11.お姫様気分を楽しもう
耳の奥にパシンッと扇が打ち付けられた音が残っている。
「……どうしよう。お父さんが叩かれたら」
つぶやきと共に、ちゃぷりとお湯が揺れた。
家族が来るまで自分の家だと思ってゆっくりするようにと、私とレイさんはそれぞれに素敵なお部屋を与えられてしまった。
レイさんは自分は関係ないと拒否していたけど、姪を助けてもらったのに、何もせずに帰すわけにはいかないだのなんだのと、おじさんに丸め込まれていた。
とりあえず、お風呂にどうぞと言われ、こうしてありがたく入らせてもらっている。
でも、メイドのマチルダさんが洗ってくれると言ってくれたのは断固拒否した。
弟妹たちの体を洗うことはあっても、自分が誰かに洗ってもらったのなんて、本当に幼い頃だけだもん。恥ずかしすぎる。
「いいにおい……」
浴室に充満する石鹸の香りに心がほぐれる。
浴槽のヘリに頭を預け、伯爵家に着いてからのことを思い返す。
おじさんとおばさんは最初はちょっと怖かったけど、親身になってくれて優しかったし、お風呂はとっても気持ちいいし、ココアは美味しかったし。
こんな至れり尽くせりの生活を当たり前に送ってきたお母さんは正真正銘お姫様で、今の『ばっかり』な生活も、お母さんにとっては普通のことなのだと、ようやく理解した。
「でも、そんなの十年以上前のことなのに、忘れられないものなのかな」
お母さんをこの家に招いて本当に大丈夫なのだろうか。
また、こんな扱いを受けたら、二度と平民には戻れないんじゃないだろうか。
いろんな不安が頭をもたげてくる。
「……早くみんなの元気な顔が見たい」
こんなにも長い時間、家族と離れているのは初めてで。
それは、喜びや開放感より、寂しさを連れてくるのだと初めて知った。
お風呂から出ると、きれいな服を貸してもらった。
おじさんの娘さんが着ていたものらしい。
真っ白なブラウスはしっとりと肌に馴染み、絶対にお高いやつだと怖くなる。
「こ」
「こ?」
「こ、ここここんなに高そうな服を着たら、怖くて動けません!」
私の言葉を聞いて、メイドさんがグッと口をつぐんだ。でも、体がふるふる震えているところを見ると、笑うのを我慢しているみたい。
「……笑ってもいいですよ?」
「んん! ……大変失礼いたしました」
「いえいえ、大丈夫です」
だって、こんな服を平気で毎日着ている方達のお世話をしているのだ。私の言葉に笑ってしまうのはしょうがないことだと思う。
「いえ。私も下働きからメイドに昇格して、初めてこのお仕着せに袖を通した時、同じことを思ったなと、若かりし頃を思い出してしまって。申し訳ありません」
そう言って頭を下げてくれたことに驚く。
てっきりいいお家の方かと思ったのに。
「ほら、とってもお似合いですよ」
そう言われて鏡に映った自分を見る。
市場で切ってもらった髪は少し不揃いだったので、マチルダさんがきれいに切りそろえてくれた。
お風呂あがりの体には香油を塗りこまれ、ふんわりといい匂いがするし、お肌がきれいになった気がする。
それに、上品で質のいいお洋服に身を包んだ姿は、ちょっと良いところのお嬢様みたいだ。
「あの、ありがとうございます。こんなにきれいにしてくれて」
でも何となく、ここ数年分の運を使い切っているのではないかと不安になる。
「お嬢様?」
「えっ⁉ あの、私はお嬢様なんかじゃないですよ⁉」
「あら、他所様の家の女の子はみ~んなお嬢様ですわ」
……そういうものなの? なにそれ、貴族語?
「そんなしかめ面をしないで、ほら! 背筋を伸ばす!」
「はい!」
突然ぴしりと指示が飛び、頭で考えるより先に体が動いた。
「お嬢様のお気持ちは分かります。でも、ここでの待遇を過分だと恐縮していても、いっときだけお姫様になれたと喜んでも、与えられた時間も物も変わりません」
……おお、なるほど。確かに?
「それならば、楽しんだ者の勝ちだと思いませんか?」
楽しむ。……そうね、そうかも。
「教えてくれてありがとうございます。そうですね、感謝の気持ちを忘れずに楽しみます!」
だって、申し訳ないって頭を下げるより、ありがとうと感謝の気持ちを伝えられたほうが嬉しいわよね? あとでおじさん達にお礼を言おう。とっても嬉しいって伝えたい。
「はい。とってもいい笑顔ですわ」
なんだかマチルダさんは貫禄がある。ご近所のおばちゃん達みたいで頼もしい。
「それでは、食堂に向かいましょうか」
「え?」
「お食事の準備が整ってございます。あと、お嬢様のお祖父様がお待ちですわ」
…………お風呂に入ったらおじいちゃんのことを忘れていた。
「はい、行きます!」
慌てて返事をしてから気がついた。
このきれいなお洋服を着てお食事をするの?
……マチルダさん。やっぱり私、楽しめないかも~~っ!




