第二十九話
夜の病院。
ある病室。
そこから聞こえてくるのは人の呻くような声。
決して苦しんでいるのではないことは、その声色からわかる。
声の主は女性。
うめき声できなく、あえぎ声。
発情した女の声だ。
その病室の前に立ちつくすのは、白衣を着た女。
この病院の関係者なら、桐沢冴子という名前が出てくるだろう。
彼女の耳にも、病室から漏れ聞こえる声は聞こえている。
ドアの向こうで何が起きているかは、女としてイヤでもわかる。
そんな声を聞きながら、彼女はまっすぐに病室のドアを見つめていた。
患者にするように、睨み付けているのではない。
あくまでまっすぐに見つめていた。
震える手を握りしめ、
唇をかみしめながら、
涙の浮かぶ目で、まっすぐに―――。
何分が経ったのだろう。
ガチャ
病室のドアが開き、一人の男が出てきた。
「おい」
不意に背後から聞こえてきた声に、男は立ち止まった。
壁にもたれかかるように、腕組みして男を睨み付ける冴子の声だ。
「看護婦を食い物にするために、貴様を呼んだ覚えはないが?」
「妬いているのか?」
「ふざけるな」
男の声に、嫌悪感をあらわにした様子で、吐き捨てるように冴子は言った。
「貴様とのことは、人生の汚点だ」
「心にもないことを」
振り返った男の手が冴子の顎を上に向けさせる。
冴子の瞳に、男の顔がアップで映し出された、次の瞬間。
冴子の手が横薙に動き、男が後ろに跳んだ。
「全く……相変わらずだな」
「ふんっ―――お互い様だ」
男めがけて一閃させた銀色の光を放つエモノ―――メスをしまう冴子。
「刺される方がお望みだったか?」
「ふざけろ」
男は言った。
「お前が待たせるから悪い」
「ヒマがあれば女を食い物にするのか?」
「そんなに褒めるな」
「昔からそうだ」
冴子は男に背を向け、ヒールの音も高らかに歩き出した。
「貴様の頭の中身がどうなっているか、本気で知りたい」
「それが心臓外科専攻のお前が脳外科にまで手を出した理由だったな」
男は、冴子の後ろを歩きながら言う。
その声は、どこか懐かしさすら含んでいた。
「貴様と出会った。それが悪夢の始まりだった」
「不器用とは思ったが……それでも精一杯俺に気に入られようとした、あのいじましさはどこへやった?」
「死にたいのか?」
「医者のセリフか?それ」
「自慢ではないが、医者という人種は、人を殺すのが本業で、その反対は職業上の倫理に反する」
「自慢するなよ」
「ここまで来れば自慢したくもなる。そういうものだ」
「それは、俺の依頼の件も含んでいるのか?」
「……貴様、アレは例外だぞ?」
「例外だから、貴様のところへ来たんだ」
「アレに必要なのは、医者ではない」
冴子は振り返るなり言った。
それは医者の声というより、罪状を読み上げる死刑執行人の声そのものだと、男は思った。
「魔法使いか狂科学者だ」
「だから、お前に頼みに来たんだろうが」
「共にいい実験材料が入ったと喜ぶだろう―――何?」
「後の方は、お前のことだろう?」
「殺すッ!」
「……普段、冷静な割に、頭に血が上るとそうなるのが、お前らしい所ではあるが」
冴子の肘を掴み、それ以上の動きを封じつつ、男はため息をついた。
「実験室にこもりっきりだったお前は、むしろそう呼ばれるのを喜んでいるフシすら感じていたが、違ったのだな」
「そんな過去のことはどうでもいい」
「そうか?残念だが―――それで?」
「……」
冴子は乱暴に男の手を振り払い、白衣の襟を正した。
「―――非常に興味深い対象であるのは事実だ」
歩き出す冴子は決して男を見なかった。
「あのような特異な存在は、初めてだ」
「それは褒め言葉か?」
「ああ。褒め言葉だ」
その口調は、決して褒めていないことを如実に語っている。
「はっきり言ってやろう―――アレはすなわち、各国で進められているクローン人間の研究成果そのものだ」
「クローン人間?」
「ああ。各国の軍事機関を中心に、試験管培養による人間の誕生そのものは成功しつつあると聞く。
だが―――その本来求められる要望には応えられるレベルではない。
その作成における最大級の問題は、その人間の成長と、記憶の植え付け。そこに尽きる」
「出産と同じプロセスで、赤ん坊、子供と育てていけばいいだろうが」
「貴様、正気か?」
フンッ。と鼻で笑った冴子が見下げ果てたという眼で男を一瞥した。
「そんな方法で生命体を作り出す意味なんて、一つだろう?」
「兵器、実験体、玩具」
そう答えた男の声は低い。
「そうさ。生命の倫理とやらの面から見れば、唾棄すべきとされる目的のため。クローンという言葉を使わなければ、人間の工業製品化そのものだ。故に、製品の質は均一にして、製造時間は短期間、そしてコストは低額であることが求められる―――赤ん坊から育てる?少年兵として使うとしても期間にして15年、食費だのなんだのと莫大なコストのかかる、人間と同じプロセスによる育成なぞ、論外だ」
