第二十七話
ドアの向こうから聞こえる靴音。
あの人か来た証拠。
綾乃はドアの影に隠れる位置に来ると、手にしたエモノを握りしめた。
もうわかった。
あの人は妖怪だ。
私は妖怪に誘拐されたんだ。
理由はよくわかんない。
ただ、相手が妖怪なのは間違いない。
何故?
だってあの人は―――。
いけない。
綾乃は強く頭を振った。
考えちゃダメ。
考えたらあの人に知られる。
だから、何も考えずに……。
よし。
ガチャッ
「はぁい♪お食事ですよぉ?」
室内に響く軽やかな声。
今だ!
綾乃はその声の主めがけて何のためらいもなくエモノを振り下ろした。
ガンッ!
戦果を確かめることもせず、綾乃はドアから飛び出す。
やった!
綾乃は内心で驚喜する。
どこまでも続くような長い石畳の廊下は、壁に据え付けられたランプで薄暗く照らし出されている。
そんな中を、綾乃は走る。
いくつものドアを過ぎ、そして階段を見つけた。
ハァ……ハァ……
息が切れる。
でも、そんなこと言ってる場合じゃない!
逃げなきゃ!
ここから逃げなきゃ!
綾乃が階段を飛び降りようとした、次の瞬間―――
「きゃっ!?」
綾乃は奇妙な浮遊感に包まれた。
落ちている!
そう理解する間もなく、
ストンッ
気が付くと、綾乃は椅子に座っている。
「はい。お帰りなさいませ―――お姫様」
「えっ?」
あの男が恭しい態度で立っている。
目の前には湯気を立てる美味しそうな料理。
「いけませんよ?おいたをされては」
男はクスクス笑いながら言った。
「さぁ。お食事のお時間です」
「い、いりません」
綾乃はそっぽを向くが、テーブルから香る美味しそうな香りに、
くぅ〜っ
室内にそんな音が響き渡り、綾乃は赤面した。
「ほらほら。そんな意地を張るものではありませんよ?」
「……い、意地なんて」
「それが意地というものです」
男は笑いながら言う。
「毒なんて入れていません。ちゃんとした人間のお店から買ってきた料理です」
「……本当、ですか?」
「はい」
綾乃は、何度も男と料理を疑わしそうに見つめた後、ナイフとフォークを手に取った。
「―――では、失礼いたします」
男は恭しく頭を下げ、部屋から出た。
「ふうっ」
男―――グリムの口から大きなため息が出た。
「やっぱり、綾乃モードの方がかわいげがありますねぇ」
そう言って、ネクタイを緩めるグリムの脳裏を、昨夜の出来事がかすめた。
昨夜、
さらって来た綾乃の様子を確かめに室内に入ったグリムを出迎えたのは、
盛大な魔法攻撃。
万一に備え、攻撃魔法を無効化する特殊処理を施した壁が、一度でその機能を停止したほどの盛大な魔法攻撃だ。
さすがのグリムも生きた心地すらしなかった。
「レディの部屋に何のご用です?」
その凛とした声に、グリムは今の綾乃が誰かを知った。
「これは失礼いたしました。お姫様」
「そう思うなら、さっさと解放なさい」
ベッドに腰を下ろしながら、殺気だった冷たい視線で自分を刺し続けるのは、間違いない。
あのお姫様だ。
「これは魔族と獄族の間で深刻な問題になるでしょう―――あなたはそれをお望みなのですか?」
「滅相もない」
グリムは本心から答えた。
「ただ、私の目的を果たしたい。ただそれだけのこと」
「―――そうですか」
綾乃は冷たい口調で言った。
「この子に危害は加えないと、この“私”の前で誓いますか?」
「無論にございます」
「契約成立と受け取ります。なら構いません。名は?」
「グリム・リーパー」
「グリムとやら。お腹が空きました」
「はっ。早速、お茶でも」
「ダージリンで。銘柄は大丈夫ですか?ティーセットは……ノリタケの」
…………
……
はぁ。
グリムは思い出しただけでうんざりした。
とにかく注文が細かい。
お菓子の種類どころか、「東京のどこそこの店の何々で」と来る。
紅茶に至っては茶葉どころか抽出温度まで。
綾乃は言い切った。
「何のために私がこの子を乗っ取ると思っているのです?」
そんなこと知るか。
「城では食べられない、人間界の珍しいお菓子が食べたいからなのですよ?」
だったら余所でやってくれ。
いや。ホント真面目に。
そう思いつつも、その気迫に押され、グリムは何とか綾乃の注文をこなした。
さらって来た直後に感じた、あの違和感。
あれに気づけなければ、今頃、自分は殺されていたかもしれない。
綾乃の機嫌をグリムが損なうことが出来ないのは、まさにグリム自身の命に関わる。
「私は、何だかずいぶんと厄介な事態に足を踏み入れたようですねぇ……」
グリムは、疲れた。という表情で肩を叩いてその場を離れた。
「きゃあああああああっっ!?」
ドッスンッ!
