第三章 風早かぎる(かぎる)
1
真っ赤な羽虫が消えていった空を、ぼんやりとリンドとユアンは見つめていた。
全てが悪い夢だったかのように、消失した男に半ば巻き込まれて消えていったトトラを思うと「救えなかった」と言う憤りしかない。そしてそのトトラの遺品らしき物すら何一つも残ってはいない事に気が付くと、二人は胸が張り裂けそうになった。
無言のままで、リンドはトーノの身に絡み付く蔦をネィル・フー・トゥーンの刃で裂く。主の消失に伴いその生命力を使い果たしたかのように、簡単に蔦は地面に崩れ落ちる。
解放されたトーノもまた無言だったが、リンドの顔を見つめる瞳には慈愛が満ちていた。リンドのせいじゃないよ、その瞳は確かにそう言っていたが、リンドはその瞳から逃げる様に顔を俯ける。
リンドはただ自らを責めていた。あの時、ああしていれば――、答えなどない無限ループ。一人後悔に思いを巡らせても今更何にもならない現実は、その愚かな思考すら呪いたくなる。
それを断ち切ったのは頭の中でネィル・フー・トゥーンの声が響いたからだった。
「リンド……これは戦争なのだ。救える命もあれば救えぬ命もある。救えなかった命を心に刻み、自らを責めるのは悪い事ではない。しかし、なればこそ強くなれ、リンド。誰かを救いたいと願うならば……強くなれ」
トーノから顔を背け、ユアンの視線を背に、俯くリンドは泣いていた。声にならない呻き声を上げ、両の頬を涙で濡らす。それでも力強く頷いた。リンドは心に固く誓う――この悲劇を忘れないように。そして、こんな悲劇を二度と起さないように、と。
リンドが落ちつくのを待っていたかのように、ネィル・フー・トゥーンは厳格だが温かみのある言葉で告げた。
「さて、我は帰るとしよう。この世界に姿を留め置くのも力が必要ゆえ、な。だが、お前がイメージすれば我はいつでもお前の元へと現れよう。いいかリンド、それは無から有を生み出すという事に近い。我を呼びたいと願うならば、水が湧き出るイメージ。それを忘れるな……」
微かに青白い光が揺らめいたと思った瞬間、リンドの右手に携えられたネィル・フー・トゥーンが霧のように消えていく。いつの間にか、その存在を視界に認めてはいても何も聞けずにいたユアンとトーノは、その剣が消えて行くのを見て、そろって「あっ」と声を上げる。
「姿は見えずとも、いつも心は繋がっているぞ」
霧のように消えた後で、頭に響いていたネィル・フー・トゥーンの声に応えるように小さく頷いた後で、ユアンとトーノの方へとリンドは向き直った。
「大丈夫。いつでも助けに来てくれるってさ」
力なくも微笑を灯したリンドの顔を見て、安堵の表情を浮かべたユアンとトーノも頷く。
三人は、三人だけとなってしまった公園を歩き始めた。ようやくにして目覚めた男の姿も今はなく、それに併せてトーノが記憶を取り戻すヒントも無くなってしまった。それでも今は、生きるという事が何より先決だ。三人は一路、如月高校を目指す。
如月高校への近道たる公園の出口を覆っていた針葉樹の群れはそのほとんどが枯れ落ち、今やバリケードとしての意味を成していなかった。
木造の長い階段を昇り終えた時、傍らで木々が擦れる音がする。見ると枯れかけの針葉樹が絡みつき、身動き出来ずにいる少女がそこにいた。もはやネィル・フー・トゥーンの刃に頼る事無く、簡単に抜け落ちた枯れ木の中から出て来た少女は、「お母さんとはぐれた」と言って、思い出したように泣き始める。
安心させるように泣き止むまで待ってから、トーノが手を握って歩き出す。胸元の名札を見る限り、少女は近隣の小学校の三年生らしい。
「この命は必ず守ってやらないとな」
リンドの顔を見るでもなく呟いたユアンに、リンドが「ああ」と応えた。