「……」
男は黙って冴子の意見を聞く。
聞きたくはないが、聞くしかないのだ。
「生まれながらに必要な情報を記憶として持ち、すぐに人間同様に使えなければクローンなんて意味はない。そう。問題は記憶だ。自分が何者で、何を成すべきか。それを知る記憶。それをどう埋め込むか。現在のクローン技術はそこがネックになっている」
「そんなこと、出来るのか?」
「今後の研究次第としかいいようがない。だが、アレは別だ。コストの面は知らんが―――少なくとも、期間の面において、アレは完全かつ、理想的なまでにクローンとしての要件を満たしている」
「面白くないな」
「それは貴様が古い人間だからだ。―――ついでに宗教の司祭などやっているからだろう」
「マトモな人間だからとは言えないのか?」
「それは聞かなかったことにしよう」
冴子は自分に割り当てられている研究室の鍵を開けながら言った。
ドアの向こうにはMRIなど、最新の機材が見て取れる。
「それで?」
男はやっと聞きたいことを聞いた。
「お前はそのクローン人間をどう思っている?」
「医者としてか?科学者としてか?」
「冴子として。だ」
「……ふむ」
冴子は興味深いという顔で答えた。
「面白い質問だな。個人と公人―――それをない交ぜにした上での質問か」
「どうなんだ?」
「なら私はこう答えよう」
冴子は言った。
「私は医者として生きているが、診察は面倒くさくて嫌いだ。だから、患者を増やされることは全て反対する立場だ。故に、趣味で人体実験はやっても、患者が増えるような悪事の片棒をかつぐことは医者としての良心が許さん」
「ひねくれてるなぁ……せめて、人としてクローンに反対するとか言えないのか?」
「それこそ面白くない」
冴子が苦笑する声が廊下に響く。
「とにかく、貴様からの依頼は感謝している。たとえ、貴様にキ印呼ばわりされても、アレをまともな人間にしてみせる。使い捨ての道具ではなく……人間にな」
「……頼む」
「うむ」
冴子はその時初めて顔にうっすらと笑みを浮かべた。
「それから」
「ん?」
「あの子を見ている限り、お前の子供ではないな?」
「……あいつは」
「いい。言わなくて」
冴子は男を遮った。
「医者は、患者の身元にこだわりはしない。帰るなら、せめて顔くらい見てやれ。最近は容態も安定して、元気だ」
「―――そうか」
男の口から安堵のため息と共に言葉が出た。
「お礼に、今晩はお前を守ってやろう」
「守る?」
「ああ―――」
男は、背後を睨みながら懐から何かを取り出した。
霊刃
魔法騎士の証だ。
「貴様がどうしてこんな所でよく平然といられるか、俺はそっちが知りたいものだ」
「説明になっていない」
「黙って向こうを見ろ」
男が顎でしゃくった先の暗闇に目を凝らした冴子は、息を飲み込んだ。
「ん?―――っ!」
「疲れている?幻覚?―――いいか?そんなもんじゃない」
男は冴子の口元を抑え、その耳元で言った。
「あれは、現実だ」
「しかし……」
冴子は納得が出来ない。
廊下のT字の突き当たりを
音もなく
うめき声すら上げず
虚ろな瞳で
静かに
本当に静かに
黙って歩き去るのは
患者
それも集団だ。
老人
子供
男
女
中には赤ん坊までいる。
夜間に?
集団で?
患者が?
何故?
どこへ?
そんな問いに答えることもなく、
彼らはただ、廊下の向こう側へ消えていく。
「私は疲れている」
冴子はそう言って頭を左右に振った。
「幻覚を見た」
「現実主義もそこまでいけばたいしたものだ」
「まだやることはある、少し仮眠をとることにしよう」
「まて」
男の手が、冴子の腕を掴んだ。
「結界を展開している。俺の側から離れるな」
「何?」
「結界であいつらの眼から俺達を見えなくしている。―――看護婦から聞き出したが、ここの所、夜勤の看護婦が何人か失踪しているそうだな。表面上は退職としているそうだが」
「……ああ」
冴子は苦い顔で認めた。
「5人の看護婦が院内で行方不明。病院としては体面上、公にはしていないが」
「いずれ、公になるぞ?」
「院長は帝国議会とは縁が深い」
「あの愚物共が」
「ふっ……その国家権力嫌いは相変わらずか」
「近衛に入っていなければ、アナーキストにでもなっていたさ」
「世界征服をたくらむ悪の組織でも作ったほうが……らしいぞ?」
「そうか?」
苦笑しつつ男は患者の群れを見た。
どうやら群れはとぎれたようだ。
だが……。
「……」
目を凝らし、乱暴に目をこすった男はそのまま廊下を走り、集団から離れて歩く最後の一人の襟首を掴むと、有無を言わさずに冴子の研究室に放り込み、ドアを閉めた。
「このバカモノっ!」
ゴンッ!
