第三十三話
最愛の人を忘れる。
イーリスは、それは苦痛だと、ずっと思っていた。
愛する気持ちを自ら否定する。それは、自己否定に他ならないから。
そう、思っていた。
「ふふっ。そうなんですね」
水瀬悠理
高校生で、瀬戸さんが芸能活動中に転校してきた。
悠菜は、自分をそう説明した。
綾乃はそれを信じているし、悠菜はそれで通そうとしている。
「ええ。前までは―――」
ルームサービスを呼び、紅茶の入ったティーカップを手に、ソファーに向かい合わせに座る二人は会話を続ける。
かつて、どんな他愛ない事でも楽しげに話していた二人とは、どこかかけ離れた光景が、イーリスの目の前にあった。
それを、イーリスは見るのが辛かった。
辛い?なら、水瀬はどうだ?と、イーリスは自問した。
今の人格が水瀬悠菜だとしても、記憶は水瀬悠理と共有している。
なら、水瀬悠理がどれほど彼女を大切に思い、そして、どれほどの思いで彼女を守り抜いたか、悠菜だってわかっているはずだ。
水瀬が自分より辛くないとでもいうつもりか?
否。
断じて否だ。
……。
だめだ。
イーリスは二人から視線を外した。
耳を塞ぎ、そのまま部屋から出てきたい衝動を抑えるのがやっとだ。
ここに水瀬を連れ込んだのは自分である以上、経緯を見守る義務がある。
イーリスは、自分にそう言い聞かせて、ぼやけかけた視線を二人に向けた。
二人の間で交わされるのは、本当に社交辞令じみた会話。
芸能界のこと。
学校のこと。
勉強のこと。
……。
すべてがどこか他人じみている。
全てが上辺だけの会話だ。
綾乃が会話の相手を、男性として見ていないことが致命的だ。
しかも、悠菜も水瀬同様、他人との会話は苦手らしいことは明らかだ。
会話が幾度もとぎれ、その度に助け船を綾乃が出す。
そんな会話がいつまでも続くはずはない。
瀬戸綾乃は、芸能界以外のクラスメートと会話するのが嬉しいだけ。
ただ、それだけなのだから。
飾りだと思っていた柱時計が時を告げた。
「あっ。もうこんな時間」
そう言って腰を上げたのは悠菜だ。
「あら?もう少し」
そう言って止める綾乃に、悠菜は言った。
「夜更かしはお肌の大敵ですよ?この部屋については大丈夫。イーリスさんが責任もって面倒みてくれる。明日の朝、タクシーを呼ぶから」
「ありがとう」
不思議と小走りにドアに向かう悠菜に、それを追うイーリスを、綾乃は席を立って送り出す。
「お休みなさい」
そう言って送り出す綾乃の笑顔が、ドアの向こうに消えた。
「おい、水瀬」
悠菜は小走りに歩き続ける。
「待て」
肩を掴まれても、それでも歩こうとするのを止めない。
強引に肩を引っ張ったイーリスは、悠菜の顔を見て絶句した。
先程まで、人間を虫けら呼ばわりしていた少女の顔はどこにもない。
あるのは、痛々しいまでにぼろぼろに泣く少女の顔だけだ。
「―――水瀬」
「グスッ……痛いよぉ」
悠菜はその場にへたりこむと、膝の間に顔を埋めた。
「痛い……痛いよぉ……」
「お前……何を泣いて……?」
イーリスは膝を曲げて悠菜の横にしゃがみ、その顔を見ようとした。
そのイーリスに、水瀬は言った。
「痛いんだよぉ……」
「何が?」
「心が……心が痛いよぉ……」
「心?」
「“弟”が……悠理が泣いてるよぉ……」
「……」
泣きじゃくる悠菜は苦しそうに顔をしかめる。
「綾乃って娘が、自分のこと忘れたからって……あの子が泣いてるんだ。それが、痛いんだよぉ」
「お前……」
そっ。とイーリスは悠菜を抱きしめた。水瀬の涙が、悲しみとしてその服越しに伝わってくる。
「……何するの?」
悠菜は未だに自分に心を開いていない。むしろ警戒している。
イーリスは悲しくなるくらい、それがわかった。
だが、イーリスとて迷える者を導くシスターだ。
神に仕える身としての義務を、イーリスは決して忘れはしない。
まして、どんなに情けなくても、自らの弟のように思えてならないこのバカ息子が相手だ。
イーリスは悠菜の耳元で囁くように諭した。
「泣きたければ泣け―――泣きたいのは、水瀬じゃなくて、お前なんだろう?」
「だから泣いているの。それくらいもわかんないの!?」
“弟”が悲しんでいる。
それは真実だろう。
だが、それは同時に方便でもあったのだ。
一番に泣きたいのは誰か?
手を挙げるべきは―――。
「ああ。わからんな」
「それでよくシスターなんて!」
「お前はすぐバレるようなウソを突き通そうとしている。水瀬のご同類だな」
「ウソなんてついてない!」
イーリスの胸の中で悠菜が怒鳴った。
「心が痛いのは本当だもん!痛いもん!私は……ウソ……なんて」
悠菜の感情が限界を迎えようとしている。
「私が言っているのは、悲しんでいるのが水瀬一人だといっていることだ」
イーリスは優しい声で訊ねた。
「お前も、瀬戸綾乃が好きだったんだろう?」
「違う……」
「“弟”の恋人として、“弟”以上に大切に思っていた―――姉として。違うか?」
「違う!」
「違いはしない。違うと思っているだけだ」
キュッ。
イーリスは悠菜を抱きしめる腕に力をこめた。
「ちが……」
小刻みに震える細い体。
抱きしめた腕に感じる涙。
それが、答えだ。
「今は泣いておけ……失われたのは記憶だ。命じゃない。これから、ゆっくりと作り直していけばいい。違うか?」
「……」
悠菜は小さく頷いた後に言った。
「離して」
「ダメだ。離すとお前はすぐにうそをつく」
「息が出来ない」
「窒息するまで泣いていい」
「自分が巨乳だからって、私にケンカ売っているの?今の私は女の子だよ?」
「ケンカを売っているのは私ではない。離してほしければ本音を言え」
「……本音?」
「私はシスターだ。この廊下を懺悔室だと思って本音を言え。他言無用秘密厳守。口止め料は良心的価格が私のモットーだ」
「それ……シスターの言葉じゃない」
それでも、イーリスに抱きしめられたことが、悠菜には救いだったのかも知れない。
口がモゴモゴと動いた。
声にならないその口の動き。それを服越しに感じたイーリスは、悠菜が「ありがとう」といったように感じた。
イーリスの胸から顔を離した悠菜は、ポツリと言った。
「……“弟”が日菜子って娘に心を移しても、私は綾乃ちゃんが好き。祷子さんよりかなり落ちるけど……それでも綾乃ちゃんはやっぱり好きなんだ!悠理は、本当の綾乃ちゃんを知って、綾乃ちゃんを守るために距離をとるって言って、その心まで日菜子に移しちゃったけど、私の心は変わっていない!」
そう。それが悠菜の本音。
私は綾乃ちゃんが好き!
イーリスに抱きしめられたことで、卵の雛ではないが、凍っていた悠菜の本音が溶けたのかもしれない。
「その子から記憶を奪って……もう、許さない」
そう言って立ち上がった悠菜の顔は、怒りと憎悪に満ちあふれていた。
「み、水瀬……」
それは、イーリスが恐怖した程の怒りだった。
その怒りを纏いながら、悠菜は叫んだ。
「私を……悠理をここまで苦しめてくれたあの獄族!全部、全部!全部!四界から消し去ってやる!!」