悲鳴と同時にベッドのマットレスが大きく跳ねた。
「お帰りなさいませ。お嬢様」
グリムが恭しく頭を下げる。
「食後のお茶をお持ちしました」
「……グスッ」
そのグリムを恨めしそうに見つめるのは、綾乃だ。
「何でです?」
「はい?」
「何で、どこから逃げてもここに来るんです?」
「それは、そういう仕掛けがしてあるからです」
「外してください」
「出来ません」
「……ケチ」
「ふふっ。……そういう所、あの少年にそっくりですね」
「えっ?」
「そう……水瀬悠理でしたかな?」
「悠理君をご存じなのですか?」
綾乃は驚きとうれしさを混ぜ合わせたような表情で、ベッドから起きあがった。
「ええ。先程まで話をしてました。ちなみに、先程の食事の費用は水瀬悠理の負担です」
「そ、そうだったのですか?」
「はい」
「お、おいしかったです」
「随分と、嬉しそうですね」
「それは……妻ですから」
「妻……ですか?」
「はい♪」
幸せそうに微笑む綾乃に、
「しかし」
グリムは逡巡した様子で言った。
「彼はそう思っていないようですね」
「そんなことありません」
綾乃ははにかみながら言った。
「悠理君、素直じゃないだけです。少し、恥ずかしがっているだけで」
「……」
それをグリムは知っている。
思慕。
人がそう呼ぶ感情。
その温かさは、グリムが尊ぶ所だ。
「彼が好きなんですか?」
「それは勿論」
「例えば、どのような所が?」
「えっとですね?」
綾乃は語り出した。
水瀬との初めての出会い。
一緒に過ごした時間。
それがどれほど大切で愛おしいものであるか。
それをグリムは否定した。
「水瀬悠理……面倒くさいですね。あなたにあわせて、悠理君としますか。彼は否定しましたよ?」
「―――えっ?」
意味がわからない。
綾乃はきょとんとして相手を見つめた。
「何を、ですか?」
「あなたとの思い出です」
「?」
「あなたとの思い出を、失ってもよいと」
「……」
しばらく、ぽかん。とした表情でグリムを見つめた綾乃は笑い出した。
「ハハッ……そんなこと、ありませんよ」
「事実です」
グリムは言った。
「失っても良いと」
「ウソです!」
語気を強めた綾乃は言った。
「そんなの、絶対にウソです!ゆ、悠理君が……そんなこと言うはずが」
「私は本人の口から聞いたんですけどねぇ」
「どこまで私を騙すつもりです?」
「……ふうっ。仕方ない」
グリムは大げさに肩をすくめて言った。
「綾乃さん?全人類の半分は男。そう考えれば、悠理君だけに限定して男を見る必要はない。違いますか?」
「違います」
「誰を好きになろうが、それはあなたの勝手。その一途で綺麗な気持ちは尊重すべきです。でも、若い内だけですよ?恋が出来るのも。何しろ」
グリムは綾乃を睨め付ける用に見て、
「あなただって、いつまでも“女の子”でいられはしませんから」
「……」
綾乃はグリムから視線をそらせた。
「しかも、純粋すぎる気持ちは、自分自身の本当の気持ちとは限りません」
「そんなこと、ありません!」
綾乃はグリムを否定するように怒鳴った。
「ないんです!」
「……なら聞きましょう。“好き”と“愛している”の違いは何ですか?」
「えっ?」
唐突な答えに綾乃は返答に詰まった。
好き。
愛している。
よく使う言葉。
でも、その違い?