男の怒鳴り声と共に振り下ろされた拳が垂直にその子の頭を直撃した。
「痛ぁい!」
「やかましいっ!」
ゴンッ!
まただ。
「こんなところで何をしている!」
「お父さんこそっ!」
突然のことに驚愕の表情を浮かべるのは、女の子と見まごうばかりの男の子だ。
そんな子供に、男は容赦なく怒鳴り声をあげた。
「あんな連中の尻を追いかけおって!」
ゴンッ!
「ゴチゴチ殴らないでよぉ!暴力反対っ!」
「これは愛のムチだ!」
ゴンッ!
「ヒドイよぉ!」
頭を抑えながら子供が恨めしそうにわめいた。
「小さい頃からお父さんがそんなにゴチゴチ殴ったから、僕、背が伸びないんだぁ!」
「殴らせる貴様が悪い!」
「PL法だぁ!責任とれぇ!」
「悔しかったら子種に戻ってみやがれ!」
「人でなしぃ!」
「その子供はなんだ!」
「人格者!」
「破綻が抜けている!」
子供は何とか父親の拳を避けた。
「それが子供に対する言葉!?グレるよ!?」
「それ以上グレられるならやってみろ!」
「ううっ……」
「大体、貴様は親に対する敬意を持っていない!」
男はそう怒鳴るが、
「敬意を持ちたくなる親がいないだけだもん!」
それが子供の本音だ。
「―――っ!」
さすがに子供に面と向かって言われた男はかなりのショックなことは、冴子の目から見ても明らかだ。
悔しそうに唇をかみしめた男がたまらないという顔で怒鳴った。
「貴様!目の前の男が誰の親か言って見ろ!」
「エロスとバイオレンス、ついでに不道徳!」
「それはオレの親だ!」
「僕はそんな祖父母なんて持っていないもん!」
「神音母さんを前に言えるのか!?」
「……」
「いい加減にしろ」
冴子が二人の間に割ってはいるようにして言った。
「ここは病院だ。貴様、モラルというものを持っていないのか?」
冴子は頭のタンコブをさする男の子の顔を見た。
「まだ小学生だろう?」
「僕は高校生ですぅ」
「悠理!」
男の手が子供の胸ぐらを掴みあげた。
「学校はどうした学校は!貴様、また無断欠席じゃないだろうな!?」
「春休みだよ!ついでに仕事中!」
「何?知らんぞ!?」
「報告書、あげたでしょう?了承印押してあったもん!見たんでしょう?」
「俺のめくら判なんて信頼出来るか!」
「自慢しないでよぉ!」
「だからいい加減にしろ」
冴子の手が男の手に触れた。
「このままでは児童虐待で通報することになるぞ?―――離せ」
「―――ちっ」
子供は何とか親の手から離れた。
「お、お姉さん……ありがとうございます」
「礼なぞいい。それより」
お姉さん。
それに機嫌を良くした冴子は訊ねた。
「名前は?」
「はい。そこの水瀬由忠の息子、水瀬悠理です」
「水瀬悠理?―――ああ。貴様の自慢の息子さんか」
「不肖の、だ」
男―――由忠はそう言ってそっぽを向いた。
「ひねくれ者が……それで?何をしていた?」
「えっと……」
「ん?あの集団を見て、興味が引かれたとでもいうのか?」
「ちょっと違います」
水瀬は言った。
「あの集団を呼び寄せる存在がいるんです。それが、どこにいるかわからなくて」
「それで集団の後を追った」
「そうです。どうやら地下らしいことまではわかったんですが」
ちらりと父親の顔を盗み見るようにした水瀬は言った。
「そこの角でとぎれました」
「成る程?それで?」
「面白いことがわかりました」
水瀬は言った。
「この病院、仕掛けがありますよ」
「仕掛け?」
由忠が首を傾げた。
「トラップか?」
「物理的なワケないでしょう?僕も忘れてたんだけど、つまり」
何かを言いかけた途端、水瀬は口元を抑え、蹲った。
「悠理?―――悠理っ!」
血相を変えてその肩に手を伸ばそうとする父親の手をはねのけ、水瀬はドアの向こうへと駆け出した。
そして―――
水瀬悠理は消息を絶った。