2
公園を抜けて如月高校へと向かう道中、正体の知れぬ連中がバクと呼ぶ、ピンク色の肉の塊の姿は見えない。住宅街のしんとした情景は一時の安堵感と共に、ここいらの人間は皆食われてしまったのではないか、という一抹の恐怖を連想させた。
間もなく如月高校の正門が見えてくるという十字路まで来たところで、リンドは立ち止まる。それを見て、予想はしていたが少し曇りがちな顔でユアンが訊いた。
「……なぁ、リンド。とりあえずゲッコーに寄ってからでも良いだろ? ……ひょっとしたら、ゆかりちゃんもゲッコーに避難してっかもしれないしさ」
ユアンの気遣うような申し出に、だが、リンドは小さく首を振った。
「いや、ここまで来たら俺は清南に行くよ。ゆかりならまず自分の学校に避難すると思うしさ」
リンドの顔を真っすぐに見つめたトーノが、自分の決心を伝えるように小さく頷く。
もちろんユアンも一緒に行くつもりだった。だが、トーノの影で小さく震える少女をまず安全な所に連れて行く事、それが自分の仕事であると理解している以上、一緒に行けないのは明白だった。ユアンはそれ以上何も言わず、リンドの顔を見た。
リンドが気付いているかどうかは別として、ユアンは今、リンドをトトラの兄であるヒリュー先輩に会わせたくはなかった。ゲッコーでヒリューと鉢合わせでもしようものなら、一人責任を背負っているリンドが何を言い出すか分かったものじゃない。
それに関しては少し時間を置いた方が得策かもしれないな――、内心で結論付ける。ユアンはそこまで考えた上で、何も言わずこの十字路で黙って見送る事にした。
「じゃあ、ここでお別れだな」
それだけ告げるとユアンはトーノの影に隠れる少女の右手をしっかりと握る。
「ああ 、またな」
リンドは友への別れを告げると、決して後ろを振り返る事なく十字路の左へと足を踏み出す。小さく微笑みながら少女に手を振って、トーノもその後を追って歩き始めた。
尚更に強く少女の手を握ると、ユアンもまた見送ることなく如月高校へと向けて歩き始めた。
道中、ユアンはリンドとの思い出に、思いを巡らせる。
下品すぎる程の金髪に染めた頭を、性格以上に尖らせていたユアンのヤンキー時代全盛の中学二年。転校先の伏姫中で、ユアンが人生初の敗北を喫した相手。別に不良でも何でもないのに、背が高くて目立ったという理由だけで絡んだ相手がリンドだった。
それからは何かにつけてリンドを巻き込んでの喧嘩の日々。コンビを組んでは連戦連勝の毎日に、贈ったユアンからのとっておきのプレゼント――
「――『悪来』って異名にも、心の底から迷惑してたっけな」
束の間のふわりとした空気と共に、ユアンは空笑を浮かべる。
と、その時。ユアンの右脇をリンドが駆け抜けていった。
「……は?」間の抜けた声を発している間に、ユアンが手を繋ぐ少女は駆けて来たトーノに連れ去られていった。間の抜けたように立つユアンに、リンドが大声を張り上げた。
「ユアン!! 逃げろ!!」
ユアンがちらりと後ろを覗く。今までどこに身を潜めていたのか、ピンク色の肉の塊の集団が迫って来ていた。
「リンド! お前、なんつー面倒事を連れてくんだよ!!」
一目散に駆け出したユアンが声を張り上げる。
「それは、お互い様だろ!」
前を行くリンドの返事を聞いて、先程まで想いを巡らせた数々のエピソード中に思い当たる節を幾つも見つけては、ユアンはぐう音のも出せなかった。
でたらめな四足フォームにも関わらず、バクの集団の足は速い。そのうちの一匹がユアンのすぐ背中まで来た時、ふいに声が響いた。
「もっと急いで!!」
凛と響いた声の主は探すでもなく、如月高校の正門の上に姿を現す。同時に正門が開いていくのが見えた。