深く考えたことはなかった。
好きの上が愛している?
それでいいの?
それが、答えでいいの?
「……えっと」
「つまり、悠理君とは、あなたにとってその程度の存在なのです」
「な、何を言うんです!」
「百歩譲っても、あなたは悠理君が好き。つまり、悠理君はあなたにとって、好きな男の子なのです。違いますか?」
綾乃は無言で頷いた。
「そう。あなたにとって、悠理君は好きな相手であって、愛している男の子ではない」
「なっ!?」
「好きで愛している―――そういいたいのでしょう?しかし、その違いがわからないとはいえ、あなたは今、明確に好きだといった」
「そ、そんなのは言葉のアヤというもので」
「否定できますか?」
「……」
綾乃はつまりながら言った。
「私は……悠理君が……すごく……大好きです」
「ええ。あなたの記憶を少し拝見しましたが、あなたがどれほど悠理君を好きかはそれだけでわかりましたよ。―――“オトコノコ”と“オンナノコ”の“オママゴト”として」
「……なっ!?」
その一言に、綾乃はグリムを睨み付けた。
「何も知らないクセにっ!」
そして、その声量一杯に怒鳴った。
「勝手に人の想いにケチをつけないでくださいっ!」
生まれて初めての勢いで、人を怒鳴った。
「私達は……私達はママゴトでおつきあいしてるわけじゃありませんっ!」
「―――ほう?」
グリムは感心したように言った。
「なら、その証拠を見せていただきましょうか」
「私の記憶を見たのでしょう!?私達の関係は、絶対に壊れることはありませんっ!」
そうだ。
綾乃は思う。
私の気持ちにウソはない。
恋する気持ちは純粋な存在。
ウソが入れば全てが台無しになる存在。
私が悠理君を好きでいられるのは、その気持ちにウソがないからだ。
「気持ちまでは見えません。記憶とはそういうものです。―――それでもあなたは自分の気持ちに自信があるのでしょう?」
グリムは綾乃に近づきながら言った。
「何があっても壊れることのない、強い絆があるなら、その証拠を見せてください」
「……えっ?」
「これはゲームです」
グリムは楽しげに言った。
「あなたと私のゲーム」
グイッ。
グリムの手が綾乃の顎を掴んだ。
「我々獄族にとっては記憶操作なんて造作もないこと」
「きおく……?」
「そう。……悠理君の全ての記憶を、あなたの中から消して、真っ新な状態であなたは悠理君に再び出会う……そして、その恋をやり直す」
「!!」
意味のわかった綾乃は、青くなった顔で身を引こうとして、出来なかった。
「おいっ!」
グリムが去った後、会話の内容を水瀬本人から聞いたイーリスは、テーブルをはねとばし、水瀬の胸ぐらを掴みあげた。
周囲の視線が集まることすら、今のイーリスには関係ない。
「なんて約束を!」
「仕方ないでしょ?」
水瀬はサバサバした様子でイーリスに言った。
「それで綾乃ちゃんが助かるんだから」
「お前は!」
ガンッ!
イーリスの拳が水瀬の頬を張った。
「今まであの子とつき合ってきたのはウソだったのか!?任務だったからか!?気まぐれか?親に言われたからか!?ど、どういうつもりで!―――貴様ぁっ!」
イーリスには信じられなかった。
恋人が自分との思い出を失う。
その危機を、肝心の恋人が認めた。
そんなこと、あっていいはずがない。
それなのに、この男は、あっさりと―――!!
