速い。

「一般人に追いつけないなんて―――高位魔法騎士の肩書きが泣いているぞ……」

 自嘲気味な由忠だが、

「患者さん?何をしているんですか?」

 ナースステーションの横を抜けようとして、夜勤の看護婦が声をかけてきた。

「ああ。すまない。冴子センセイのところにちょっと」

「困ります!」

 看護婦はナースステーションから出て由忠を止めた。

「もう消灯のお時間ですよ!?」

「ああ。だが、仕事というか」

「寝るのがあなたの仕事でしょう!?」

「独り寝は慣れていなくてね」

「個室が嫌だってことですか?そんなワガママ言わないでください!」

 独り寝の意味を取り違えた看護婦が、由忠の腕を放そうとはしない。

「私が連れて行ってあげますから。病室はドコです?」

「ついでに添い寝を」

 由忠が下心を出した次の瞬間。


「ぎゃぁっ!」


 ガシャンッ!


 悲鳴。

 

 何かが倒れる音。


 静寂。


「なっ!?何!?」

 慌てる看護婦の前で由忠は舌打ちした。


「ったく、悲鳴にまで色気のない女だ」


●病院 カルテ室

 半開きのドアの向こうから灯りがこぼれている。

 ドアの上に掲げられたプレートは、「カルテ室」。


 キィッ。


 由忠は、少しきしむ音を立ててドアを開けた。


「―――冴子っ!」

 普段は整理されているのだろう室内。

 今、そこは床中にカルテが散乱し、テーブルや椅子がひっくり返っている。

 冴子はその真ん中に倒れていた。

 背中が真っ赤に染まっていた。


「ったく―――おい!看護婦!止血を急げっ!」

 由忠は、冴子を抱き上げ、息のあることを確認し、看護婦に怒鳴った。

 看護婦が青い顔でインターホンに何かを怒鳴っている。

 外科の医師を呼んでいるらしい。

「うっ……うっ……」

 冴子は苦しい息の中、何かを由忠に手渡そうと四苦八苦している。

「遺書か?安心しろ。お前の全財産は俺が有効活用してやるから安心して死ね」

 冴子は、当然ながらそれに答える余裕すらない。

「明日、治癒魔法かけてやる。たまには魔法を味わってみるのもいいことだぞ?」

 由忠は言いつつも、冴子の手にしたモノをその手からもぎ取った。

 血まみれの書類だった。

「カルテ?……違うか?」

「止血します!どいてください!」

 応援にかけつけてきたらしい看護婦に指示され、由忠は冴子から離れた。

 傷は正面。同じ角度からの袈裟斬りの傷2つ。かぎ爪のようなもので斬りつけられたのは確かだ。

 冴子が羽織っていた(由忠から贈られた)防弾特殊繊維入りの白衣が切り裂かれている以上、その力は半端ではない。

 幾度となく、負傷者の傷を見てきた由忠は、傷の程度から死ぬことはないと判断し、血まみれの書類を開いた。


 「武原……琥珀?」

 それは、写真付きの患者のデータカードだった。

 写真の中に映し出されているのは、確かに先程の少女だった。

「―――萌子と同い年か」

 ストレッチャーに乗せられ、運び出される冴子を見送りつつ、由忠はデータを読み続けた。

 琥珀の過去の治療データがこと細かに書き連ねられていた。

「重度の心臓病により6歳から入院……」


 おかしな所はない。


 心臓病患者の治療がどのようなものかはわからないが、それでも社会人としての感覚からすれば、何一つおかしいと思うところはない。


 ただ一つ。


 由忠はそこにたどり着いた。


「12歳で―――死亡?」


 馬鹿な。


 さっき会話した相手だぞ?


 ピンピンしていたぞ?


 何より、あの子が冴子をやったとでもいうのか?


 何故?


 一体、この病院で何が起きているんだ?


「―――ハッ!」

 由忠はそれを感じた。


 視線。


 ハッとなって視線を向けた先は廊下。


 開け放たれた先は暗闇の広がる廊下。


 由忠は、確かに見た。


 闇の中から自分をうかがうような視線。


 それは間違いなかった。


「ま、待てっ!」


 由忠は慌ててドアを開いた。


「武原琥珀といったな!?話が!」


 バッ!


 開かれたドアの向こう。


 いくつものドアが並ぶ病院の廊下。


 静まりかえった深夜の廊下。


 そこに人気はない。


「……一体?」


 由忠は、ただその廊下に立ちつくすだけだった。




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