ユアンが必死でスピードを上げた瞬間、正門の上に立つショートヘアーの女学生の手元が光った。
ユアンのすぐ後ろでパックリと口を広げたバクの脳天に矢が突き刺さると、その衝撃にバクは後方に二回転する。しかし、すぐに立ち上がると突き刺さった矢をあっさり抜いては口の中に放り入れた。美味いとも不味いとも、感情らしさもないような顔で再び駆け出したそれを追い抜くようにして二匹目、三匹目のバクが駆けて来る。それを背後に感じながら、トーノと少女にリンド。そしてユアンが正門の中へと飛び込む。
四人が無事に入る確認する間も与えずに、一際大きな体駆をした男子学生と、涼しげな顔立ちの男子学生が門を閉める。
間もなくして、固い門扉にバクが身体をぶつける音がこだました。
身体をぶつけては転がるバクを嘲笑うかのように中指を立てた後で、大きな体躯の持ち主が振り向いた。逆立てた緩めのリーゼントを少しだけ揺らしながら、彼は豪放に笑った。
「お前らも無事だったか」
精悍な顔には心からの笑みが浮かんでいた。
激しく息を切らすユアンは、こりゃタバコやめないとダメかな――、大した覚悟もない幾度目かの禁煙を考えては呼吸を整えるように大きく深呼吸した。そして安堵に胸を撫で下ろそうとした瞬間、そこでようやくユアンは自身の失敗に気がついた。
ユアンが油断していたのは命からがら逃げおおせたという事もあったが、満面の笑みを浮かべたリーゼントの彼の言葉に被せるようにして、先程から一言も声を発しなかった少女が突然声を上げたからだった。
「ママー!!」
見ると、若い女性が校庭を駆けて来る。女生は少女と瓜二つの容姿をした、幼子を抱きかかえていた。その女性と少女、そして双子であろうもうひとりの少女は、三人で固く抱き合う。
微笑ましく眺めていたユアンの耳に、人の殴られる鈍い音が聞こえた。しまった――、と思った時にはもう遅かった。ユアンが急いで振り返った先で、心からの笑みを浮かべていたはずの学生の顔は、一転して憤怒に包まれていた。
「ああっ! 今なんつったリンドォ!!」
殴られて地面に倒れたリンドが、上半身を起こす。切れた口の端から血の滴る唇を動かし、声を発そうとした瞬間、ユアンがその前に立った。同時に涼しげな顔立ちをした学生は冷静な表情を崩さぬままで、激昂する学生を羽交い絞めにする。
「違うんですヒリューさん。リンドのせいじゃないんです! トトラが殺されたのはリンドのせいじゃないんです!!」
ユアンの悲痛な叫び声が響く中、半ばバリケードと化した校内に重ねられた机から飛び降りたショートヘアーの女学生が呟く。
「……トトラが……死んだ……」
彼女が大きく見開いた瞳を見た時、如月高校三年、ヒリューこと丙戸虎男は、改めて現実を思い知らされたように顔を青ざめさせた。愛する弟の死を――。
羽交い絞めにされた腕を振り解く力も失せ、少しだけ声のトーンは低くなりながらも激情に任せて言葉を吐き出す。
「あの、バケモノ共に……やられちまったってのかよ」
ユアンが、ヒリューの視線を受け止める。
「……いえ、姿は人間でした。でも化け物には違いなかったです。トトラは、そいつから生えてた……肉の一部に、されて、しまい、ました」
正直な話、『あれ』をどう伝えれば良いのかユアンには分からなかった。ユアンは自分の目で見た事をありのままに伝えるしか出来なかったが、今はもう、現実や常識というものが壊れてしまっている。弟の死体すら取り返せないという現実を叩きつけられた以上、ヒリューもそれ以上は詳しく尋ねなかった。
「そんで、そいつは、トラを殺したヤローは何処にいる?」
ユアンが答えるより先にリンドが力なく呟く。
「俺が……殺しました……」
