第三十四話
「あれぇ?」
せっかく見舞いに来たというのに、肝心の入院患者がどこかに行ってしまうという、前代未聞の経験をした萌子は、結局、広い病院内を探し回るハメになっていた。
腰まで伸びた長い髪、人形のような顔立ち。
すべてにおいて芸能人顔負けの美貌を誇る萌子を、すれ違う患者や病院関係者は必ず振り返ってしげしげとその後ろ姿を見つめていく。
「もうっ。琥珀ちゃんったら……どこ行ったのかしら?」
花束を手に、消毒液の匂いがする病院の廊下を歩く萌子は、
「病院って、いたくないんだけどなぁ……」
そう、心細げにぼやくと、大きな角を曲がった。
その先にあるのは、細く、薄暗い通路。
廊下には段ボールが山積みされており、当然、人通りはない。
つまり、どう考えても入院患者に用があるところではない。
ここも外れだ。
今度、外科手術でGPSでも琥珀ちゃんの体内に埋め込んであげようか。
「あれっ?」
そんなことを考えていた萌子の脚が止まった。
段ボールの影に隠れるようにして、何かが動いたのが、見えたからだ。
ぴょこっ。
そんな効果音が聞こえてきそうにして、段ボールの影から突き出されたのは―――。
リボンでまとめられたツインテールの髪。
そして、特徴ある牛柄のパジャマ。
総じて、物陰に隠れながら何かをしている入院患者の女の子。
萌子は、それが誰か、当然ながら知っている。
「……いた」
あきれ顔でそう呟いた萌子は、気配を殺しながらそっと女の子に近づいた。
よほど熱中しているのか、女の子は背後に近づく萌子に気づく気配はない。
ドアの隣でじっとしているだけ。
「……」
萌子は意を決して女の子の口元を押さえた。
「捕まえた!」
「ひっ!?」
まるで弾かれたように立ち上がろうとする女の子を、萌子は何とか押さえつけることに成功した。
「ほらぁ。そんなに驚くと、心臓に悪いよ?」
「……ぷはっ。も、萌子ちゃん?」
よほどびっくりしたんだろう、振り向いた女の子の顔は真っ赤になっていた。
「ふふっ。病室に行ったら、もぬけの殻なんだもん。探しちゃった」
「あっ。あははっ……ごめんなさい」
そういって愛らしい仕草で両手をあわせる女の子が、申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさい。今日、来てくれるのは知っていたけどね?ついつい、退屈で」
「ふふっ。それなら、早く退院できるわよ」
「……うん」
寂しそうな笑みを浮かべ、俯いた女の子は、思い出したように言った。
「そうだ!」
ぐいっ。
女の子は、萌子の腕を掴んだ。
「ね?こういうの、興味ない?」
「こういうの?」
萌子には興奮気味に囁く女の子の意図がわからない。
周囲にあるのは、殺風景な景色だけ。せいぜい、すぐ目の前にドアがあるだけ。
何も関心を抱くものなんて存在しない。
「?」
小首を傾げる萌子の前で、女の子はそっと目の前の壁を触った。
「ドアだとすぐ感づかれちゃいますけど、ここの壁、薄いんですよ?」
萌子は、壁に耳を押し当てた。
ま……まさかこれ!
壁越しに聞こえる声。
女の子が何を聞いていたのか、それでわかってしまった。
それは、男女のアの声。
アの音。
女の子は、萌子の隣で興奮気味に壁に耳を押しつけている。
萌子は驚愕を通り越して混乱した。
こ……こんなの……だって、だってここ、病院よ!?
信じられない!
そう思う萌子は、いまだ中学生だ。
そう言ってしまうのは簡単だ。
だが、もう中学生でもあるのだ。
この方面の知識だって、放っていも入ってくる。
しかも、決して願わしいことではないが、いろんな意味でダメダメなオトコのせいで、この方面に関しては、中学生としては知りすぎるくらい体が知っている。
……。
経験として体が知っている。
知識として頭が知っている。
それでも、
感情としてこの状況を受け入れることが出来るか?