「今すぐ否定しろ!」
再度、水瀬の胸ぐらを掴んだイーリスが怒鳴る。
「今すぐ、その発言を否定し、あの子に謝れ!」
「―――それで、綾乃ちゃんを……殺すの?」
「っ!?」
叩き付けようとした拳をイーリスは止めた。
「お……お前」
水瀬は笑っていた。
笑顔を浮かべていた。
「ヘンだよね?……イーリスさんの言うとおり、僕、やっぱりおかしいんだよ」
水瀬は笑っていた。
笑いながら……泣いていた。
「僕だって、綾乃ちゃんの中から思い出が消えるのはイヤだよ……でも、でもね?綾乃ちゃんが死ぬのはもっとイヤだ」
「……」
「グスッ……綾乃ちゃんが助かる方法なんて、僕だってずっと探してた。でも見つからなかった。それが……それが、やっと……やっと見つかったんだ。これはもう、最後のチャンスなんだよ。ワガママなんて言っていられない……知ってる?綾乃ちゃんの本当の寿命」
「……」
「……魔族は数年っていうけど、綾乃ちゃんと魂がリンクしている僕にはわかる……もう、綾乃ちゃんは、このままなら夏まで生きられないんだ」
「なっ!?」
「僕……僕、綾乃ちゃんを……死なせたくないんだよ……」
「水瀬……」
そっ。
イーリスは水瀬を床に降ろした。
水瀬は人形のようにその場にへたり込む。
「記憶から僕が消えることで、それでも死なれるよりいい。生きてさえいてくれればいいんだよ……死なれたくないんだ……」
「よく……決断した」
イーリスは水瀬の頭を優しく撫でた。
軽薄。
そう思う水瀬の行動の裏には、とんでもない決断があったのだ。
この小さな体で、
この歳で、
こいつはこれほどの決断をした。
それだけは、認めてやらねばならない。
イーリスはそう思った。
「……子供扱いしないで」
「ん?」
「頭、撫でないで……子供じゃない」
「なら、こうしてやる」
イーリスは、水瀬を抱きしめ、言った。
「思い出を失えば作り直せばいい。それだけのことだ」
「い、イヤ……」
震える声で綾乃は言った。
「イヤです!」
「あなたには、もう選択肢は二つしかない」
グリムは冷たく答えた。
「このゲームにのるか、拒み、そして死ぬか」
「死ぬ?」
「そう、死ぬ。そして、あなたは永遠に悠理君に出会えない」
フフッ。
グリムは笑い出した。
「ハッハッ……ここで怯えるなんて、所詮はあなた達の想いはオママゴトだ」
「なっ」
「ゴッコで命をかけろなんて言われれば嫌がるのは当然ですな!」
「ち、違いますっ!」
「どう、違うんです?」
「……」
「……」
永遠とも思うほど、長い時間が過ぎたのかもしれない。
もしかしたら、一瞬だったのかもしれない。
綾乃は言った。
「やりましょう」
そう。
もう、やるしかないんだ。
綾乃はそう思った。
「じゃぁ。遠慮なく」
グリムの手が近づいてくるのを、綾乃はただ黙って待つ。
閉じた瞼の裏に現れるのは、
恋人の姿、
恋人と楽しく過ごした日々……
それらが走馬燈のように流れていく。
大丈夫。
綾乃は確信していた。
大丈夫なんですから!
私は―――私は、何があっても!!
鈍い衝撃が綾乃を襲った。
私は悠理君を
また、絶対に……
絶対に、好きになる!
綾乃の意識は、闇の中へと墜ちていく。
大丈夫
大丈夫なんだから
私は忘れたりなんてしません
何より大切な……
とっても……大切な……
大丈夫なんですから……
だいじょうぶ……
綾乃の意識が、途絶えた。
人情のカケラもない、冷たい人間の方が世の中多いように思えます。本当は人間を信じたいんですけど……ハァ(T_T)