暗く沈み込むリンドの顔を見て、ヒリューはそれ以上何も言わなかった。ただ、怒りのやり場を見出せないように校内を覆うコンクリートを激しく殴り付ける。ヒリューの固く大きな拳から血が滲んだ。
足どりに力もなくヒリューが去っていった後で、涼しげな顔立ちにサラサラのストレートヘアの学生がリンドに声を掛けた。
「リンド……あんまり自分を責めるなよ。事態が事態なんだ。お前たちが助かったことが、素直に俺は嬉しいよ」
涼しげな顔立ちに微笑が灯るのをリンドは見上げていた。
「ハッチの言う通りだぜ、リンド。俺らが生きてるってこと自体、まるで奇跡だよ」
ユアンが溜め息交じりに言うのを見て、如月高校一年、ハッチこと――蜂谷白鐘は頷いて見せた。
リンドやユアンと同級のハッチは、リンドと同じ如月高校普通科一年C組の学級委員長だ。
と言っても、ハッチが学級委員長に初めてなったのは中学一年のことで。それから四年続けて中学から高校へまたいでも学級委員長に任命されるのは彼の人柄、つまりは品行方正、文部両道を備えた彼の人格たればこそ。元々一目置いていたユアンが、そんな彼をなおさら意識するようになったのは、中二の冬のある事件を通してである。
その日、ユアンたちの通う伏姫中の長年のライバルたる岸波中からの決闘の申し出を謹んで受けると、一人盛り上がるユアンに思いの外リンドは冷たかった。
「バッカ、そんなの罠に決まってんだろ。何人待ってるかも分かんねーのに、のこのこ連中の待ってる所に行くわきゃないだろ」
岸波中の連中に呼び出された河川敷周辺の、ユアン直筆による手描きの地図を広げての作戦会議に加わる素振りも見せないリンドに対して、「人でなし」だの「薄情者」だのと声を荒げていると、ひょっこりその輪に加わったのが、争い事にはとんと縁のないハッチだった。
「ふーん ……なるほど、ここに十人いるとしたら……まず、ここに……」
……。
ユアン手書きの下手くそな地図の上で、シュミュレーションを始めたハッチの一声一声を聞き終えて、瞳を輝かせると既に勝った気のユアンは教室を飛び出して行ってしまった。
結局、予想よりも待ち構える連中は多く十二人もいたが、何のかんので駆けつけて来たリンドと二人で蹴散らしてやった。もちろんそれとて、ハッチ直伝のヒット&アウェーと地の理を活かした作戦があればこその勝利である。
それ以降、ユアンはハッチの事を『軍師』と密かに呼んでいる。困った時に相談すると以外に乗り気で策を授けてくれる(その度にリンドは余計な事を教えるなよ、と嘆いていたが……)軍師と、何のかんので助けに来てくれる『騎士』のおかげで、伏姫中の狂れた王様こと、狂王ユアンは伏姫中の暗黒史に栄光あるその名を刻んだ。
……そして同時に、その全てがリンドすれば人生の汚点として刻まれてしまったのだった。
ユアンとハッチの姿をぼんやり眺めるリンドは、そこに今まで当たり前にあった『日常』を思い描いているようだった。
リンドが心の整理をつけるのを待っていたかのように、ショートヘアーの少女がハッチの励ましを継いだ。
「そうだよ。だからリンドはしっかりしなきゃダメだよ。ユアンはリンドの足を引っ張る事しか出来ないんだから」
あまりに悪意のないその言葉にユアンが声を荒げる。
「かーぎーるゥ!! 誰が足引っ張ってるだと!?」
きょとんとして、猫のような大きな瞳をしばたかせた後で――風早かぎるは、両手を腰に当てる。不揃いのショートヘアーは、好きな雑誌のモデルを意識したというアシンメトリー風。やや明るめのオレンジ色をしたその髪の下、表情は得意満面。自分より少しだけ背の高いユアンの顔を見上げた。
「あれぇ、さっきあたしに助けられたのは誰でしたっけ? あたしが助けてなかったら、ユアン今頃、化け物の腹の中よ。ペロリってさ」