そう、聞かれれば、答えは否。
肝心の萌子の情緒は、未だ夢見る年頃の少女のそれなままなのだ。
「す……すごいでしょう?」
赤面しても壁から耳を離すことが出来ない萌子の耳元で、そっと女の子がうわずった声でささやいた。
「さっき、見慣れない男女が入っていったから、何だろうと思ってついてきたら」
「……」
萌子は生唾を飲み込むと、黙って頷いた。
壁の向こうは多分部屋がある。
そこで繰り広げられる男女の睦み合い。
よほど男性が上手いのか、女性は狂ったような甘美な声をあげている。
もう……ダメ。
耐えかねたように、震える手を太股に伸ばす萌子。
隣には友達がいる。
どこで、誰が見ているかわからない。
それでも、体に灯された火は消しようがない。
聞くだけ聞いて、トイレに駆け込むことを心に決めた萌子だったが、
「!?」
その手を女の子に掴まれた。
「こ、琥珀ちゃん?」
「こっち!」
琥珀と呼ばれた女の子は、入院患者とは思えないほどの力で萌子の腕を掴み、廊下を走り出した。
廊下の角。
先程いた場所からは死角になる所まで来た萌子は、友達の突然の行動に驚きを隠せなかった。
「ど、どうしたの?」
ハァ……ハァ……。
萌子は、壁にもたれかかり、胸を押さえながら荒々しく息をする琥珀の様子に青くなる。
相手は心臓病の患者だ。
その患者が胸を押さえて苦しんでいる。
「せ、先生、呼んでくる!」
「い、いい。……だ、大丈夫です」
胸を苦しげに押さえた琥珀は、走り出そうとした萌子に、無理矢理微笑んでみせた。
「き、急に走った……から……です」
「……」
心配そうに見つめる萌子の前で、何とか呼吸を整えた琥珀は言った。
「人が来ました」
「人?」
萌子はホッと胸をなで下ろした。
こんな姿を人に見られたらもう町中を歩けない。
「こっちから逃げましょう」
琥珀に手を引かれながら、萌子は歩き出したが、
「ち、ちょっと待って」
萌子は琥珀を止めた。
「はい?」
不思議そうな顔をする琥珀に、萌子は申し訳なさそうに、
「と、トイレ行かせて?」
「ああ。そこの角に一つあります」
琥珀は廊下の角指さした。
「人は滅多に来ませんけど、あんまり大声あげない方がいいですよ?」
「何すると思ってるの!?」
「(自主規制)に決まっているじゃないですかぁ」
「こらぁっ!」
「下着、濡れてるせいですか?歩き方がヘンですよ?」
「―――っ!と、友達やめようかな!?」
「ああっ!そんなぁ!」
泣きそうな顔をした琥珀が萌子にすがりついた。
「そんなこと言わないで下さぁい!」
「言いたくなったもん!」
「バター犬でも伊集院○の代りでも、なんでもやりますからぁ!」
「い、伊集院?」
「女性用ダッチワイフですぅ……オトナのオモチャはいろいろ準備してますから、それでも」
「も、もういい」
「友達ですよぉ!?」
琥珀のすがるような目に反論を封じられた萌子は、ハンドバックに替えの下着を入れてきた自分の準備のよさに感動しつつ、廊下の角を曲がった―――やや小走りに。
「ふうっ―――」
壁にもたれかかりつつ、琥珀は萌子を見送り、
「萌子ちゃん、バター犬はわかったんですねぇ……」
ヘンな所で感心した様子で、
「加納萌子―――水瀬悠理の妹……ですか」
パジャマのポケットから取り出したのは、ウズラの卵ほどの宝石。
怪しく輝く宝石を見つめながら、琥珀はぼやく。
「あの子と仲良くなったのは、本当に偶然だったのですが」
背後から、
「出てこい由忠ぁ!」
すごい怖い冴子先生の怒鳴り声が聞こえる中、琥珀はポケットへ宝石をしまった。
ニンゲンには見られたくない。
これさえあれば、私はニンゲンの入院患者、“武原琥珀”でいられるんだから。
だから、これを人に見られてはならない。
それが、“あの方”との約束だもの。
でも……。
「あの子を誘拐する手助けしろなんて」
向こうのトラブルは、かなり派手なことになっているらしい。
閣下!とか、あなた!とか、死ねこの変態!とか罵声に混じって、男の悲鳴が聞こえてくる。
見に行ってみたいけど、向こうにいるのは、自分にとってかなり厄介な相手。
だから行けない。
琥珀は、向こうの騒ぎがこっちに来ないことを祈りつつ、トイレに向かってこそこそ動き出した。
トイレの中。
一番奥の個室からは、萌子の艶めかしい声が聞こえてくる。
(あんなこと言って……やっぱりするんだ)
琥珀はポケットの中の石を掴みながら奥の個室の隣に入った。
萌子が気づいた様子はない。
この石のせいかもしれないし、自分の行為に熱中しているせいかもしれないが、琥珀にとっては有難い。
(この子をもらえるなら、私はどんなことでもします)
琥珀は、早鐘のような鼓動を感じつつ、からからに乾いた喉でつばを飲み込んだ。
パジャマのズボンの中に手をやる。
「上手くいけばご褒美だけど……」
それは、琥珀にはかなり難しいように思えてならない。
(まぁ、いいか)
萌子の声にあわせて、琥珀も指を動かし始めた。
体に走る電気のような感覚が脳をとろけさせる。
(萌子ちゃん……好きだよ?)
となりの個室の萌子の姿を想像しながら、琥珀は荒くなる息を何とか堪えようと必死だ。
(私が……私が絶対、幸せにしてあげますからね?)
萌子の声が高くなる。
(萌子ちゃんは……)
萌子とタイミングを合わせようとするように、琥珀の動きも早くなる。
(萌子ちゃんは、これに成功したら私のモノなんですからね?)
甲高い萌子の声。
ガタッと何かが動く音。
それを合図にしたように、高まりきった快楽が、琥珀の中で弾けた。
琥珀は、遠くなる意識の中で、ぼんやりと思った。
(それが、あの方との約束なんですから)
そう。
約束だ。
だから私はここにいる。
萌子こそが私のすべて。
萌子を手に入れるためなら、私は何だってやる。
個室の中で崩れ落ちた琥珀は、自分の体液で濡れきった指をみつめながら、呟いた。
「そうですよね?……グリム様?」