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砂時計のこと

 小学校六年生の終わり、祭りの後というちょっと淋しい気分の中でいろいろなことを考えたりすると、全てに対してとても穏やかになり、優しく柔らかく応対できるようになるものだ。声を荒げたり容赦なく断罪したり、一方を非として切り捨てたり、そんなこと、とてもできなくなる。心の中が共感と同情とで満ちてくるわけ。とは言え僕自身は寂しさの沼に落ち込み、ゆらゆらと浮き沈みしているんだ。でもこの雰囲気、嫌いじゃない。妙に力が抜けて、何気なく内向的になって、心なしか外部世界が居丈高になって、しかしそれに対し腹を立てることもなく、淡々としている僕なのです。

 けれどそんな悠長なことを言っていられないときもある。もう春だというのに妙に乾燥した日、年度末の世間の風が、花粉だろうか黄砂だろうか、小さな目に見えない埃を舞いあげて、僕の目玉をいじめてくれる。痛いよう、僕の目はぼろぼろだ。薄目を開けると、涙でにじんだ哀れな視界がゆらりゆらりと溺れている。そんな視界が段々と、ざらりざらりと波打ち始めた。そうして今度は僕の身体がざらざらちくちくする波の中に飲み込まれていく。砂漠の砂の渦に引き込まれていくように。大きな回転の中で、目が回る。ぐるりぐるりと、中心点へ、吸い込まれて行く―――おや、変だ、苦しい、呼吸ができない、息が出来ないぞ。

 埃の中で溺れて行く僕、乾燥したざらざらちかちかしたものが僕の目の中に、鼻の中に、口の中に入って来る。更にそれが胃袋を満たし、肺の中に流れ込んでくる。そうして僕の身体はなおもくるくると回転しながら深く深く引きずり込まれていく。身体の中も身体の外も砂に満たされて包まれて、おまけに振り回されて絞られて、このままミイラにでもなってしまうんだろうか、僕は、からからに干からびて。

 そんな風に妄想した僕は、はたと誤りに気付いた。お兄ちゃんの部屋にある大きな砂時計、あの砂が落ちて行くとき、上部に溜まっている砂は渦を巻いてあのくびれから下へ落ちて行くのではなかった。渦を巻くのは水だ。砂は違う。円錐形の空間をつくってその逆さの裾野から、四方八方あらゆる方向から下の方へと落ち込んで行くんだ。


      *    *    *    *    *    *    *    *


 砂時計は、砂が流れて落ちて行くことで時間を表してくれる。そこで時間が現れてくる。上から下へ、時間が落ちて行く。落ちて行って下に溜まった砂の量が経過した時間を表している。言い換えれば、その時間が下に溜まっていく砂として現れてくる。これはとても面白いことだ。砂時計から考えてみると、時間というものは流れ去って消え去っていくものではないらしい。どんどん溜まっていくものらしい。これはこれで納得できる。ただ問題は砂が落ち切ってしまった後だ。もう一度時間を起動させようと思ったらひっくり返さなければならない。そうすると過去の堆積が上の方へ行って、つまり未来になって過去になる順番を待つことになる。時間は行ったり来たりすることになってしまう。ちょっとおかしいことになってしまう。未来が過去になって、その過去が再び未来に早変わり、そうしてその新生未来がまた新たな過去になる。でもこれって、ただひたすらくるくる回っていることになってしまうんじゃなかろうか。

 でもそれはちょっとおかしい。時間はただ単に回転しているだけではないはずだ。それはこの僕を見てもわかる。これでもちゃんと大きくなっている。幼稚園児から小学生、そして来月からは中学生だ。事実時間はしっかり進んでいるはず。でも砂時計はちゃんとした時計なんだから、間違った時間を表すなんてことはない、はずだ。なら見方を変えなければならないだろう。先ず、時間をイメージするとき、例えば画用紙の上に左から右へ線を引く感じになる、だから時間が回転しているとするとくるりと円を描く感じだ。さて、この円をどうしたものだろう。タイヤの様に左から右へと転がしてみようか。でもこれだとその軌跡が一本の線にならない。時間にならなくなってしまう。ここで見方を変えてみる。となると、画用紙を飛び出すしか方法はないんじゃないか。上昇するんだ。くるくると螺旋的に上の方へ進んで行く。バネの様に。これなら一本の線になる。時間の流れになれるんだ。こういうことに違いない。我ながらなかなかの名案ではなかろうか。

 こう考えると納得できることもある。僕の小学六年は去年の四月から始まった。今は今年の三月、丁度くるりと一周したわけだ。そして今月の最終日で円が閉じられる―――ではない。実は一年前の時点の少し上の時点に到着することになる。僕の時間は去年の四月からちょっとづつ上昇しながら元の時点の方へ戻って来る、着いてみるとちょっと上なので更にそのまま進んで行かなければならない。これがずっと続くんだ。但し行先は上の方、こうしてひたすら上昇していくことになる。これは季節を考えてみてもそうだろう。春夏秋冬が毎年繰り返される。くるくるとひたすら季節が巡って、そんな同じ一年が延々と反復される、けれど時間は一本の線としてずっと続いている。こうやって考えてみると、来月から僕が中学生になるということなんかは象徴的だね。四月からというのは去年と同じなんだけど、今年の四月は去年の四月とは別なんだ。何しろその間には一年間というくるりと円い時間が経っているんだから、去年とは垂直方向に別の時点になるわけだから。そうして去年の四月小学五年生だった僕が今年の四月には中学一年生になる。

 実に納得できる話だ。家に帰ったら、またあの砂時計を眺めてみよう。それにしても大きな砂時計だ、あれは。三十分間用らしい。高さも三十センチくらいあるんじゃないかしら。長い航海をする船員にとって三十分という時間は当直とかの関係で大事なものらしくて―――だから手に入れたんだとお兄ちゃんは言っていた。でも何で“だから”なんだろう。訳が分からない。けれどまあお兄ちゃんの言うことを一々詮索することもないか。そのお陰で僕は砂時計を長い時間楽しむことができるんだから。

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