誇らしげに話すかぎるに、待ってましたとばかりにユアンが口を尖らせ舌戦を開始する。
ユアンがかぎるに素直に「ありがとう」と言えないのは、いつもの事だが、今回もあくまで屁理屈で押し通す気らしい。いつもの何気ないやりとりに、少しだけ張り詰めていた気が緩まる。
「ところで、かぎる……」リンドが声を掛けると、目を吊り上げていたかぎるの表情が一転して曇る。リンドの質問を即座に理解した様子だった。
「ゆかり、でしょ。あたしが見て回った限り、ゆかりは如月には居ないみたい」
リンドは静かに「そうか」とだけ答えた。最初から清南高校を目指すつもりのリンドにすればそれは想定内のことではあったが、
「今度はあたしの質問」
リンドの気持ちを少しでも晴らそうとしているのか、かぎるは努めて明るい声音で話す。そして、再び大きな瞳で興味深そうに傍らの少女を見つめた。
「ああ、そうだ、紹介がまだだったな」
張り切って声を上げたのは、なぜかユアンだった。
「聞いて驚け! 道すがら手に手を取り上っては、互いに励まし合いながら逃げてきたこの人は水鏡遠野さん。制服を見てもらえば分かる通り、セーラー部門今年度オレ一押しの凰華の学生さんだ!!」
「黙れ、制服フェチ」ユアンを一瞥した後で、かぎるは満面の笑顔で右手を差し出す。
「あたし早風かぎる、かぎるって呼んで。ヨロシクね、トーノちゃん」
トーノも微笑み、握手を交わした。
初めて会った時から分かっていたことではあるが、風早かぎるには人見知りという概念は存在しない。ついでにいうなら遠慮もない。トーノと二人、ガールズトークにでも突入しそうな勢いのかぎるにユアンが声をかけた。
「でぇ、かぎる。ここは今どうなってんだ? それに、まあ、一応聞いといてやるけど、あんなに自慢してたあのジャージ、化け物の騒ぎのどさくさでどっかいっちまったのか?」
かぎるは彼女のトレードマークとも言うべき、いつも羽織っていたライムグリーン色のジャージを着ていなかった。かぎるにしては珍しく、如月高校指定のピンク色のラインの入った黒のワンピースタイプの指定制服だけを着ている。
「避難してきた人達は体育館に集まってるよ。最初慌ただしくなり始めたのは七時半より前だったと思う。それからは生徒も近所の人も如月に駆け込んで来たんだ。あたしは訳も分かんなくてウロウロしてただけなんだけど、ハッチがテキパキと指示して守りを固めたり、逃げてくる人を助けたりしたの。ハッチ、凄かったんだよ」
かぎるはハッチの顔に視線を送ったが、「全員は助けられなかった」と呟くハッチの顔には疲労と後悔の色が浮かぶだけだった。
「あたしのジャージは、消えちゃった……」付け加えるように話したかぎるだったが、その後で困惑した表情を浮かべる。長い付き合いから、続きがあるのだと理解したリンドとユアンは静かにかぎるの言葉を待つ。
「……蒼姉も一緒に消えちゃった」かぎるの両の瞳に涙が滲んだ。
佐々木蒼は伏姫中時代からのリンドたちの一つ先輩で、日に焼けたスラリとした身体にショートヘアーの良く似合う女性だった。特に中学時代は同じ陸上部に所属していたかぎるにとっては本当の姉妹のような間柄だった。そして、姉御肌の彼女に美作ゆかりも良くなついていた。
ユアンが「最初から話してくれ」と声をかけると、両の瞼を擦ってかぎるは小さく頷いた。
風早かぎるは、佐々木蒼に呼び出されたのだという。
如月高校入学と共に高らかに文化系少女デビューを宣言したかぎるだったが、蒼は陸上部期待のホープとしてかぎるを執拗なまでに勧誘し続けていた。内心では、天真爛漫さと足が速いことしか取り得が無いんだから陸上部に入ってやれば良いのに――と思ってはいたが、リンドはそれを口にしなかった。
