牢獄の処刑人
鉄格子の向こうから、鈍い鐘の音が響く。
一つ。また一つ。
その音が鳴るたび、牢獄のどこかで誰かの命が尽きる。
「…………」
その音を聞いた青年・アルトはゆっくりと立ち上がった。
灰色のシャツは擦り切れ、首には幾重もの傷跡が走る。手首と足首には千切れた枷が今も残り、歩くたびに小さく音を立てた。
「……今日も、また逝ったか」
冷たい石畳を踏みしめ、彼は最奥の独房へ向かう。
そこには、すでに囚人の姿はなかった。あるのは力なく横たわる亡骸だけ。
「…………」
その瞬間、亡骸の胸元から黒い霧が噴き出す。
それは煙ではなく、憎しみだった。生前に抱えた怒り、悲しみ、絶望。誰にも届かなかった感情だけが形を持ち、怪物となる。
黒い霧は人の顔をいくつも浮かべながら笑っていた。
『苦しい……』
『憎い……』
『全部壊してしまえ……』
笑いながらも呟かれる言葉は怒りや怨み、憎しみのみ。
その声は牢獄中に響き渡る。
このまま放置すれば、この憎悪は生者へ取り憑き、新たな悲劇を生む可能性があった。
だから、この場にはそんな負の感情を斬る者が必要だった。
「……………」
アルトは腰に提げた黒い剣を抜く。
刃に血は付いていない。
この剣は命を斬るためのものではなく、魂にまとわりついた憎悪だけを断つための剣だった。
「……眠れ」
静かな一言。
黒い霧が牙を剥き、獣のようにいかかる。
アルトは一歩だけ前へ出た。
銀色の軌跡が闇を裂く。
黒い怪物は悲鳴ではなく、泣き声を上げた。
『……怖かった』
『助けてほしかった』
『生きたかった』
今度は嘆きの声が牢獄中に響く。
その言葉を最後に黒い霧は光の粒へと変わり、静かに天井へ昇っていった。
牢獄に、静寂が戻る。
アルトは剣を鞘へ納め、亡骸の前に膝をついた。
「……助けられなくて、すまない」
誰に聞かれるでもない謝罪。
彼が斬ったのは囚人ではなく、囚人が最後まで捨てきれなかった苦しみだった。
「せめて、どうか安らかに眠れ」
そして、彼は祈る。
誰も救えなかった命が、ここより先の世界で救われるように。
誰にも理解されなかった心が少しでも穏やかになるように。
『あるとぉ』
その時、背後の暗闇から小さな足音が響いた。
振り向くと、そこにいたのは、純白の、丸くて小さな人型の生き物。目も口もないのに、不思議と心配そうに見える。
てちてちと足音を鳴らして近づき、その子はアルトの千切れた枷を、ぷにっとした手でそっと触れた。
「……ついてきたのか」
小さな生き物は返事の代わりに、アルトの隣へ座る。
二人はしばらく、光となって消えていく憎悪を見つめていた。
『あると。ぞーお、またきった』
「…………」
『あると。…ここから、いつでられる?』
「…………」
小さな生き物は聞いてくる。
アルトは答えなかったが、彼は知っていた。憎悪を斬り続ける限り、決してこの牢獄からは出られないことを。
自分の首に残る傷と、千切れた枷がその証だ。
『あると。ぞーお、きるの、いつやめる?』
「………俺は、斬るのをやめないさ」
これは、自分が決めたことだ。
たとえ迷ったとしても剣を置くことはない。
アルトは小さな生き物の頭を指先で撫でて柔らかく笑う。
そしてまた、牢獄のどこかで鐘が鳴った。
アルトは静かに立ち上がり、闇の中へ歩き出す。小さな生き物も悲しそうにしながらも彼についていった。
牢獄の処刑人と呼ばれている囚人、アルト。
だが彼が処刑するのは人間ではなく、人間から生まれ出た憎悪だ。
彼は、今日も憎悪を斬り続ける。
誰かの最後の憎しみに、終わりを与えるために。
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