口にしたのはユアンだけ、である。
かれこれ、そんな状態がしばらく続いていた折「昨日の夜、蒼姉から電話があったんだ」とかぎるは続けた。
明朝、如月高校校庭での百メートル一本勝負――。
負けた人間は、勝った人間の言う事をなんでも聞くこと、との申し出をきっぱりと受け、巌流島の決闘よろしく乗り込んだというかぎるを見て、やはり根っからの体育会系じゃないかお前は――、内心で思いつつリンドとユアンは、珍しくかぎるが早朝から登校した理由に納得した。
如月高校では学級委員長が生徒会の役員も兼ねる。この度、生徒会の会計に任命されたハッチが朝から業務に追われるのは別として、普段のかぎるならリンドたちとのんびり登校している筈だった。
「……それで、校庭に行って、先に来て待ってた蒼姉に挨拶した所で、学校の外から悲鳴やら叫び声が聞こえ始めて、それからあっという間に駆けてきた人たちでグラウンドが埋め尽くされたの。五分と経たないうちにハッチが来て指示を出してくれたのと、丁度そこにヒリュー先輩が駆けつけて怯えてた男連中をしっかりさせてくれたのは本当にラッキーだったと思う」
ヒリュー先輩がしっかりさせてくれた。その荒療治の風景をリンドとユアンはまさにしっかりとイメージできた。しかし、早朝から駆け付けて来たのがまさかヒリュー先輩とは――、そんな二人の疑問をかぎるはあっさりと解決する。
「ヒリュー先輩、昨日は徹夜でバイトだったんだって。それで、バイト先から登校して学校で寝るつもりだったみたい」
なるほどと思う反面、そんなバイト先絶対年齢をごまかしてるな、と二人は当たりをつける。
「ようやく騒ぎも落ち着く頃にはもう蒼姉の姿は見えなくなってたの。学校中探したんだけど、何処にもいないの……」
蒼姉との対決を目前にして格好良く抜ぎ捨てた (その後ですぐたたみ直したらしいが)モデルのクロエちゃんが雑誌で着ていた (らしい)お気に入りのライムグリーンのジャージと共に、佐々木蒼は風早かぎるの前から消えてしまった。
はっきり言葉にしてしまうと、尚更にかぎるの表情には不安の色が灯っていく。
「でもな……」そうユアンが口を開いたのは、周囲を沈黙が覆う間際の事だった。
「……でもな、かぎる。こうして見るとゲッコーの制服もなかなか似合ってるぞ」
その場にいたリンド、トーノ、そしてハッチは唐突なユアンの一言に唖然となる。
その場違いな台詞は、聞く側によれば、全くもって無神経極まりない言葉。しかし、涙が零れ落ちる直前にユアンから発せられた台詞に、かぎるは「ユアンの制服バカ」と言って無邪気に笑った。
3
リンドは教室の自分の席に腰掛けた。
気を取り直したかぎるは、まるで文化祭気分で校内を案内してあげると言ってトーノを連れ出していった。ハッチとは教室の前で別れ、ユアンはいつの間にか姿を消している。
リンドはぼんやりと何も書かれていない黒板を見つめた。いつもの何も変わらぬ日常が始まる筈だった教室には、リンドの他には誰もいない。
静とした教室にふいにリンドのお腹の音が響いた。そう言えば朝から何も食べてなかったな、何の事もない反応にリンドの口元が少しだけ緩む。
時刻は昼過ぎ、束の間の休息に脳内の一部はまだ緊張感を保っていたが、身体は実に正直だ。
思い出したように机の脇に掛けたショルダーバックのジッパーを開けていると、丁度そこにユアンがやってきた。ユアンが汗だくになったシャツから、購買から失敬してきたらしい白い開襟シャツに着がえ終わる頃、校内を一回りしたかぎるとトーノがやってくる。
目ざといユアンが、夏服らしき薄灰色をした半袖セーラー服姿のトーノに声をかける。
「そう言えばトーノちゃん。寒くない? 俺のカーディガン貸したげよっか?」
「そんな汗臭くてセンスの悪いの、トーノちゃんは着ないって」
冬使用の黒いワンピースタイプの制服を着たかぎるの即答に、いつもの口喧嘩を始めた二人を見てリンドは溜め息をついたがその顔は穏やかだった。
リンドがショルダーバックから取り出したアルミ製の箱を見て、トーノが訊いた。
「お弁当?」
リンドは小さく頷き、箱を包む布の結びを解く。フタを開いた弁当の中身は、激しい揺れに抗えなかったようにグチャグチャだった。
「何か食べる?」リンドが尋ねると、「校庭の炊き出しで豚汁を食べてきたから」とトーノが小さく首を振る。口喧嘩の際中だというのに、お呼ばれしてもいないというのに、「俺も」「あたしも」とユアンとかぎるもトーノに倣った。
リンドは唐揚げを口に運ぶ。グチャグチャになってはいてもそれはやはり母の味だった。込み上げてきた感情に。すんでのところで踏み止まる。こうやって一瞬の安寧の中にいれば、やはり父と母の安否が気に掛かる。しかし、トーノは安否以前に父と母の顔すら分からないのだ。
リンドが見上げる。トーノがユアンとかぎるのやりとりを愉しそうに眺めていた。
「トーノ、やっぱり何か食べない?」
自然とリンドは言葉を発していた。リンドの自然な言葉にトーノも自然と振り向く。「やっぱり、分かった?」照れるような表情を浮かべた。
「実は卵焼き、おいしそうだなって見てたの」
リンドが差し出した弁当箱からトーノは卵焼きを取ると口に入れた。
「んーっ、おいしいーっ! リンドのお母さんって料理上手なんだね」
実は卵焼きはオヤジが作ったんだよね――、とはリンドも続けなかった。ただ、キラキラと眩しい笑顔を浮かべるトーノを戸惑いつつも見つめていた。
4
今を生きる者たちの日常と、すぐ傍にある非日常。そのどちらもが現実で、同じ空で繋がっている。そして、そのどちらにも陽光は降り注いでいるのだろう。
戦争だとかテロだとか、解りやすい言葉で片付けてくれる何かなら、もう少しやりようもあると思う。つまりは何を決意するか、という意味では。
だけど如月高校を覆った外壁の外からは物音ひとつ立つこともない。何かが爆発するだとか、銃声の音がするとか、そんな事もない。ともすれば調和と呼べなくもない静寂。それでもきっと、静かに、ゆっくりと終わりは広がり始めている。
校庭には見張りを交代で行う生徒の他に、幼子をあやす若い母親の姿が見える。張り詰めた空気には誤魔化しようが無いが、そんな現実など知る由もないその小さな男の子は赤い頬を緩ませながら、母親の腕の中で笑っている。
空は悲しい程に青かった。
指にかかる水飛沫の冷たさにリンドが視線を戻すと、校庭脇の水道で注ぐペットボトルから水が溢れていた。蛇口を閉めると間もなくして、トーノとユアン、そしてかぎるがやってくる。
「危ないから、かぎるはここに残れ」
どこからか持って来たモップを手にユアンがそう諭していたが、かぎるはあっさりと断った。
「なーに言ってんの。そんなモップ持ってるユアンよりあたしのが役に立つって」
かぎるの手には弓道部から拝借してきた弓が握られている。肩に掛けた矢筒には矢が七本見て取れた。それはもちろん、先刻ユアンの命を救ったものだった。かぎるが弓道部に所属していた経緯はない。それでもあの腕前を見る限り、それなりに物にしているらしい。
「かぎる、お前な。弟もいんだろ? まさかひとりでゲッコーに置いてく訳にはいかねーだろ。いくらかぎるが薄情な姉ちゃんだってよ」
口を尖らせるユアンに、ふふんと鼻を鳴らすかぎる。
「確かに『ちふる』は泣いてばっかりだし何かといえばグチばっかりだけどね、ここにいれば安心だし、ちょっとくらいお姉ちゃん離れした方があの子のためなのよ。そりゃあいつだって優しいお姉ちゃんとしては、多少胸が痛むけどね」
「お前、それって単にちふるの面倒見てんのが嫌になっただけじゃねえの?」
うっと言ったきり、口笛なんて吹き出すかぎる。
ちょっとばかりの気分転換にでも出かけるようなかぎるに、言葉もないリンド。とはいえ、頼りなげなモップを手にするユアンも命を救ってもらったという手前、それ以上は何も反論出来なかったので、今回は恒例の痴話喧嘩は見ずに済んだ。ユアンはただ小声で、「文化系少女の夢は当分先になりそだな」と呟いただけだった。
こうして新たな仲間を加えたパーティだったが、どうやらそれは一人ではなかったらしい。
「リンド、俺も行くぞ」
ふいにかけられた声へとリンドが振り返ると、そこにヒリューが立っていた。
「さっきは悪かったな……美作を助けに行くんだろ? 人伝に聞いた話だが、清南高もこ事同じ様にバリケードを築いてるらしい。とは言え、安心は出来ないもんな」
少し照れくさそうに謝罪するヒリューに戸惑いつつも、リンドは承諾出来ずにいる。
「俺達を心配してくれるのはありがたいですけど、ヒリューさんが居なくなったらここは……」
「ゲッコーは蜂谷がいれば大丈夫だ。それにな、リンド俺が一緒に行くって言ってんのは、何もお前らが心配ってだけじゃないんだ……」
ヒリューはすかさず反論し、リンドの瞳を真っすぐ見据えた。
「トラを殺したヤロウはリンドが敵を討ってくれた。だけどな、そもそもトラが殺されるような世界にした野郎が残ってる。俺は何としてもその野郎をぶっ殺さなきゃなんねー。その為にはいつまでもゲッコーにこもってる訳にはいかねーだろ?」
ヒリューの瞳が厳しくなるのを見て、一瞬たじろいだリンドが「それでも残るべきだ」と口を開きかけた矢先、ユアンが肘でつつく。「こんなに頼もしい味方はないって、リンド」そう耳元でそばだてた次の瞬間には、ユアンは両手を広げてヒリューの加入を歓迎していた。
ユアンの手際の良さに呆れつつも、知る限り一番心強い味方を得たという事実はリンドにも違いがない。少し複雑な表情を浮かべつつも「ヒリューさん、宜しくお願いします」そう言ってリンドは右手を差し出す。その掌をヒリューは固く握った。
校庭の門扉が固く閉ざされていく。門が閉じ切る瞬間のほんの小さな隙間の向こうで、ハッチが無事を祈るように小さく頷く。
恐る恐る如月高校の外に出た一同の見渡す限り、バクと呼ばれたピンク色の塊の姿は見えない。如月高校を後にして数歩、先頭を行くヒリューは不意に立ち止ると振り返った。そして、後に続く四人へと激を発した。
「いいか、こっから先は殺るか殺られるかの戦争だ。あのピンクのデブだけじゃなくトラを殺したっつー人間もどきのバケモノ、それに理性を失った連中が襲ってくるかも知れねぇ。躊躇してたらこっちが殺られちまう。油断も情けも禁物だぞ!」
鬼軍曹ばりの厳しい言葉に身を凍強張らせつつも、その言葉には頼もしさが感じられる。それは先陣に立つ男の勇敢さと優しさを知っていればこそだ。その風貌から常に粗野で無骨もののイメージが定着してはいても、町内が同じリンドやかぎる、そしてここにはいない美作ゆかりにとって、いつの時もヒリューは子供の頃から良き兄貴分だった。
ヒリューの激も終わり、後は誰かが出発の音頭を取るばかりとなった。
目的地は美作ゆかりがいると思われる清南高校。いや、確実にいる、その決意を表明する為にもそれを公言するのはリンド意外にはいない。それが分かっていればこそにユアンも、トーノも、かぎるも、皆がリンドに視線を預けた。
しかし結局、それをリンドが口にする事はなかった。
四人の目前でヒリューの上半身が消えて無くなった。刹那の出来事だった。




